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役柄のない”あなた”へ  作者: 山下絶
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交差

 母には転んだのだと何度も説明した。大丈夫だと言っているのに、痛くないかだの、病院にいかなくてもいいのかだの、あれこれ聞いてくる。心配性にもほどがある、と母には釘を刺しておく。それでもしつこく顔の怪我のことに触れようとするので私はとっさに話題をすり替え、母の関心をそれとなく逸らさなければならなかった。


「それよりさぁ、この前のあのおかず、もらいものの、今度いつ食べれるの?」

「そんなの当分無理だよ」

「なんで、あれすごくおいしいのに。買ってよ」


 無理だという母に必要以上にまくし立てる。そうしないと、また怪我の話を掘り返されてしまいそうだったから。


 部屋に入り、ベットに横たわる。明智千鶴から私に戻る。その瞬間に無性に虚しさがこみ上げてきて、行き場のない熱量となり、私を強く圧迫する。それでもどうすることもできずにふとんの中に強く顔を埋めた。

 まだ、泣き足りない。まだまだ、泣き足りないよぉ。

 今日でまた希望は大量に擦り切れる。その希望は明智千鶴の運命に大きく左右されている。

 結局私は明智千鶴でしかない。明智千鶴でしか生きられない。なら、明智千鶴はどういう希望を持っているのか。

 ・・・私はなんのために学校に行くのだろう。暗い未来が約束されてしまった今日。希望は排され、絶望に蹂躙されるあんな場所に、何のために。

 かさかさと音を立てポケットの中から一枚の紙切れをとり出す。ゴミ箱に捨てられたノートを回収した際に見つけたものだった。くしゃくしゃになったそれを再び開けてみる。バランスの悪い字で書かれたタイトル「積み石の刑」。

 中央に何かの絵が描いてあるが汚すぎてなんの絵だか分からない。すぐ横にはとある男の刑罰についてのメモ書きが添えてある。


「ある日男は河原にやってきて小石をひたすら積み上げていく。終わりは無い。死ぬまで延々とそれを繰り返しているだけだった」


 男にとって特に意味のある行為ではない。他にすることがなく、来る日も来る日も石をひたすら積み上げていく。理由なんてない、ただそういう刑罰を受けているだけなのだ。この男はなんのために生きているのだろうか。

 でも、それは私だって同じだ。私は来る日も来る日も明智千鶴という役を演じ続けている。そこに意味なんて無い。ただ死なないためだけに与えられた役を必死にこなすという刑罰を受けている。一体何のために?

 しかし、そう思えばこそ希望は必要なのだ。自分には生きている意味があるという。また、明るい将来が約束されているようなまばゆい希望が。だってそんなものが存在しないのに、今の苦しみに耐え抜くだけ耐え抜いて後は何もなしってそれじゃあんまりだ。

絶望が私の目に涙を垂れ流し、世界が歪んで見えなくなる。でも涙をぬぐえば、世界が驚くほどにクリアになる。私はこの感覚が好きだ。絶望が涙と共に洗い流され、よりいっそう希望の輪郭が濃さを増す気がした。


 でも、一度転がり始めた石ころは谷底にたどり着くまで止まることはなかった。


 ねぇ、私の筆箱はどこ? 返してよっ!

 この画鋲は誰が入れたの? ひどいよっ。

 殴られると痛いって分からないの?  もう、やめて。 

 どうしてそんなことするの? ・・・なんで。


 私に希望はないんですか?


 思想の山、曖昧な夢、妄想の野、思うがままに意識する。そして意識していることを意識したとたん、はっと私は現実に戻される。そして一言目には必ず、行きたくないな、学校。義務教育? 熾烈な仕打ちを受けるのは私の義務なのですか?

 何かを考えようとしたとたん、学校に関連するわずかなきっかけですぐに陰鬱な記憶が脳内に充満する。とたんに何もかもがどうでもよくなり、思考を放棄する。

 今度は椅子が見当たらない。

 目の前の探しものが忙しく、希望なんて探している場合じゃない。


 理科の時間に先生に当てられた。


「明智さんはこの教科書の絵に何か抵抗を感じますか?」


 動物の内臓の仕組みが絵図付で事細かかに記載されている。そりゃ、こんなもの、誰だって抵抗を感じるに決まってる。それが正常な人間の反応なはず。私は素直に答えた。その時、前のほうに座っていた永田涼奈が私のほうを振り向いた。前髪をヘアピンでセンター分けにした人懐っこい顔の彼女が見せた底意地悪い顔。何かまた良くないことが起こる。その瞬間から私は自分の顔から血の気が引いていくのを確かに感じた。

 掃除の時間、あたりを警戒していたが永田涼奈の姿は見当たらない。それでも身構えるのを緩めたとたん、永田涼奈の取り巻きに突き飛ばされ、誰かの机の中身を盛大に床に広げてしまった。取り巻きたちがハイタッチで駆け回る中、私は一人床を見つめている。

 寸でのところで瞳の中の雫をまぶたの内側に留まらせる。再び目を開き、机の中身を拾い集めるという、自分の次の役割を実行する。

 その机の中身を見るとそれが誰のものなのかすぐに分かった。落書きや靴のあとだらけのぼろぼろのノートや教科書、機械少女こと倉永彩香だ。ついこの前までは彼女が演じていたはずの弱者の役回りを今は私が引き継いでいる。

 机の中に無造作に突っ込まれていたであろうルーズリーフも一緒くたに散乱していたが、そのうちの一枚に描かれている絵のようなものが目に留まった。とても何を描いたものなのか理解できなかった。この絵の感じは「積み石の刑」と非常に良く似ていた。そのとなりに書かれている文章に目を移す。


 私は希望が、


 くしゃくしゃっと音と共に、目の前からルーズリーフが消える。倉永彩香本人がばら撒かれた私物を拾い集めている。


「あ、あの、ごめんね」


 私の声は倉永彩香をなんら影響しない。中身を全て机に突っ込むと倉永彩香は表情一つ変えずにその場を後にする。

 さっきの文章なんて書いてあったんだろう。

 私は希望が?


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