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十七人目の冒険者 ― 私への道  作者: 智信
第二部

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第10話 ここにいた

「いちばん、知りたいことだけが、ぽっかりと、空いている」

—— 記憶の枷

 アネッサの呟きの余韻が、部屋に、いつまでも漂っていた。

 誰も、すぐには、声を出せなかった。

 淡く脈打つ魔法陣の光だけが、十七人の頬を、ぼんやりと撫でている。


「えっ……ここに?」


 エルシェが、ためらいがちに、口を開いた。

 いつもの、よく通る声が、今は、わずかに掠れていた。


「子供の頃に、いた、って……どういう、こと?」


 アネッサは、答えなかった。

 いや、答えられなかった、のかもしれない。

 眼鏡の奥の目は、ひときわ深く刻まれた碑文を、じっと見据えていた。

 けれど、その瞳に映っているのは、もう、今ここの文字では、ないようだった。

 まるで、同じ文字を、遠い昔に見上げた、幼い自分を、見ているかのように。


「……この、文字」


 ようやく、その唇が、動いた。


「読めは、しなかった。子供だったから。でも……模様として、見た覚えが、あるんです。この、深く、刻み込まれた、ならびを」


 震える指が、冷たい碑文の溝を、そっとなぞった。

 言葉が、ひとつ、こぼれるたびに。

 固く閉じていた、何かの蓋が、少しずつ、押し開かれていくようだった。


 やがて、その手が、ゆっくりと足元へ、降ろされた。


「魔法陣も……ここに、あった。そう……今と、同じ。こんなふうに、淡く、光って」


 そこで、ようやく、視線が、碑文から、離れた。

 アネッサは、壁から、壁へと、ゆっくり、目を移していった。


「四方の壁に……こうして、文字が、刻まれていました。あの頃は、布になんか、隠されて、いなくて。むき出しの文字を……私は、飽きずに、見上げて、いたんです」


 専門の話になると熱を帯びる、いつもの早口は、どこにもなかった。

 ひとつ、ひとつ、確かめるように。

 まるで、自分の記憶を、自分で、信じきれずにいるかのように。


「私は……ここに、座っていました」


 その声が、ふと、幼く、聞こえた。


「ちょうど、この、あたり。床は、冷たくて……でも、嫌じゃ、なかった。むしろ……」


 言葉が、途切れた。


「むしろ、誰かと、一緒だった、気がする。私の、見ているものを……隣で、一緒に、覗き込んでくれた……誰か、が」


 アネッサは、宙の一点を、見つめたまま、口をつぐんだ。

 その「誰か」の顔を、懸命に、思い描こうと、しているようだった。

 けれど、それきり、言葉は、続かなかった。

 眼鏡の奥の目だけが、行き場を失って、宙をさまよっていた。


「……だめ。そこから、先が、思い出せない」


 アネッサは、額に手を当てた。


「これは……記憶、なんでしょうか。それとも、ただの……気のせい、感覚?」


 言葉を選ぶ声は、いつもの研究者のように、冷静だった。

 けれど、その語尾は、時おり、隠しきれず、震えた。

 冷静であろうとする自分と、こみ上げる何かとの間で、アネッサは、揺れているようだった。


「でも——遠くで、鐘が、鳴っていた。それだけは……はっきりしているんです」


 誰かが、ごくり、と喉を鳴らした。

 鐘の音。

 淡く光る、魔法陣。

 その記憶が、何を意味するのか——アネッサ自身にも、まだ、像は、結ばないようだった。


「ふしぎ、ですね」


 アネッサが、力なく笑った。


「こんなにも、はっきり、覚えているのに。いちばん、知りたいことだけが、ぽっかりと、空いている。まるで、そこだけ、墨で、塗り潰されたみたいに」


 その言葉に、何人かが、はっと顔を見合わせた。

 めいめいに、自分の子供の頃を、たどろうと、するように。

 目を、閉じる者。

 こめかみを、押さえる者。


「あたしも……ここに、来たこと、あるのかな」


 シキータが、ぽつりと呟いた。

 けれど、すぐに、首を横に振る。


「……ううん、わかんない。思い出そうとすると、もやが、かかったみたいで」


「大丈夫」


 ユーニアが、努めて明るく、言った。


「焦らなくて、いいよ。アネッサさんだって、ふとした拍子に、思い出したんだもの。きっと、みんなも、思い出せる」


