星見の丘に来たる影
夜明けの光と共に、山間の冷気が頬を刺した。
聖テレジア修道院跡を後にした二人は、朝霧の立ちこめる谷道を進む。空は雲ひとつない青。遠くで鳥の声が交わされる。昨夜の衝撃的な発見にもかかわらず、セシリアの胸は不思議と澄んでいた。足取りも軽い。
「今日はいい天気ね」
ティナが伸びをしながら空を仰ぐ。その無防備な仕草に、セシリアは思わず微笑んだ。
「はい。とても清々しい朝です」
山道を下ると、やがて街道に出る。のどかな田園が眼前に広がり、麦畑が風に揺れた。遠くの煙突から立ち上る白煙が、平穏な営みを告げている。
次の目的地は「星見の丘の古祠」──セオドアの記録に記された聖地のひとつで、最も近い場所だ。
「ところで」
歩きながらティナが口を開く。声音に、かすかな緊張が滲んでいた。
「昨夜から、なんとなく変な気配を感じない?」
セシリアは立ち止まり、振り返る。確かに胸の奥に、微かなざわめきがあった。
──誰かに見られているような。
「……たぶん気のせいよね。山の動物とか、そういうの」
軽く言いながらも、ティナの手は自然と腰のナイフへ伸びていた。《紅牙》で鍛えた直感が、何かの接近を告げている。
その瞬間。
セシリアの星神印が、鋭い光を放った。昨夜の穏やかな輝きとは違う、切迫した──まるで警鐘のような光。
「セシリア!」
ティナが即座に戦闘態勢を取る。草原の向こうから、異様な唸り声が響いた。
現れたのは、人型でありながら明らかに常軌を逸した存在。黒く歪んだ体、赤く妖しく光る瞳。そして何より──その視線はセシリアに釘付けで、一直線に迫ってきていた。
「異常個体……!?なんでこんなところに──」
ティナが息を呑む。
異常個体──魔力の偏りや異常現象から生まれる存在。通常は生息域を離れぬはずが、この個体は明確な意志を持って移動していた。しかも狙いは、ただ一人。
「なぜ……私を?」
困惑を漏らすセシリアに、ティナが短く叫ぶ。
「理由は後! 今は──」
言葉が終わるより早く、黒い影が突進した。常人の反応を許さぬ速度。
「危ない!」
反射的にセシリアが手を突き出す。星神印から翠の閃光が走り、異常個体の動きが一瞬だけ鈍る。
「今よ!」
ティナが光の粒子を散らす牽制術で視界を奪う。だが異常個体は容易く幻惑を振り払い、再び迫ってきた。一人では押しきれない。
「ティナ!」
胸の奥で何かが弾ける。──ただ守られるだけでいいのか?
違う。
「わたしも……戦います!」
星神印が再び輝く。今度は迷いのない光。セシリアは両手を組み、祈りの姿勢を取る。
「星神様……わたしの友を、そしてわたし自身をお守りください」
天から降り注ぐ光の柱が、二人を包み込む。それは攻撃ではなく守護の光──異常個体の一撃を弾き返した。
「……すごい、これが聖女の力」
ティナが目を見張る。
「でも守るだけじゃ足りない。下がって!」
「はい!」
二人は息を合わせた。ティナが牽制で敵を引きつけ、その間にセシリアが回復と強化の術を展開する。ぎこちなかった連携は、瞬く間に噛み合っていく。
「ティナ、左です!」
「了解!」
星神印が異常個体の動きを感知し、セシリアが即座に伝える。ティナはその情報を活かして位置を変え、斬撃を叩き込む。まるで長年の戦友のような呼吸だった。
戦いの最中、セシリアの胸に新たな感覚が芽生える。──これは神に命じられた戦いではない。仲間のために、自分が選んだ戦いだ。
「これが……わたしの戦い」
その時、空間を震わす強烈な共鳴が走った。星神印が眩く輝き、遠くの何かと反響し合う。空気が震え、時の流れさえ歪むような異常が、二人を包み込んだ。
「なに……これ……?」
異常個体が動きを止め、混乱したように辺りを見回す。
――記録が、読まれている。
――選ばれざる者たちの声が、響いている。
セシリアの脳裏に、声とも思念ともつかぬ響きが届く。それは星神の声ではない。もっと深く、根源から呼びかけるような……。
数秒間の共鳴が続き、やがて静まり返った。
異常個体は完全に動きを止めると、困惑した仕草を見せ、そのまま元来た方向へと退いていった。まるで何かを恐れたかのように。
「……終わった?」
ティナがナイフを下ろし、息を整える。
「はい。でも……今の共鳴は一体」
セシリアは胸元の星神印を見つめた。微かな光は残っているが、さきほどの鋭い輝きとは違う、静かな温もりを帯びている。
「偶然じゃないわ」
ティナが真剣な表情で言った。
「異常個体があなたを狙ったことも、今の共鳴も。きっと、あなたの身に何かが起きてる」
「わたしに……」
セシリアは自分の手を見つめる。戦いの最中、自分の中に芽生えた感覚──もはや“器”として神に従うだけではない。自分の意志で、大切な人を守ったという確かな実感。
「……怖くはありませんでした」
「え?」
「初めて、自分の意志で戦ったんです。ティナを守りたいという気持ちで。それが、とても自然に思えました」
ティナは驚き、そして微笑む。
「今度は、わたしがティナを守ります」
「あーもう、かっこつけちゃって……でも、仲間はお互い守り合うものよ」
「はい。仲間ですね」
二人の笑顔は、先ほどまでの戦いの緊張を和らげた。
だが、ティナはふと空を見上げる。
「それにしても、あの共鳴……まるで遠くの誰かとつながったみたいだった」
「きっと、わたしと同じような人が、どこかで同じことを感じているのでしょう」
セシリアの予感は正しかった。
遠く神域の奥、レオンたちが古き記録に触れた瞬間──星神印を持つ者たちの間に共鳴が走っていた。
「……レオン様」
その名を呟いた瞬間、星神印がわずかに温かくなる。
それは確信めいた感覚だった。
「誰のこと?」
「わたしが……ずっと探している人です」
ティナは頷く。
「じゃあ、その人に会うためにも──星見の丘へ行きましょう」
「はい。きっと次の手がかりが見つかります」
二人は笑い合い、歩き出す。
戦いを経て結ばれた絆が、背中を押す風とともに強まっていた。
遠くの空では、見えぬ糸が他の星神印保持者たちとセシリアを静かに結び始めている。
運命の歯車が、確かに動き出していた。




