第09話 はじまり
「聖女、召喚……。それに、この……『等価交換』……?」
—— 碑文の解読
石壁に刻まれた、古い文字の列。
四方の壁の、ただ一枚——最初に見つかった、その碑文の前に、アネッサが、歩み寄った。
壁に顔を近づける。
眼鏡の奥の目が、文字の一つひとつを、舐めるように、追っていく。
「古代様式の……文字。読めるか、やってみます」
指先で、刻まれた溝を、ひとつずつ、なぞっていった。
長い、沈黙が、流れた。
誰もが、固唾を呑んで、その背中を、見つめていた。
聞こえるのは、アネッサの、かすかな呼吸の音だけ。
時おり、その口から、意味をなさない、古い音の断片が、こぼれた。
「……読める、ところも、あります。でも——」
アネッサの声が、ためらいに、揺れた。
「これは……儀式の、手順……? いえ、伝承、でしょうか。とにかく、何かの儀式に、関わるもの……」
儀式。
その一言が、部屋の空気を、ひやりと、撫でていった。
近くにいた者が、ごくり、と喉を鳴らした。
「儀式って……何の?」
ナリアが、不安げに、問うた。
白い装束の肩が、わずかに強張っている。
「わかりません。まだ、ほんの一部しか、読めていません」
アネッサは、悔しそうに、唇を噛んだ。
一枚の碑文だけでは、文字は拾えても、話が、繋がらない。
断片が、断片のまま、宙に、散らばっていくばかりだった。
その、どうにも話が繋がらない、という手詰まりが、クイナの胸にあった予感と、ぴたりと重なった。
——やはり、この一枚だけ、ではない。
壁の織物は、ほかにも、三枚ある。
「……ほかの織物の裏も、見てみては」
クイナは、静かに口を開いた。
「もし、四方の壁に、同じように碑文があるなら——全部そろえて読めば、何か、繋がるかもしれません」
アネッサが、はっと顔を上げた。
その目に、研究者の光が、戻る。
「……そうですね。一枚では断片でも、四枚そろえば——意味が、見えてくるかもしれない」
全員の視線が、残りの三枚の織物へ、向かった。
行動の早いシキータが、真っ先に近くの一枚へ、駆け寄った。
「あたしが、めくってみる!」
布を、勢いよく持ち上げた。
——あった。
その裏にも、びっしりと文字が、刻まれていた。
「ほんとだ! こっちにも、ある!」
マイラも、別の壁の布を、めくった。
そこにも、碑文。
最後の一枚——その布の裏にも、やはり、文字の列が、刻まれていた。
四方の壁、すべてに、碑文があった。
息を呑む音が、いくつも、部屋を、満たした。
いつのまにか、十七人は、四枚の、古い文字の壁に、ぐるりと、囲まれていた。
——この部屋は、ただの石室なんかじゃない。
最初から、何か目的をもった部屋だった。
ただ、織物に、その口を、塞がれていただけ。
アネッサは、四つの碑文を、順に見て回った。
時に立ち止まり、時に指でなぞり、低くつぶやきながら。
その額に、玉のような汗が、にじんでいた。
ひとつの壁の碑文には、文字に混じって、図のようなものが刻まれていた。
人が、輪を描くように、並んでいる——そんな、図像。
別の壁には、びっしりと物語めいた、長い文章。
また別の壁には、短い、規則のような、一文だけ。
そして、最後の一枚には——ほかのどれよりも、深く刻み込まれた文字が、並んでいた。
「こちらは……儀式の、手順のよう。こちらは……何かの、伝承……」
ふと、その手が止まった。
ある一行を、何度も、何度もなぞった。
「……『聖女』……『召喚』……?」
聞き慣れない言葉が、ふいに、口から、こぼれた。
「聖女、召喚……。それに、この……『等価交換』……?」
「とうか、こうかん?」
シキータが、首をかしげた。
「何かを差し出して、その代わりに、何かを得る……そういう、意味の言葉だと、思います。でも——」
アネッサは、困り果てたように、眉を寄せた。
「言葉は、読めるんです。ひとつ、ひとつは。でも……それが、何のことなのか、どう繋がるのか。肝心のところが、まるで、掴めない」
聖女召喚。
等価交換。
断片的な言葉だけが、意味を伴わないまま、宙に、浮かんでいた。
