希望
な、あいつ機械みてぇだろ?
そう言われて私は先ほどの光景を思い返す。
間違いなく私は声をかけたはずだった。なのに、何も変化の起こらない眼前の風景。
当たり前のことを聞くようだけど、私は透明人間じゃないよね?
もちろん違うとも。先ほどの少女が初対面の人間を故意に無視したということなのだ。まるで感情を持ち合わせていないような、機械、か。確かにそうかもしれない。
「だから、はい」
目の前にはカッターナイフが差し出させる。えっ?
まるで話がつながらない。どうしてこんなものが今出てくるのか。
「あいつを機械じゃなくて人間にしてやるのさ」
意地悪そうな笑いを浮かべている名前もまだ知らない少女がそう言っている。
「それをどうしろって言うの?」
至極当然の質問をしたはずだった。ここに何のイレギュラーもなかったはずだ。なのに、目の前の少女の顔が一変する。先ほどまでの人懐っこい顔は今、鬼のような形相の下に埋まっている。何かまずいことを言っちゃったのかな?
そう考えていた矢先、太ももの一点に突如激しい痛みが集中した。あまりに突然のことだったので驚いた拍子に床に倒れこんでしまった。痛みを生じている箇所に目をやると、大きな赤い球体がどんどん膨れ上がり、やがてその形を維持できずに重力に従い足を伝って床に到達する。
「郷に入りては郷に従え、だ。転校生」
声のするほうへ目線を向けると恐ろしい顔の少女がカッターナイフの刃先を私に向けている。その刃から滴っている血は私の血なの?
私はわけもわからずその場から逃げるように左右不規則な歩幅で駆け出す。校内に駆け込み、振り返り見た屋上の光景はなんとも幻想的であった。
舞台を照らすのは夕焼けのオレンジ照明。今まさに地平線に沈まんとしているその光源は眼前の少女のシルエットを浮き立たせる。逆光が作り出す深い闇が人の形を成している。右手にぶら下がったカッターナイフからはぽたぽたと血がこぼれ、切っ先から鋭い反射光を放っている。
悪魔。
私はそう口に漏らしていた。
この教室は希望に満ち溢れた素晴らしい場所です。そんな言葉を教師から投げかけられたときに感じた違和感。だってここの空気は普通じゃない。そして私は確信した。不穏な空気の発生源。空間をゆがめる邪悪な巨大質量。それがあの悪魔なのだと。
「新しい学校はどうだった」
母は希望に満ちた顔で尋ねてくる。だめ、この顔を絶望に変えてしまうだなんて。
「すごく、よかったよ」
冷静を装いながら言葉をつむぐにはこれが精一杯。
「新しい友達は?」
「うん、みんな言い子ばっかりだよ」
即座に悪魔と機械、二人の少女が頭をよぎる。とても明るい未来など思い描けはしないが、それを悟られてはいけない。こんなにも希望に満ちている母の顔を余計な心配で曇らせたくない。
「あの、あれがおいしかった。ほらお肉の」
些細な会話で見抜かれるはずもないのだが、怖くなり急に話題を変える。
「あぁ、あれね。もらい物なのよ、結構な値段するから」
「じゃあ、毎日は食べられないね」
弁当箱を取り出し、台所の水に浸す。
「うちの家計じゃなかなかね」
部屋に戻り一人になる。自分だけの空間になる。ようやく私は明智千鶴という役を演じるのをやめ、私そのものになる。まぶたが降りてきて目が虚ろになる。
私には自分が生きている意味が分からないです。
学校で勉強し、就職なり、結婚なりをし、その生涯を全うすることに意味がある? それは明智千鶴という役にとって意味がある、ってことでしょ?
でもこの“私”が生きる意味は?
明智千鶴ではなく、この私が生きている意味は何も分からない。
だから希望って必要なんだと思う。あなたにはこんな生きている意味があるんだよって言ってくれる希望が。希望というのは人が役柄じゃなく人そのものとして生きるために必要なんだよ。
だから私は他人の希望を故意に奪うことは絶対にしたくない。
きっと大丈夫、希望を持とう。きっと明日は楽しいはず、だから。
おやすみ、私。




