自分安全第一
この男にとって、この世で最も優先されるべきものは自分自身だった。彼の皮膚、彼の内臓、そして彼の精神。これらを脅かす危険から身を守ることが、人生における唯一無二の義務であると決め込んでいた。
昔からそうだった。例えば、学生時代の体育の授業だ。ドッジボールで思いきり球をぶつけ合い、サッカーで転ぶリスクを冒す連中の気が知れないと見下し、彼はいつも体調不良を理由に木陰で軽い体操をするに留めていた。
社会に出てからも、少しでも残業が重なれば即座に退職届を叩きつけた。胃の痛みや睡眠不足などという、回復不能かもしれない損傷を受けてまで稼ぐ金に、一体何の価値があるというのかと。
周囲からは幾度となく「弱虫」「意気地なし」と罵られ、「周りと同じことができないのは協調性がない」とまで言われたが、彼はただの一度も耳を貸さなかった。痛みに耐えることを美徳とし、負った傷を誇らしげに見せ合う社会の方が、圧倒的な集団狂気である。自分の危機管理能力こそが、生物として最も洗練された知性なのだと自負していた。
しかし、不幸な事故というものは不意を突いてくる。それは、彼が人生で最も安全だと思い込んでいた自室でのことだった。
その日、彼は全身を切り刻まれるほどの重傷を負った。身体のあちこちから、かけがえのない命の泉がとめどなく漏れ出している。呼吸が浅くなり、視界が明滅する。全身の毛穴が開き、心臓は爆発しそうなほど暴れていた。
皮膚という防壁が破壊された今、宙を漂う無数の細菌、カビの胞子、未知のウイルスが、むき出しの肉から血管へ雪崩れ込んでいる違いない。破傷風か、敗血症か、あるいは壊死性筋膜炎か。男の豊かな想像力が絶望の未来をひっきりなしに描いた。毒素が静脈を駆け巡り、あと数時間もすれば、自分は多臓器不全で人生が終了してしまうのだと泣いた。
「誰か! 助けてくれ! 私が死んでしまう!」
彼は自室を転げ回り、窓を開け放って、喉が破れんばかりに叫んだ。激しい過呼吸に見舞われる中、床をのたうち、迫り来る死の恐怖に涙と涎を撒き散らして助けを乞い続けた。
やがて遠くからサイレンの音が響き、ドタドタと複数の足音が階段を駆け上がってくる。到着した救急隊員たちに押さえつけられながら、彼は「早く優秀な医者のところへ連れて行け、この汚い空気から私を救い出せ」とわめき散らした。そして、けたたましいサイレンとともに運ばれていった。
次に意識がハッキリしたとき、彼は真っ白な部屋にいた。本人は天国にいるのではないかと思った。
壁も、床も、天井も、すべて継ぎ目のない柔らかなクッション素材で覆われている。尖った角などどこにもない、徹底的に配慮された空間だ。壁に分厚いアクリルの覗き窓があるだけで、家具などもない。衣服だってボタンや金具の不要な、肌触りの良い純白の寝間着である。
彼は柔らかい壁に身を預け、深い安堵の息を吐き出した。
外の世界はあまりに危険に満ちていた。尖った石、菌に支配された空気、悪意のこもった視線。それに比べて、この部屋のなんと平穏なことだろう。ここには彼を脅かすものは何もない。すべてが安全だ。
分厚いアクリル板の向こう側で、施設の職員二人が白い部屋の中を観察していた。
「新しく入ってきたあの患者、ずいぶん大人しいですね」
若い職員がカルテを見ながら言った。
「ああ。と言っても、あんなふうに全身包帯だらけでは、動きたくても動けないだろうがな」
中年の職員が呆れたようにため息をつく。
「それにしても、どうしてあんな大怪我を。ひどい交通事故ですか?」
「いや、自分でやったんだよ」
「えっ、まさか自傷行為ですか?」
「違う。セロハンテープだよ」
「なんですって」
「テープを切ろうとして、あのカッターのギザギザの部分で指先をほんの少し切ってしまったらしいんだ。それでパニックを起こして、部屋の中で暴れ回り、本棚をなぎ倒したり、窓ガラスを割ったり。結果的に、全身におよぶ大怪我を負ったのさ」
「指先の切り傷一つから、ですか。扱いが難しそうな患者ですね。そりゃ、世の中の安全のために隔離しておきたくもなります」
若い職員は苦笑し、再び覗き窓の向こうへ目を向けた。包帯でぐるぐる巻きにされた男は、満身創痍の痛ましい姿にもかかわらず、どこか誇らしげな笑みを浮かべ、クッションの壁にすり寄っている。
その左手の人差し指には、小さな絆創膏がひとつ、丁寧に貼られていた。




