残光
こともなげに尋ねてくる母。
「今日のお弁当はどうだった?」
お弁当、というキーワード。強烈なフラッシュバック。芋虫の苦味と触感が鮮明に想起され、たまらず嘔吐しそうになる口を右手で覆う。
「どうしたの?」
異変を察した母が心配そうに覗き込んでくる。
「もうお弁当はつくらないで、絶対に」
「えっ?」
言い終わるや否や私はすぐさま自分の部屋へ駆け込んだ。はやく、明智千鶴という役を降りてしまいたい。しかし“私”になることを母がせき止める。
「ちょっと、千鶴どうしたの」
鍵のかかった扉を懸命に開けようと躍起になっている。毎日、楽しそうにお弁当のおかずの話をする母。今日のおかずだって娘が喜んで食べているに違いないと嬉々として台所に立つ母の姿を思い出す。そんな母のささやかな幸せが簡単に裏切られた今日。母は私に絶望するだろうか。
「味が良くなかったの?」
違う。あなたは何も悪くない。悪いのは全部私なの、・・・私なの? 私が悪いの?
「もしかして、嫌いなおかずが入っていたの?」
もう、やめて。そう、全部私が悪いの。もういや、これ以上聞きたくない。何世代も前のウォークマンを引っ張り出し、イヤホンを両耳に突っ込みヴォリュームを最大にする。聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない・・・。
けたたましい音量の音圧は脳内を激しく振動させ、あらゆる思考の発生を抑圧した。もとより、何一つもう考えることをしたくなかった。
思いのほかはやくに寝入ってしまい、目が覚めたのはその分はやく繰り上がって朝の四時ごろ。ウォークマンは電池が切れた状態で床に転がっていた。
十一、十二、十三・・・。
十三本。
手首の赤い線の本数を数える。口元の端が不自然に吊り上がる。肩が震える。笑っているのか、泣いているのか自分でも分からない。おそらくそのどちらでもない新たな感情表現を生み出していた。
生気のない顔で台所に向かうと、母が料理をしていた。その直向きな姿勢に罪悪感が重くのしかかる。今まで使っていた弁当箱は帰り道のどこかに捨ててしまっていた。
もう作らないでって言ったのに。辛い思いをするのは自分なのに。
食卓には新しい弁当箱がすでに用意されていた。その中身を見たときに私は壮絶な悲鳴を上げる。弁当箱の中でうごめいているのも、芋虫だった。それも何匹もうじゃうじゃとひしめき合っている。私は叫び声をあげながら、たまらずその弁当箱を床に叩きつける。
視界が一瞬のブラックアウトの後、大きくぐわんとゆがんだ。視界がクリアになると床が垂直に映っている。床に散らばった食材の中に芋虫はいなかった。
「ねぇ千鶴っ、どうしてこんなことするのっ、ちゃんと話してっ」
母のその一言をきっかけにようやく思考が稼動し始める。いつもの泣き虫な自分ならここで涙を流していたはずである。しかし、涙はでない。いくらここ最近で泣き続けたからと言って言葉のあやのとおりに枯れてしまったわけではない。泣くことは希望があればこそできる芸当だ。泣いたって何も変わらない。その行動に一切の意味づけが与えられないならそれをする必要はもはやない。
のっそりと起き上がり、力のぬけ切った表情で母を見る。娘の突然の奇行に、困惑し、それでも理解したいと必死に訴える悲痛な母の顔。怯える瞳に映る無表情な私。1cmの丸い鏡に映っていたのは明智千鶴ではなく、紛れもなく“私”であった。
ようやく全ての希望を外側に締め出せた気がした。
凝り固まった筋肉が瞬く間にほぐれていくような、爽快な気分が喉元からスーッと抜けてゆく。今までに感じたことのない清々しい朝を経験していた。
未だに希望を抱こうとする母を一人残し、台所を後にする。
明智千鶴の足は学校に向かう。明智千鶴がどんなにいやだと拒絶しようにも、私は聞く耳を持たない。私は今日も地獄の門をくぐるのだ。




