名もなき少女2:竜胆の髪、淡桃の眼
風は止まっていた。
森の奥、常に揺れていたはずの梢が、まるで時間を忘れたように静止している。耳を澄ませば、わずかに葉擦れと、鳥の囁きが聞こえる。だがそれらすら、どこか人工的に切り取られた“音の残像”のようだった。
「……途中で、消えてるな」
カイルが地面に手を添えながら呟いた。獣道に残された足跡は、そこから数歩先で唐突に途切れている。
「いや、消された、か……?」
「魔術の痕跡はない。でも、空気が歪んでるわ」
ミリアが、低く言った。杖の先を軽く地につけながら、周囲の空間を睨むように見渡している。
レオンはその視線を追い、足元の小石に指先を当てた。
微かに、反応する。
魔力。それも、精緻な式による“封印系”。召喚術とは異なる、「静かな、けれど深く根を張った印象」。
(……この気配)
この地で“異常個体”が活動していたのは確かだ。だが、今感じている魔力は、それとはまるで異なる波長だった。まるで、もっと「人の手に近い、意思を持った術」のような――
「何かが来るよ!」
ライナが声を落とした。
同時に、木立の向こう。淡い光が、銀の水面のように揺らいだ。
そして、その中から、一人の少女が現れた。
★
髪は、光に揺れる薄い紫、竜胆色だった。
長く伸びたストレートの髪が、風もないのにわずかに靡いている。瞳は淡い桃色。だが、その奥には焦点の合わない深さがあった。
年の頃は十代半ば──だが、その雰囲気はあまりに静かすぎた。
「あの髪の色……あれ、生まれつき?」
ライナがぽつりと呟く。
「いや、あの眼も。あれは──」
カイルの目が細くなる。
「どの種族でも、あの組み合わせはまずない。何らかの“加工”を経た可能性がある」
その後ろ。
空気がひとつ震え、灰色の羽を持つ隼型の獣が現れる。異形の獣──その鋭い双眸は、影を裂くように隊を見据えていた。
「……それ以上、進まないで」
少女が口を開いた。
その声音は、冷たいというよりも、ただ平坦だった。怒りも怯えもない。ただ、警告だけを口にするための声。
「あなたたちには、関係のない場所」
レオンは、一歩前に出た。
「……君は、このあたりに住んでいるのか?」
「違う。あなたたちは、通ってはいけない」
短い言葉の応酬。
だが、それ以上の情報は得られそうにない。レオンが答えに詰まりかけたとき、少女の後ろにいた隼が静かに言った。
「私たちは、誰にも属さない」
低く、けれど澄んだ声。
それが、人語を解する召喚獣の声だった。
「この地には、主の意思がある。私たち召喚獣は、それに従ってここにいる。君たちが干渉すれば──災いに触れることになる。それでも問うのか?」
レオンは、わずかに目を細める。その問いに、怖れはなかった。
「それを決めるのは、俺たち自身だ」
わずかに沈黙。
だが、その少女は、それ以上言葉を返さなかった。
ただ一歩、二歩と後退し、森の奥へと視線を向ける。その瞳には、隊の誰一人を“視ていない”ような空虚さがあった。
やがて。
「さようなら」
その一言だけを残し、少女は踵を返した。
★
「……行っちゃった、ね」
ライナがぽつりと呟く。
「何者なの、あれ……?」
「魔術の質が、違ったわ。……召喚獣と言ってたけど、召喚術とも、また違う感じがした」
ミリアが呟き、そっと杖を引いた。
「式が多重層で構成されてる。基盤に“封印系”、上部に転送の補助陣……ただの使い魔じゃないわね」
カイルも腕を組んで、地面に目を落とす。
「まるで“異常個体”が避けてるような気配だった。……人を避けるんじゃなくて、“あの子たち”を避けているみたいだった。それに、あの髪と眼の色……」
レオンは無言のまま、その残留魔力が染み込んだ地面に触れた。
(あれは……自分を孤立させている。誰かに見つけられることすら、望んでいない目だった)
だから、名前も、立場も、語らなかった。
その背中に、かつての誰かの姿を重ねていた。星の加護を受けながら、孤独の中にいた“あの少女”を。
……セシリア。
だが、口には出さない。
レオンはゆっくりと立ち上がり、仲間の方を見やった。
「追うぞ。まだ、終わってない」
その一言に、全員が頷いた。
風は再び吹きはじめていた。
あの淡桃の眼が、どこかで再びこちらを見るならば──そのときこそ。
すべてを、訊くことになる。




