海底の視線
光も届かない深い海の底には、気の遠くなるような時間をかけて降り積もった、きめ細やかな泥が横たわっている。死んだプランクトンや鉱物の粉末が混ざり合ったそれは、一度沈み込めば二度と離してくれないほどに重たく粘り気があった。
私はその泥の中に身を埋めるのが好きだった。
深みの水圧によって全身を締めつけられ、己の輪郭が広い大地に溶けていく感覚は、日頃の自然の驚異を忘れさせ、何物にも代えがたい安らぎを与えてくれるのだ。
眼球の薄皮一枚を泥の外に残し、じっと息を潜める。そうして、ほとんど音の届かない環境の中、上を通過していくものたちを観察するのが、私にとっての娯楽だった。
眼前で揺れる青暗い水の塊は、まさに神秘の世界を優雅に描いてくれる空のようだ。であれば、泳ぐ魚たちは流れる星と言ったところだろう。
時折、青白い光を点滅させながら珍妙な魚が横切っていく。彼らはすぐ真下の泥の中に、自分たちを見上げる生き物が潜んでいることなど露ほども疑わない。クジラが悠然と通り過ぎるときは、水底全体が低く震え、その雄大な影が視界を塗りつぶした。
海の底で彼らを見送るたび、私は自分だけが自然から外れた世界にいるという、かすかな優越感に浸るのだった。
海がひときわ冷え込んだ日のことだ。私はいつも通りにこの趣味を楽しんでいた。今日は魚影が少ない。落ち着いた日なのだろう。おかげで、遠い光の揺らぎをじっくりと眺めることができる。
すると、水面から、ゆっくりと回転しながら落ちてくる影が見えた。あの動きは、魚でも海獣でもない。手足を大の字に広げている。やがてはっきり見える距離まで沈下してきた。
人間だ。暗くて曖昧だが、成長したオスの人間である。何があったのか、体のあちこちが無残に裂け、すでに息絶えているようだった。
男の開いたままの目が、奇しくも私の潜む位置のすぐそこで静止した。わずかな時間だが、正面から見つめ合う形となり、私は息を殺した。死体は何事も考えていないはずだが、今にも、何かを語りだしそうな目をしている。
私がどうするべきかと決めかねているその時、ちょうど脇の泥が、ぽこりと盛り上がった。おかしい、生き物の気配など今の瞬間までなかったはずだが。
気泡が一つ浮上した直後、泥の中からぬらりと何かが生え出した。それは、暗闇のせいで余計に白く見える、節くれだった異様な腕だった。たったの一本ではない。二本、三本と、草の芽が土を破るように、次々と飛び出してくる。
腕たちはまっすぐ死体の四肢を掴むと、水中とは思えないおぞましい速度で、泥の中へ引きずり込んだ。その勢いを示すように泥の煙がぶわりと辺りに舞い上がる。私は思わず目を閉じた。わずか十数秒ののち、海底は何事もなかったかのような滑らかな表面を取り戻す。
まさか自分と同じように、泥の中に潜んでいる者がいるとは。ぼうっと見上げているだけの私とは、趣味嗜好がまるっきり違うようだが。
しばらくして、再び水面が激しく濁り、無数の影が降り注ぎ始めた。海面で何か、大きな災厄が起きたのだろうか。十、二十、もっとだ。目では数え切れないほどの人影が、手足を投げ出して次々と沈降してくる。中には動いている者もいたかもしれない。だが、それを確認することはできない。
海底が一斉に波打った。エサを待ちかねた雛鳥のように、泥の下から、さっきよりもたくさんの腕が飛び出してゆく。どうやら、この海底は穏やかな自然として、そこにあるものではなかったらしい。海の外から落ちてくるものを待ち構える、ひとつの巨大な捕食者だったのだ。
泥煙があちこちで爆発する中、私は彼らを刺激しないように、そおっと泳いでその場を離れた。同じ人型である私も、いつ誤飲されるか分かったものではない。しばらくは近くの河にでも身を潜めていよう。




