再会と旅立ち
夜明け前の空は、まだ深い藍を湛えていたが、東の地平線はかすかに薄桃色を帯びはじめていた。
教会の内部は、長い眠りに沈んだまま時を忘れたように静まり返っている。石壁を撫でる朝の冷気は湿り気を含み、肌をくすぐるたびに、かつてここが人々の祈りで満たされていた温もりを遠く感じさせた。
割れたステンドグラスから差し込む淡い光は、宙に漂う細やかな埃をきらめかせながら舞わせる。壁面に刻まれた星神の紋章は幾筋ものひび割れに覆われ、輪郭をかすかに失いながらも、その存在感だけはまだ消えていない。色褪せた石造りの祭壇には、献花の枯れた茎と砕けた燭台が残され、往時の荘厳さを想起させた。
その祭壇の前に跪くセシリアは、両手を胸の前でそっと組み、目を閉じる。唇からこぼれるのは儀礼的な定型句ではなく、胸の奥から自然に湧き上がった祈りだった。
「……どうか、彼が無事でありますように」
静寂を破ったのは、外から響くかすかな軋み音だった。古びた扉の蝶番が長い沈黙を破り、次いで石床を軽やかに叩く靴音が近づいてくる。その足取りはためらいもなく――まるでここが自分の居場所であるかのように。
「おっじゃましまーす!」
突如響いた快活な声に、セシリアは小さく肩を震わせた。振り向けば、朝の光を背にした女性が、入り口の前に立っている。淡い栗色の髪をポニーテールに結い、旅装は軽快で、腰には短剣。場違いなほど明るい笑みと人懐っこい気配が、静かな廃墟に差し込んだ光のようだった。
「……あなたは?」
「あ、ごめん。驚かせちゃったかな?」
女性は手を軽く振りながら歩み寄る。その姿は、セシリアの記憶の奥にある、あの夜――絶望の中で自分を救ってくれた影と重なった。
「もしかして……紅牙隊の方ですか?」
「そうそう、覚えてくれた? ティナよ。あの時は名乗る暇もなかったから」
ティナは柔らかく笑い、セシリアは小さく頷く。
逃避行の最中、わずかな時間の出会いでも、この少女の瞳の奥に宿る意志の強さは、確かに記憶に刻まれていた。
ティナは屈託のない笑顔で、ためらいもなくセシリアの隣に腰を下ろした。セシリアは思わず一歩引いた。けれど、足はそれ以上動かなかった。
「あの……どうしてここに?」
「んー、それがね」
ティナは頬をかき、少し照れたように視線を泳がせた。
「実は、隊長に『ちょっと様子を見てこい』って言われたの。でも正確には……」
ぽつりと続ける声は、さっきまでの明るさとは違い、ほんのりとした温もりを帯びていた。
「クラリス殿下が心配してらっしゃるのよ。『セシリアはひとりで大丈夫かしら』『食事はちゃんと取れているかしら』って。それで隊長が『なら誰か見に行かせようか』って話になって」
「クラリスが……」
セシリアは、しばらく何も言えなかった。視線を手元に落とし、それから小さく息をついた。
「それで、アタシが手を挙げたってわけ。同じ女の子同士のほうが、話もしやすいでしょ?」
「ありがとうございます。でも、お忙しいのではないですか?」
「んー、実を言うとね」
ティナは肩をすくめ、悪戯っぽく笑った。
「隊長ったら『君には特別休暇を与える』なんて言ってさ。要するに、しばらく暇なのよ。だから、もしよければ……」
そこで少し間を置き、遠慮がちながらも期待の色を宿した瞳がセシリアをまっすぐに捉える。
「一緒に旅してもいい? あなたのこと、もっと知りたいなって思ったの」
セシリアは瞬きを繰り返した。その問いに、すぐには答えが出てこなかった。
「……わたしのことを?」
「うん! だってね、あの夜のあなた、すごく綺麗だった。転移陣に進んでいくときの、あの凛とした表情。『自分の意志で歩んでいく』っていう決意が、はっきり伝わってきた」
セシリアは視線を落とした。
「そんな……わたしは、ただ――」
