アン・オリジナル
私はときどき、自分は何者なのだろうと思うことがある。
ふとした瞬間に、自分がまったく別の誰かになっているような、得体の知れない違和感を覚えるのだ。
私は本当に、私の考えを持ち、私の言葉で語り、私の意志で行動しているのだろうか。
たとえば、私の信条に「他人の感情の責任は取らなくてよい」というのがある。
こちらの言動に対して、相手がどう思い、何を感じるかはその人の自由であって、そこまで私が踏み込んで面倒を見る必要はない、という考え方だ。
私はつい先日まで、この考え方を自分の性質だと納得していた。
人間はそれぞれが、自分の感情に責任を持つべきなのだと決めきっていた。
だが実際のところ、私は他人の反応が気になって仕方がない。
相手の機嫌が悪そうだと、自分に何か不手際があったような気がするし、相手が悲しい顔をしていたら、その理由が気になってじっくり眠れなくなる。
そこで、思い直したのだ。
私のこの感情の責任についての考え方は、私のものではないと。
おそらく、他人の顔色を窺ってばかりで疲れた私が、どこかの誰かが書いたコラムや、世間で流行っていた心理学を、自分を守るための盾として拾い上げたのだろう。
己の弱さを隠すため、他人が作った耳障りのいい言葉を、自分の信条であると思い込んでいたわけだ。
この事実に気付いてから、私は自分を形作るあらゆる要素を疑うようになった。
そして私のあらゆる要素を一つ一つ抜き出し、その出所を探っていくうちに、驚くべき事実が発覚したのである。
私が好んで着ている無地の服。
これは本当に私の趣味か。
いや、学生時代に友人から言われた「君にはシンプルなものが似合う」という呪縛から抜け出せていないだけだ。
毎朝のコーヒーに砂糖をたっぷりと入れる習慣も、子供の頃に憧れた映画俳優の真似をしたのが始まりである。
仕事に対する効率主義も、新人の頃に配属された部署の空気を吸い込んだ結果に過ぎない。
私の言葉遣い、私の嗜好、私の価値観。
果ては、怒りや悲しみの表現方法に至るまで。
そのどれもが、親、友人、恋人、教師、あるいは通りすがりの他人や、メディアからの借り物ばかりである。
私の中から湧き出たオリジナルなど、見渡す限り一つも見当たらない。
私は戦慄した。
そして、自分が他人のカタログから選ばれた既製品で構成されている事実に、頭が重くなった。
ならば、すべての借り物を捨ててしまえばどうなるだろうか。
他人からの影響を排し、純粋無垢な自分を取り戻せるのではないか。
私は試みた。
借り物の服を捨て、借り物の嗜好を捨て、借り物の信条を捨てた。
世間のニュースや娯楽を遮断し、人との関わりも極力断ち切った。
他人の言葉を介さず、自分だけの純粋な思考を紡ぎ出そうと、部屋の真ん中でじっと目を閉じてみる。
しかし、結果は虚しいばかり。
何も残らなかったのだ。
そもそも、言葉という道具が社会との共有物である以上、私だけの思考などは、まず成立するはずがない。
何を思考しようとも、それを言っている誰かの声が頭の中で響いてしまうのだ。
さらには、「真の自分を見つけたい」という欲求自体が、世間の「個性」や「オンリーワン」というメッセージに影響された結果であることに気が付いた。
オリジナルな人間になろうとする試みなど、誰でも思い付くありふれたものなのだ。
なんということか。
人は結局、社会や他人から借り物をしなければ生きていけない。
私は疲れ、溜め息をついた。
何が自分で、何が他人なのか。
その境界線を引こうとする行為自体が、狂気の沙汰だったのだ。
人は誰かの言動を模倣し、誰かの感情に揺さぶられながら、つぎはぎのパッチワークを自分と言い張って生きていくしかないわけか。
私は押し入れの奥から、まだ捨てていなかった無地のシャツを引っ張り出し、袖を通した。
友人の影響だろうがなんだろうが、着慣れた布の感触は、輪郭が曖昧になった私を、確かに包み込んでくれた。
他人の感情の責任は取らなくてよいというあの受け売りの信条も、再び心の引き出しに入れておくことにする。
本当に他人を切り捨てられるかどうかは別として、借り物の上着を着込んでいる方が、社会の冷たい風をしのぐには都合がいいのだ。
私は私ではなく、私という他人の塊である。