 けれど、誰の口からも、アネッサのような、はっきりとした記憶は、出てこなかった。

 あるのは、ただ、得体の知れない、ざわめきだけ。


 部屋の隅で、植物の小袋を握った女性——モアが、訥々と、口を開いた。


「私も……懐かしい、と思った。この部屋に、入った、その時に。どうして、なのかは、わからないけど」


 その短い言葉に、何人かが、深く頷いた。

 それは、理屈ではない、何かに、触れた頷きだった。

 簡素な装いのコルテは、両手を、きゅっと、胸の前で組んでいた。


「私には、はっきりした記憶は、ありません。でも……ここに来てから、ずっと、祈りたい気持ちが、止まらないんです。まるで、ここが、そういう場所だと、どこかで、知っているみたいに」


 黒髪のシエラが、カードを携えた手を、そっと胸に当てた。


「……これは、ただの偶然じゃ、ない。そんな気が、する。私たちは、何かに……呼ばれて、いるのかもしれない」


 その言葉に、ピッパが、小さく頷いた。


「……そうね。きっと、ひとつずつ、ね」


 穏やかな、声だった。

 誰の不安にも、そっと寄り添うような。


 クイナは、その光景を、少し離れた場所から、静かに見つめていた。

 目を細め、ひとつ残らず、記憶に焼き付けていく。


 ——アネッサさんの記憶は、妙に、具体的だ。

 魔法陣の位置、壁の文字、床の冷たさ、鐘の音。

 子供の頃の、おぼろげな断片にしては、細部がはっきりしすぎている。

 あれは、想像や、思い込みの類いでは、ない。

 本当に、この場所にいた人の、記憶だ。


 けれど、とクイナは思った。

 ——肝心なところだけが、すっぽりと、抜け落ちている。

 なぜ、子供の自分が、ここへ、連れて来られたのか。

 隣に、いたという「誰か」は、誰なのか。

 そして、その先に、何が、起きたのか。

 まるで、誰かが、都合の悪いところだけを、丁寧に削り取っていったかのように。


 それに——あの、「隣にいた誰か」。

 話しながら、アネッサは、何度も、十七人の顔を見回していた。

 その面影を、この中に、探そうとするように。

 けれど、どの顔とも、重ならないらしく。

 最後には、小さく首を振って、目を伏せた。

 ——誰でもない、誰か。

 顔も、声も、名前もない、ただ温かさだけを残した、その「誰か」の輪郭が、クイナの胸の隅にも、奇妙な座りの悪さとなって、残った。


 そして、もうひとつ。

 クイナの胸には、別の確信が、あった。

 ——私は、この部屋を、知らない。

 冷たい石も、淡く脈打つ光も、深く刻まれた文字も、鐘の音も。

 どれひとつ、覚えが、ない。

 アネッサが、いま懸命に手繰り寄せている、その記憶の糸の、どこにも、自分は、繋がっていなかった。

 ここにいる十六人と、自分との間に、見えない一本の線が、引かれている——そんな感覚が、なぜか、胸の奥に、小さな棘のように、刺さった。


 けれど、それを、口にはしなかった。

 いまは、ただ、見て、覚えておけばいい。

 いつか、この断片たちが、ひとつに繋がる、その時のために。


 どれほどの、時間が、経っただろう。

 アネッサが、長い息を、ついた。

 眼鏡を外し、目頭を、指で押さえる。


「……だめですね。私の記憶は、どうやら、ここまで、みたい」


 その声には、隠しきれない、疲労が、滲んでいた。


「もう少しで、手が、届きそうなのに。その、もう少しが、どうしても、越えられない。霧の、向こう側に、何かが、いるのは、わかるんです。でも——その顔が、見えない」


 誰も、急かさなかった。

 めいめいに、押し黙り、考え込む。

 部屋に、再び、沈黙が、降りた。


 けれど——その沈黙は、さっきまでの、ただ怯えるだけの沈黙とは、どこか、色が、違っていた。

 アネッサが、確かに、この部屋を、覚えていた。

 ならば。

 ——もしかしたら、私も。

 その小さな問いが、ひとり、また、ひとりの胸に、灯り始めていた。

 静かに目を閉じる者。

 冷たい壁の文字を、そっと、指でなぞる者。

 十七人が、それぞれの記憶の糸を、おそるおそる手繰り始める。


 その輪の中で、ただ、クイナだけが。

 手繰るべき糸を、持たないまま、静かに、皆を見守っていた。

今後の参考になりますので、面白い・続きが気になると思っていただけたら、

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