「ううん、あなたは自分で選んだ。星神の器でいることも、聖女でいることも全部やめて、『セシリア』として生きることを」
その瞬間、セシリアの星神印がかすかに輝いた。理由は、わからなかった。
「……一緒に旅を」
「うん。もちろん、嫌だったら無理しなくていい。でも、ひとりで歩くより、ふたりの方が楽しいと思わない?」
少しの間、セシリアは答えなかった。
「……はい。ぜひ、お願いします」
「やったー!」
ティナは勢いよく立ち上がり、ぱっと両手を広げる。
「じゃあ、まずは自己紹介から。《紅牙》のティナよ。得意なのは魔法補助と牽制。性格は……まあ、見ての通り」
「わたしは、セシリア=ルクシア。元聖女で……今は、ただの旅人です」
「『ただの』なんて言っちゃダメ。あなたはあなただよ、セシリア」
ティナの無邪気な笑顔に、セシリアも自然と唇をほころばせていた。
「それで、どこに向かう予定だったの?」
「実は……まだ決めかねていました。ただ、真実を知りたくて。わたしが何者なのか、どうして星神印を宿しているのか……」
「真実、ね」
ティナは顎に手を当て、しばし思案する。
「だったら、古い教会や神殿の遺構を回ってみない?隊長が言ってたんだけど、正史に載らない記録って、案外そういう場所に残ってるものなんですって」
「古い教会……」
その響きに、セシリアの胸の奥でかすかな胸騒ぎが生まれる。不安ではなく、むしろ期待に似たざわめきだった。
「それに」
ティナは言葉を継ぐ。
「ひとりより、ふたりの方が安全でしょ?腕には覚えがあるけど、あなたの加護があれば心強いわ」
「でも、危険に巻き込んでしまうかもしれません。星神教会は、きっと逃げたわたしを探しているはずです」
「あー、それなら大丈夫」
ティナは唇の端を上げて、にやりと笑った。
「隊長から伝言があるの。『追っ手が来たら、まず逃げろ。追いつかれそうになったら、決められた場所に信号を送れ。必要なら《紅牙》が動く』──だって」
「そんな……申し訳ありません」
「謝る必要なんてないわ。あなたは、王家も認めてる『重要人物』なの。だから本気で守るつもり」
「ありがとうございます。それでは……お願いします」
「よーし、それじゃあ出発準備しましょ! あ、その前に──」
ティナは懐から、小さな包みを取り出した。
「クラリス殿下からの差し入れ。『美味しいものを食べて、元気でいるのよ』って」
包みを開くと、香ばしい甘い匂いが立ち上った。見覚えのある焼き菓子が、整然と並んでいた。
「こんなに立派なものを……」
「『友達だもの』ですって。あの方、照れ屋だから素直に言わないけど、本当にあなたのことを大切に思ってらっしゃるのね」
セシリアはひとつ手に取り、口に含んだ。
「……美味しいです」
それだけしか、言えなかった。
「でしょ? じゃあ、残りは旅の途中で食べましょう。荷物はまとめた?」
「はい。といっても、ほとんど何も……」
「大丈夫。必要なものは揃えてきたから」
そう言って、ティナは背負っていた大きな荷袋を軽々と持ち上げて見せた。
「野営道具に保存食、それから地図と金銭。隊長が『旅に必要なものは一通り』って用意してくれたの」
「シエルさんが……」
セシリアはしばらく、その名を繰り返した。
「あの人、見た目は冷たそうだけど、本当は優しいのよ。特にアルヴィス殿下が関わることだと、つい張り切っちゃって」
やがて、ふたりは廃教会を後にし、青空の下へ歩み出す。
陽射しが背中を照らし、風が髪をくすぐる。
「ねえ、セシリア」
「はい?」
「もっと笑顔でいてね。あなたの笑顔、とっても素敵だから」
「……はい」
頬を染めながら、小さく微笑む。
──新たな旅路が始まった。それは、選ばれぬ者が自らの意志で歩む、希望の道。
道の向こうには、果てしなく続く青い地平線。そこには、まだ見ぬ出会いと、隠された真実が待っているに違いない。




