味覚
倉永彩香の別れの言葉は「さようなら」だった。「じゃあね」ではなく。
家に着いた私がまず話題にするのはもちろんお弁当のこと。それ以外に学校生活のことを母に質問されるのが怖かった。とにかくお弁当の話をしておけば不都合は生じない。
倉永彩香は言った。必要なのは絶望、と。しかし、母はそうじゃない。娘が描く希望を鏡に写したように自分も希望に満たされる。そんな人に絶望の翳りをあてることは赦されない。
「あのロールキャベツすごくおいしかったよ」
母はすごくうれしそうな顔をする。らんらんと輝いているその瞳は娘の学校生活が色鮮やかなばら色に彩られていることを寸分疑わない。うれしそうに明日の弁当のおかずの話をしているであろう母。しかし、それ以上の情報はもはや私の脳には書き込まれない。
耐え難い苦痛の中に、生きることの虚しさをひしひしと感じている今の私には、至極くだらないテーマだった。まったりした会話が成立するのは平和な間だけ。
部屋に入る。ここは私になる空間であり、今は私になる時間である。私という時空である。しかし、私は明智千鶴なしに生きられない。今日また新たに増えた右肘の痣を左手でさすりながら、この体がなければ、明智千鶴の体がなければ私は生きられないということを再確認する。
明智千鶴が生きるには希望が必要なはずだ。だが倉永彩香は言う。必要なのは絶望、と。それが、明智千鶴が、ひいては私が生きるための意味。しかし、絶望といわれても何をどう実践すればいいのか皆目検討もつかない。それこそ今の今まで希望にすがろうとしてきた人間だ。絶望なんてどうやって探せばいいのやら。
おもむろにカッターナイフを取り出し、刃をそっと右手首の上に乗せてみる。
『よくきけ転校生。痛いだろう。それが生きてるってことだよ。目の前の機械にも人間の心が宿るように生きてるってことを教えてやりな』
ふと、永田涼奈の言葉が頭をよぎった。
違う、こんなことじゃない。絶望はこんなところにはない。でも、分かんないよ。もうどうすればいいの。ねぇ、誰か助けてよっ。
気づけば右の手首には一本の赤い筋が出来ていた。痛みが後からじんじんと主張してくる。痛い。こんなにもリアリティーのある感覚は生きているということを意味しない。
昼休み、みんながやけにそわそわしている。不幸を告げる予感がじわじわ押し寄せてくる。警戒レベルはしきい値を越え、警鐘を打ち鳴らす。お弁当箱に手をかける。すると周囲のざわめきがいっそう激しくなる。
やっぱり、お弁当に何かされたんだ。いやだ、怖い。だめ、あけちゃ。これを開けたら・・・。
頭ではそう考えつつも、恐怖に萎縮した脳が体を制御してくれない。カタカタと音を立てながら、ゆっくり蓋が開いていく。その光景は生命を冒涜する残酷なものだった。
ところどころに毛の生えた芋虫が体をまっぷたつに裂かれ、胴体からは濁りの混じった鈍い緑色の粘膜が纏わりつく柔らかそうな内臓がでろりと垂れ下がってご飯の上に溶けかかっていた。トマトも卵焼きもウィンナーもに余すことなく芋虫の内臓がきれいな形を保ったまま乗せられている。
調理という過程を通し、デフォルメ化された優しい生の世界。そこに並び立つ未加工の冷徹な弱肉強食の死の世界。生ぬるい嘘のベールがはがされた厳しい自然の様がありありとそこには表れていた。
「手伝ってやろうか」
永田涼奈の声と共に私は数人にがっちり押さえ込まれ、身動きを封じられる。非力な私のあごを強力な腕力が無理やりこじ開ける。
「はい、あーん」
お願いやめてっ。そんなもの、口に入れたくないっ!
生物の内臓に普通の人間は抵抗を覚えるもの。それが正常な人間の反応だと私は信じている。迫り来る悪夢に必死に体をよじってあらん限りの力で抵抗するが、私の願いは届かない。
私の箸を使って芋虫と卵焼きのセットがそっと口に中に入れられる。舌の上に苦い食感と生暖かいやわらかい感触が伝わるととたんに猛烈な吐き気に襲われる。必死に口の中のものを吐き出そうとするが、強力な腕力がそれを赦さない。自分の意思とは無関係に強制的にあごが上下する。芋虫を咀嚼している感覚に気が狂いそうになる。
絶望ってどんな味かな?