ただ、ここが、ずっと昔、何かの儀式の場だったらしい——それだけは、確かだった。
黒髪のシエラが、低く、つぶやいた。
「やっぱり……この部屋には、何かが、息を潜めている気がする。さっき、感じた通り」
白い装束のナリアは、そっと目を伏せ、唇を動かしていた。
祈りの言葉だろうか。
その横で、簡素な装いのコルテが、不安げに、胸を押さえていた。
クイナは、その言葉を——聖女召喚、等価交換——ひとつ残らず、記憶に刻んだ。
いまは、意味が、わからなくていい。
見たもの、聞いたものは、忘れない。
いつか、これらが、繋がる日が、来るかもしれない。
そのときのために、すべてを、覚えておく。
「ねえ……」
誰かが、声を震わせた。
「その儀式って……私たちと、関係、あるの……?」
誰も、答えられなかった。
関係があるとも、ないとも、わからない。
何かの儀式の場所に、なぜか、自分たちが、閉じ込められている。
ただ、得体の知れない不安だけが、静かに、部屋に、広がっていった。
その時だった。
あの、ひときわ深く刻み込まれた文字の碑文を、じっと見つめていたアネッサが、ふいに、動きを止めた。
文字を追っていた目が、焦点を失い、宙をさまよった。
その顔から、すっと血の気が引いていった。
「……あれ?」
かすれた、声だった。
「この、部屋……」
アネッサの指が、震えながら、冷たい壁に触れた。
「私……ここを、知っている……?」
誰もが、息を止めて、彼女を見つめた。
「子供の頃……確かに、私……この部屋に、いた——」
その言葉が、石の部屋に、ぽつりと、落ちた。
アネッサ自身が、自分の言葉に、いちばん、驚いているようだった。
大きく見開かれた目が、何もない、宙の一点を見つめていた。
まるで、いま、この瞬間、遠い昔の光景が、その目に、映っているかのように。
けれど、それが、何なのか。
そこに、誰がいたのか。
アネッサ自身にも、まだ、像は、結ばないようだった。
ただ、「ここにいた」という、その感覚だけが、確かに、胸の奥から、せり上がってくる——そんな、横顔だった。
クイナの胸が、とくん、と嫌な音を立てた。
——子供の頃、ここにいた?
この、儀式の場に。
四枚の碑文に、囲まれた、この部屋に。
沈黙が、重く、落ちた。
誰も、何も、言えなかった。
後ずさる者がいた。
無意識に、隣の者の腕を、掴む者がいた。
「……うそ」
誰かの、声が、震えた。
いつも、真っ先に動くはずのシキータが、めくったばかりの織物から、そっと手を離した。
その指先が、かすかに震えている。
いつもの勢いは、どこにも、なかった。
ナリアは、伏せた目を、さらに固く、閉じた。
唇の動きだけが、祈るように、速くなっていく。
誰かが、隣の誰かの名を、小さく呼んだ。
けれど、それに答える余裕のある者は、ひとりも、いなかった。
ただ、アネッサの呟きだけが、皆の胸の底に、石のように、深く、深く沈んでいった。
クイナは、混乱しかける頭で、必死に、考えを巡らせた。
儀式場と思われる、この場所。
子供の頃に、確かにここにいた、と言う、ひとりの女性。
——では、なぜ、その彼女が、いま、ここへ、呼び戻されたのか。
問いは、増えるばかりで、答えは、ひとつも、出てこない。
もし、アネッサが、本当に、ここへ来たことがあるのなら。
子供の頃、この部屋に、いたのなら。
——私たちも、そうなのか?
淡く脈打つように輝く魔法陣。
そして、古い文字に、埋め尽くされた、石の部屋。
その壁が、いま、ひとりの女性の、忘れていた記憶を、呼び覚ました。
——これは、いったい、何の、始まりなのか。
これにて第一部は終了となります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
とうとう物語が動き出します。
この密室で、どういう物語が展開されていくのか、その流れは第二部で確認してみてください。
そして、明日からは、その第二部となります。
引き続き、第二部もよろしくお願いします。
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