名もなき少女5:火を灯す声
森を抜け、陽の光が差し始めた頃、一行は小さな川辺で小休止を取っていた。
「水、冷たくて気持ちいい〜!」
ライナが両手を浸してはしゃぐ横で、カイルが黙って警戒を続けている。
ミリアは水筒を満たしながら、ふと少女方を見やった。彼女は、仲間の輪の中から一歩だけ距離を置いた場所に座っていた。
誰も、無理に話しかけたりはしない。だが、その空気はどこか温かく、柔らかかった。
──ぷるん。
水面に跳ねるように現れたのは、水色のスライム型召喚獣。その丸い身体がぴょん、と跳ねて、ユイにしがみつく。
「ユイ〜!ネルンね、がんばった〜!」
ライナが小さく笑いながら言った。
「この子も、応えてくれたんだね。……って、あれ!?」
その瞬間、ライナが吹き出した。ミリアも驚いたように目を瞬かせる。
「い、いま……“ユイ”って……?」
少女が、はっとしたように目を見開く。けれど、逃げることはしなかった。
「……名前」
その声は、どこか震えていた。だが、確かに聞こえた。
「“ユイ”。それが、わたしの名前」
一瞬の静寂。
「ユイ、か」
レオンが、ぽつりと呟く。
「その名は、もう誰にも呼ばれない名じゃない。俺たちが、“ユイ”という名のある君を、選んだから」
誰も、茶化さなかった。誰も、その名を軽く扱わなかった。それが“仲間”になるということなのだと、ユイは気づきかけていた。
そのときだった。
涼やかな気配と共に、空気が揺れる。灰色の羽根を広げた隼──シェルムが、ユイの背後にふわりと舞い降りた。レオンたちが身構えかけたが、すぐに警戒を解いた。彼の姿は、以前の戦闘で見た記憶と一致していたからだ。
「……また現れたな」
カイルが低く呟くと、シェルムは軽く首を傾げ、ユイのそばに視線を落とす。
「名を持つということは、魂に輪郭を与えることだ。主が名を得た今──干渉は強まり、境界はさらに曖昧になるだろう」
ライナが怪訝そうに眉をひそめる。
「もう一体……いたよね? あの、変な……炎みたいな?」
「……ああ。あれは、“フラム”。」
シェルムは、わずかに目を伏せて言葉を継ぐ。
「未成熟で、獣の本能に近い存在だ。だがユイにとっては、大切な眷属の一体。名を持たずに生まれ、主によって初めて“名”を与えられた」
「フラムって、火の精霊?」
ミリアが問いかけるが、シェルムは静かに首を振った。
「“幻獣”や“召喚獣”というのは、この世界の理における分類にすぎない。あれは、“異界の炎”──この世界に属さぬ存在だ」
一同が息を呑む中、シェルムは続ける。
「ユイが呼び、共に在ることを選んだ眷属たち。それが、私たち“召喚獣”──“異なる理”に属する、彼女の“証明”なのだ」
レオンが視線を落とし、そっとユイの姿を見つめた。
無言のまま、それでも誰よりも確かな意志で、彼女は焚き火の側に座っていた。膝の上のスライム──ネルンが、ぷるぷると身を震わせている。
「……名前なんて、呼ばれなくても生きていけると思ってた」
小さな声が、宵闇に溶けていく。
「でも……なんで、こんなに……。名があるって、名を呼ばれるって、こんなにも温かいんだね」
(“フラム”と呼んだとき──あのときも、少しだけ胸が熱くなった。今は、それよりもっと……確かに)
胸の奥が、くすぐったいように疼いていた。それが、少しずつ溶けていく痛みだと気づくには──もう少し、時間が必要だった。




