友達
廊下に鈍い赤色の光を放つ一角に向かう。強く押す、と書かれていたので、お望みどおりにしてやった。その瞬間けたたましいベルが鳴り響く。そのうちに外部から消防車なりが駆けつけてくれるはずだ。とにかく時間がない。なりふり構わず教室へと急ぐ。
千鶴っ。
漆黒の夜の帳から、かすかな月明かりが差し込まれる。見慣れたはずの教室が荒れ果てて血に染まり、名実共に地獄となる。
そこで見た光景にショックのあまり言葉が出てこなかった。千鶴は床に仰向けに倒れていて、腹部に大きな損傷が見られ、彼女を中心に大きな赤黒い円が床に広がっていた。
「さい、か?」
まだ呼吸がある!
「千鶴っ! しっかりして、もうすぐ外から、」
「彩香、さようなら」
その言葉をきいた瞬間に私の頭の中は真っ白になってフリーズした。
今、なんて?
「ほら、別れの、あいさつ」
「何ばかなこと言ってるの?」
千鶴はとても穏やかな顔をしている。
「じゃあね、って言ったら、ダメ、なんでしょ」
「もういい、しゃべんないで」
私の忠告は聞かずに、千鶴は一言一言を搾り出すように話し続ける。
「じゃあね、って未来を、見つめる、言葉、だから」
千鶴は私の言いたかったことをよく理解していた。じゃあね、という言葉はまた合いましょうというニュアンスを含んでいる。“未来”に会うことを約束している。
さようなら、には、もしもこれがさようならならば、というニュアンスを含んでいる。つまり、もう会うことはないかもしれないから“今”のこの別れを大事にしましょうという意味合いが含まれている。
「だから、ね、さいか、さようなら」
「もう会うことはないって、そう言いたいのっ」
千鶴は少し困った顔をする。
「さいかは、まだまだ、さいか、だね」
「千鶴っ」
今の今まで私の中に鎖で繋がれていた情動があふれんばかりの力で鎖を引きちぎり、捨てたはずの感情がよみがえってくる。
断崖絶壁から人生の無目的性の海を見つめる。自分の生きている意味なんて分からない。それでも、もし次の瞬間自分が自分でなくなるなら、今この瞬間に自分はどうありたい?
私は千鶴と一緒にいたいっ! 千鶴と離れたくない。ここで千鶴とさよならだなんて認めたくないっ。 絶対に認めたくないっ!
「千鶴っ、お願いだからさようならだなんて言わないでよっ、ねぇっ!」
声に力がこもる。忘れていた感情が留まることなく目から頬を伝いあふれ出してくる。顔中がくしゃくしゃになる。必死に呼びかけるがもう千鶴は反応を返してくれない。
『わかったよ。その代わり、私のことはお前じゃなくて、千鶴って呼んで』
「千鶴、千鶴っ!」
『怖がらなくても、千鶴って呼べばいつでも“私”は返事をするよ』
「嘘ばっかりっ。ちゃんと返事してよ、ねぇ、千鶴っ!」
『嘘ついたら好きな絵を一枚描いてあげる。彩香は絵が下手くそだから』
「あぁそうだよ、私は下手くそな絵しか描けないよ。だから、千鶴が描いてよっ。お願いだから、もう一度起きて絵を描いてよっ、ねぇ、千鶴っ!」
“私”は希望が憎いのだ。でもこのときばかりはそんな希望にすがらざるを得なかった。校内には静かなピアノの演奏がなり続いていた。




