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文字くずの山  作者: あさもっど


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14/22

熟読贋味

 長きにわたる沈黙の末に出版された単行本は、書店の平台にうず高く積まれた。気取らない厳かな帯には、書評家たちの賛辞が並び、ネット上でも読後の感想が徐々に飛び交い始める。

 著者である男は書斎の椅子にぐっと腰掛け、タブレットの画面に指を滑らせた。


「人間の業を炙り出す類まれなる傑作」

「複雑なメタファーに、深い哲学」


 男は整然と並ぶ文字の群れに視線を落とし、マグカップに口をつける。お気に入りのコーヒーの苦味が、心地よく喉の奥に落ちていった。

 外との接触を絶ち、肉体と精神を削って絞り出した数万行の文字列。絡み合う不条理の糸を、世間はようやく紐解いて味わうことができるようになったらしい。

 男は満足気に息をこぼし、窓の外に広がる青空を見た。もう少しだけ、この解放感に浸っていようという心持ちである。


 週末の大型書店は、熱気を帯びていた。特設スペースにて開催されているサイン会イベントの席に座って、男はファンの行列を迎え入れる。

「学生時代からずっとファンでした。今回の新刊も最高でした」

 先頭にいた若い女が、上ずった声で言った。その態度から察するに、お世辞ではないらしい。

「ありがとうございます。ちなみに、どのあたりが印象に残りましたか」

 男は差し出された真新しい本の表紙を開き、ささっとサインを書き入れる。

 若い女性が気に入るとすれば、避けられぬ孤独を描いた第三章か、あるいは信仰と狂気が交錯する終盤か。

「主人公が海辺のダイナーで、トマトソースのパスタを食べるシーンです」

 女は身を乗り出し、目を輝かせた。思いもよらない回答だった。

「もう、すごく美味しそう描写で。あそこを読んだ日の夜、すぐにイタリアンレストランに駆け込んじゃいました」

 そうでしたかと、男は頬の筋肉をかすかに引きつらせ、曖昧に頷いた。あのパスタは、主人公が罪悪感をごまかすために流し込んだ、血と泥の暗喩だったのだが。

 次に進み出た中年の男は、本を大切そうに抱きかかえていた。

「装丁が素晴らしいですね。この薄いブルー、私の部屋のカーテンとまったく同じ色なんです。運命を感じて、観賞用と保存用に二冊買いました」

 内容についての言及は特になかった。

 その後も列は延々と続いた。

「なんだか、とってもエモい気分になれました」

「登場人物の言葉が、今の私の悩みに寄り添ってくれているみたいで、泣いちゃいました」

 男は機械的にペンを走らせながら、耳に届く言葉を処理していく。

 ファンが熱心に語るのは、物語の表面を撫でて付いた埃のようなものばかりだった。苦心して構築した思想的な問いかけにも、細部まで計算した心理の変容にも、誰も触れない。

 彼らは活字を追いながら、そこに自分自身の好物や、部屋のインテリア、手頃な感情の起伏を見つけて喜んでいるだけだったのだ。


 重い足取りで書斎に戻った男は、デスクに置かれた自身の著作を一瞥し、それを引き出しへ押し込んだ。

 きっと、自分の提示した迷路が、読者には複雑すぎたのだろう。暗喩を散りばめた文章が、彼らの目を眩ませ、本質から遠ざけてしまったに違いない。

 男は自分を納得させ、すぐさま新しく立ち上げたテキストファイルに向かい、キーボードの上に指を置いた。

 まずは、複雑なメタファーを捨てる。哲学的な問いかけも、心理描写も必要ない。そもそも、求められてもいないのだから。

『男は朝六時に目を覚まし、ベッドから出た。』

 画面に並ぶ文字は、極めて平坦、中身なし。

『窓を開けて風を感じ、台所へ向かう。やかんを火にかけ、沸騰した湯をカップに注いだ。ゆっくりと白湯を飲み干し、一息つく。』

 余計な修飾は削ぎ落とす。

 物語の起伏も、登場人物の葛藤も仕込まない。

 平凡な日常の動作を、時系列順に並べる。

『時計を見ると、時間は夜の十一時。男は部屋の明かりを消した。布団に入り、目を閉じる。』

 思いつくまま、ほんの数十分で出来上がった短編を、男は何度か読み返した。

 どこにも深みなどない。裏読みを促す仕掛けも、心を揺さぶる展開もない。底の浅い、透き通った水たまりのような文章だ。これなら、誰も誤解のしようがない。

 男は短く空気を吐き、そのファイルを編集者宛てのメールに添付して送信ボタンを押した。


 数週間後、文芸誌に掲載された何の変哲もない短編は、瞬く間にファンの間で拡散された。

「洗練された描写の裏に、どれほどの孤独が隠されているのだろうか」

 男はタブレットの画面に映る、いやに長文のレビューを読み、目をパチパチさせた。

「白湯を飲むだけという、何気ない行為。これは、過剰な刺激に溢れ、本質を見失っている現代社会に対するアンチテーゼに他ならない」

 スクロールする指が止まる。

「無の中に有を見出す。行間から言葉にならない感情が押し寄せてきて、なぜか涙が止まらなかった。無駄に気取らない、至高の文学である」

 男はたまらなくなって、タブレットをデスクの上に伏せた。

 窓の外では、夕暮れの空が鈍色に染まっている。


 彼らが見ているのは、文章という体裁の鏡だ。

 キャンバスが提示されると、彼らはそこに妄想と手頃な自己陶酔を塗りたくり、その結果を見て感動したと声を上げる。余白を作れば作るほど、彼らが入り込む隙間は広がるのだ。

「考えてみれば、当然か。安易に自分の色を見せつけようとした私が愚かだったのだ。作品を作品たらしめるのは、作者ではなく受け取り手なのだから」

 喉の奥から、くく、と低い音が漏れた。それは次第に声帯を大きく震わせ、書斎を満たしていく。腹の底から込み上げる笑いは、しばらく止まらなかった。

 ひとしきり笑い終えると、男は立ち上がり、棚から新しい原稿用紙の束を取る。デスクの上に真っ白な紙を積み重ねた。およそ三百枚。本一冊分には十分な厚みだ。

 男は万年筆を握り、一番上の紙の中央に、タイトルだけを書き入れる。なんでもよかった。なので、ふと目に留まったパソコンの『マウス』にする。

 残りの二百九十九枚には、一滴たりともインクを落とすつもりはない。文字が一切ない、白紙を束ねた本。もはやメモ帳である。であれば、タイトルは『メモ帳』にすべきだったかもしれない。


 これは、読者への信頼であり、挑戦だ。

 何ひとつ書かれていないこの束こそが、彼らの底なしの妄想を満たす、最も読み応えのある物語になるであろう。

 男は束の端を揃え、滑らかな断面に目を細めた。

 彼らは、この鏡に何を見るだろう。

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