平衡
明智千鶴が今日もまた害悪な機械どもの餌食と化す。
デコ女がわざと大声で
「最近明智がどんどん機械になっていくぞ。はやく人間に戻してやらねぇとなっ」
などとほざく。不愉快だ、と倉永彩香は思う反面、実に愉快だと“私”は思っている。
放課後、トイレの個室にそれぞれ無表情な二人の生徒が座っている。
一人は私。もう一人は明智千鶴。
お互いの姿は見えないが明智千鶴がどういう状態なのか私には分かる。隣からはぽたぽたと水が滴る音。
「今日の天気予報は晴れだったはずだけど」
返事はない。折りたたみ傘をさしてみる。
「局所的な大雨にでも降られたの?」
瞬間、トイレの個室に局所的な大雨が降る。個室を隔てる隣の壁から空のバケツを持ち、水にぬれた明智千鶴が上から顔を出していた。
「さっきから思ってたけど、うるさい」
明智千鶴の腕や顔、髪の毛からしずくが滴って水はけの良い折りたたみ傘に当たってはじける。
「あいつらと同じ手が通用すると思って」
明智千鶴は顔を引っ込める。
「今日は晴れだよ」
「知ってる」
しばらく沈黙が続く。だがけして居心地の悪い静けさではない。むしろ妙な安心感さえある。
「よかったね。これで泣いてもばれない」
皮肉をこめて隔たりの向こうに投げかける。
「私ね、最近泣かなくなったの。泣いても何も変わらないってことに気づいたの」
「それは希望も同じ」
いちいち会話のたびに間が空くが、このゆっくりのテンポがなんともいえない心地よさを演出している。
「私ね、明るい希望を求めて未来ばかり見つめてた。でも、未来に意味があるのは明智千鶴だけ。私を知るには今を見つめなきゃいけない。そのためには絶望が必要だった」
その一言で私は深い妄想にまどろんでいく。
この次の瞬間にも私は確かに存在しているのだろうか。この次の瞬間には私は存在せず、死んでいるかもしれない。次の瞬間の私の存在を保証してくれるものなんて何もないじゃないか。だとすれば、私はスマートフォンのアプリで時間を潰していていいのだろうか。自分が死ぬかもしれないその直前にさして興味も無いテレビ番組をだらだらと垂れ流していていいのだろうか。
希望は言う。未来はあるさ、と。あたりに濃い霧が包まれていく。そんなことにもまるで気づかず、相変わらず私はベットで当てのないネットサーフィンに時間を当てる。
絶望は言う。未来はない、と。私はベットから飛び起きる。もはや倉永彩香の役を演じることなどどうでもよくなる。もし、次の瞬間に私は消えてなくなるならば、今、この瞬間に私はどうありたい?
あたりの霧が轟音と共に消し飛んでいく。そこに自分が生きている意味があることを期待しながら。しかし、自分が生きている理由なんて存在していなかった。そこに生きる意味の喪失した人生の無目的性の海を見る。とたんに恐怖にかられ、人々は希望の言うその場しのぎの延命装置に我先に飛びついて行く。違う、それではダメだ。今これをやらなくては死んでも死に切れない「何か」があるはずなんだっ。
自分の死と向き合わなければ、本来の私はそこにいない。希望に与えられた役柄を演じ、自分が何者なのかを知ることもなく、一人、また一人と海の中に投げ込まれ、錆付き、機械と化していく。
誰もいなくなった断崖に一人、私は海を眺め続けている。
ゴソゴソと物音が聞こえ、水でふやけた紙切れが個室を仕切る壁と床のわずかな隙間から差し込まれた。手に取り広げてみる。
「これは教室?」
「ううん、地獄」
そこには確かな絶望があったはず。ようやくたどりついたのだな。
トイレの個室が開いたかと思うと、一気に視界が遮られる。体の感覚のうち、はじめに私へ報告をよこしたのは、冷感であった。顔をぬぐい目を開けると、水が流れ出るホースを片手に明智千鶴が得意げな顔をして仁王立ちしている。
「あなたのいる空間だけ重力に斥力が働いているんだよ。下から上に雨が降る。そうじゃなきゃ、何で傘差しているのにびしょ濡れなのか説明がつかない」
その瞬間、私は人間とコミュニケーションをとっていた。機械ではなく、本物の人間と。孤独の独房から抜け出し、新鮮な空気を胸いっぱいに取り込んでいく。ゆっくり目を閉じる。長くなった一秒間をしかと噛み締め、深く呼吸をする。私は今、そり立つ断崖の上から、千鶴と二人で海を眺めていた。
少し肌寒くなってきたこの気温の中で、私たちは学校の水道をひたすら浪費し、今という時間の水かけに全神経を奮い立たせ、全力で生きていた。




