虚無
音の無い朝食。それはきっと私の主観。テレビのスピーカーの振動、食器と箸が織り成す摩擦音。咀嚼音、接触音、探せば音なんてどこにでもある。それでも、私に聞こえていないなら、その音ははじめから存在していないのと同じ。彩香の口癖を借りるなら、機能的に等価なのだ。
ふと、目の前の母に視線をやる。希望をわずかに残しながら何かを話している。それでも私には聞こえない。私が聞こえていないなら、私にとっては母が話してないのと同じ。困り果てた母は視線を足元に落とす。きっとあなたは心の中でこんなことを思っているでしょうね。
『当たり前のことを聞くようだけど、私は透明人間じゃないよね?』
他人に存在を認めてもらってはじめて母は母足りえるのだ。でも、それは単なる役柄に過ぎないのでしょう。
無人島に生まれ、生涯孤独に生き抜いたとして、それは役柄を与えられなかったに過ぎない。無人島で生きていたという事実を役柄が否定することはありえない。私の存在の究極の根拠は役柄ではなく、私でしかありえない。明智千鶴ではなく、私でしか。
地獄の看板が見えてくる。教室の扉に手をかける。そこはいつもの教室とは何かが違っていた。その正体は分からない。ただ、この教室の空気は普通じゃない。ただひたすら困惑する。私がはじめてこの教室に足を踏み入れたときのような違和感とも少し違う。
『この教室は希望に満ち溢れた素晴らしい場所です。』
転校初日の教師の一言。嘘つき。あったのは絶望だけ。でも今は絶望さえも感じられない。いつもは真っ先に私にちょっかいをかけてくる連中はおとなしく席に座っている。私のほうに見向きもしない。生きる目的を失ったように無気力に椅子に座らされている。この教室には規則正しい配列で魂の抜け殻が整備されていた。
「これはあきらかに異常だよね」
昼休みの中庭、彩香に詰めよる。
「それはどの視点から見るかによる。もともとあそこが異常だった。異常な場所に異常が起こった。つまり一周して普通になった」
「平和の訪れってこと」
さぁ、と彩香は難しい表情をする。
「みんな本当に機械みたいになっちゃったよ。彩香の言ってるみたいに。一体何があったの?」
「デコ女がそうさせたんだろ。あの教室を支配できる権威はデコ女だけだ」
「何のために」
「それが分からない。だから平和の訪れとは早計に言えない」
その日から教室からは何もなくなっていた。希望も絶望も。あるのは虚無だけだった。無が有るのだ。
「素直に喜んでいいのかな」
帰り道、彩香にたずねる。
「あいつらは自分たちの役柄を取り上げられているだけ。違った役柄を与えられれば、すぐさま牙をむく」
「なんだっていいよ。こうして彩香と一緒にいられる時間が増えたんだもん。喜んだっていいでしょ」
「そんなこと、堂々と言ってて恥ずかしくないの」
「友達のいなかった人間にいきなり自分の気持ちを素直に話せって言われても無理な話か」
「うるさいな、お前は機械と友達になれるのかっ」
出会った当初、誰よりも機械という名称がしっくりきた彩香は今、誰よりも生き生きと感情をあらわにしているように思えた。
「なれるよ」
当たり前でしょ、といわんばかりに言ってのけると、彩香は面食らったように口を紡ぐ。
「彩香は私に本来の生のありかたを教えてくれた。役柄としてじゃなく、私として生きること。本当に感謝してるよ。ありがとう」
私のストレートな発言を素直に受け止められないのか、彩香はうれしいような恥ずかしいような複雑な表情を浮かべ、視線を泳がせている。でも、と私は続ける。
「それだけじゃないよ。大切なのは」
「分かったような口をきくね」
「他人を機械としてみることだって、機械という役柄としてみているようなものじゃない」
彩香は考え事をするように黙り込んでしまった。話が途切れ、私も自分の思想に耽る。
汚染地域の水溜りに浮かぶ油膜のような、彩度の低い歪んだ虹色にあたり一面が覆われている空間。地面という概念はなく、その異様な場所に私と母がぽつんと浮かんでいる。
「学校は楽しい?」
母はそう尋ねてくる。私は仮面をつける。中央にわざとらしくでかでかとある希望という文字。
「うん、楽しいよ」
口ごもりながら答える。
「そう、よかった」
母はうれしそうに表情を和らげる。私がこの仮面をはずしてしまえば、母のこんな顔は二度と見られないかもしれない。怖い。考えたくも無い。仮面をつけたまま答える。
「クラスのみんな、本当にいい子ばっかりで、それで・・・」
それ以上の言葉が出てこない。自分の見られたくないものを覆い隠し都合のいい側面だけを、希望だけを母に見せている。だって、この仮面をはずしたら・・・。母がそっと手を伸ばしてくる。
「もういいのよ、無理しなくて」
やめて、そんなことしたら。私は全身に力をこめるがまるで体が動かない。視線だけは目の前の母をとらえたまま、身動き一つとれずにいた。母の手が仮面にかけられる。
はっと、金縛りがとけたようにあたりの視界が元通りになる。気づけばもう彩香の帰路との分かれ道だ。
「じゃあね」
そう言った瞬間、ぐっと腕を掴まれる。驚いて振り返ると、いつに無く真剣な顔で彩香が私を見据えている。
「じゃあね、じゃなくて、さようなら」
別れのあいさつにはどうもこだわりがあるらしい。
「わかったよ。その代わり、私のことはお前じゃなくて、千鶴って呼んで」
「名前なんかどうでもいい。お前はお前だ」
「怖がらなくても、千鶴って呼べばいつでも“私”は返事をするよ」
「嘘ついたら?」
「嘘ついたら好きな絵を一枚描いてあげる。彩香は絵が下手くそだから」
「お前に私の絵の何が分かる」
夕暮れ時、自分の帰路を走り出し、わざと大声でこういってやる。
「じゃ、あ、ね、彩香っ」
「あっ、嘘ついたなお前、絵を描くんだっ」
「彩香だって、お前って言ってんじゃんかっ」
楽しいひと時もつかの間、ついに私は家の前に到着する。今日こそはこの仮面をはずさないといけない。嘘偽りで塗り固めて作った希望と言う仮面を。私は希望を捨てた。今度は母の番だ。
入り口を開けると、玄関に母が立っていた。覚悟を決めたような、腹をくくったようなそんな顔だった。私も覚悟を決めないと。これ以上、逃げ続けるわけにはいかない。ようやく私は自分の仮面をはずし、少しずつ、本当のことを話していった。学校での卑劣な出来事を洗いざらいに。その間、母は黙って私の話に耳を傾けていた。
全て話し終えた。いままでの疎遠な態度のことも含めて全部。母は怒るだろうか。それとも、あきれ果てるかもしれない。哀れんでくれるかもしれない。しかし、母は何も言わない。
何も言わずにただ私をそっと抱き寄せた。なんだか、それだけで十分な気がした。とても暖かな愛情が、私の希望も絶望も何もかもを優しく包み込んでくれる。私という存在の全てを丸ごと肯定してくれているかのような確かなぬくもりに触れ、かつて無いほどの安らぎを覚えていた。
「おかえり」
大いなる愛情に包まれて私は本当に今、ここに帰ってこれたのだという気がした。
「ごめんなさい」
「ただいま、でしょ」
“私”ははじめて涙を流した。




