第10話 ここにいた
「いちばん、知りたいことだけが、ぽっかりと、空いている」
—— 記憶の枷
アネッサの呟きの余韻が、部屋に、いつまでも漂っていた。
誰も、すぐには、声を出せなかった。
淡く脈打つ魔法陣の光だけが、十七人の頬を、ぼんやりと撫でている。
「えっ……ここに?」
エルシェが、ためらいがちに、口を開いた。
いつもの、よく通る声が、今は、わずかに掠れていた。
「子供の頃に、いた、って……どういう、こと?」
アネッサは、答えなかった。
いや、答えられなかった、のかもしれない。
眼鏡の奥の目は、ひときわ深く刻まれた碑文を、じっと見据えていた。
けれど、その瞳に映っているのは、もう、今ここの文字では、ないようだった。
まるで、同じ文字を、遠い昔に見上げた、幼い自分を、見ているかのように。
「……この、文字」
ようやく、その唇が、動いた。
「読めは、しなかった。子供だったから。でも……模様として、見た覚えが、あるんです。この、深く、刻み込まれた、ならびを」
震える指が、冷たい碑文の溝を、そっとなぞった。
言葉が、ひとつ、こぼれるたびに。
固く閉じていた、何かの蓋が、少しずつ、押し開かれていくようだった。
やがて、その手が、ゆっくりと足元へ、降ろされた。
「魔法陣も……ここに、あった。そう……今と、同じ。こんなふうに、淡く、光って」
そこで、ようやく、視線が、碑文から、離れた。
アネッサは、壁から、壁へと、ゆっくり、目を移していった。
「四方の壁に……こうして、文字が、刻まれていました。あの頃は、布になんか、隠されて、いなくて。むき出しの文字を……私は、飽きずに、見上げて、いたんです」
専門の話になると熱を帯びる、いつもの早口は、どこにもなかった。
ひとつ、ひとつ、確かめるように。
まるで、自分の記憶を、自分で、信じきれずにいるかのように。
「私は……ここに、座っていました」
その声が、ふと、幼く、聞こえた。
「ちょうど、この、あたり。床は、冷たくて……でも、嫌じゃ、なかった。むしろ……」
言葉が、途切れた。
「むしろ、誰かと、一緒だった、気がする。私の、見ているものを……隣で、一緒に、覗き込んでくれた……誰か、が」
アネッサは、宙の一点を、見つめたまま、口をつぐんだ。
その「誰か」の顔を、懸命に、思い描こうと、しているようだった。
けれど、それきり、言葉は、続かなかった。
眼鏡の奥の目だけが、行き場を失って、宙をさまよっていた。
「……だめ。そこから、先が、思い出せない」
アネッサは、額に手を当てた。
「これは……記憶、なんでしょうか。それとも、ただの……気のせい、感覚?」
言葉を選ぶ声は、いつもの研究者のように、冷静だった。
けれど、その語尾は、時おり、隠しきれず、震えた。
冷静であろうとする自分と、こみ上げる何かとの間で、アネッサは、揺れているようだった。
「でも——遠くで、鐘が、鳴っていた。それだけは……はっきりしているんです」
誰かが、ごくり、と喉を鳴らした。
鐘の音。
淡く光る、魔法陣。
その記憶が、何を意味するのか——アネッサ自身にも、まだ、像は、結ばないようだった。
「ふしぎ、ですね」
アネッサが、力なく笑った。
「こんなにも、はっきり、覚えているのに。いちばん、知りたいことだけが、ぽっかりと、空いている。まるで、そこだけ、墨で、塗り潰されたみたいに」
その言葉に、何人かが、はっと顔を見合わせた。
めいめいに、自分の子供の頃を、たどろうと、するように。
目を、閉じる者。
こめかみを、押さえる者。
「あたしも……ここに、来たこと、あるのかな」
シキータが、ぽつりと呟いた。
けれど、すぐに、首を横に振る。
「……ううん、わかんない。思い出そうとすると、もやが、かかったみたいで」
「大丈夫」
ユーニアが、努めて明るく、言った。
「焦らなくて、いいよ。アネッサさんだって、ふとした拍子に、思い出したんだもの。きっと、みんなも、思い出せる」
けれど、誰の口からも、アネッサのような、はっきりとした記憶は、出てこなかった。
あるのは、ただ、得体の知れない、ざわめきだけ。
部屋の隅で、植物の小袋を握った女性——モアが、訥々と、口を開いた。
「私も……懐かしい、と思った。この部屋に、入った、その時に。どうして、なのかは、わからないけど」
その短い言葉に、何人かが、深く頷いた。
それは、理屈ではない、何かに、触れた頷きだった。
簡素な装いのコルテは、両手を、きゅっと、胸の前で組んでいた。
「私には、はっきりした記憶は、ありません。でも……ここに来てから、ずっと、祈りたい気持ちが、止まらないんです。まるで、ここが、そういう場所だと、どこかで、知っているみたいに」
黒髪のシエラが、カードを携えた手を、そっと胸に当てた。
「……これは、ただの偶然じゃ、ない。そんな気が、する。私たちは、何かに……呼ばれて、いるのかもしれない」
その言葉に、ピッパが、小さく頷いた。
「……そうね。きっと、ひとつずつ、ね」
穏やかな、声だった。
誰の不安にも、そっと寄り添うような。
クイナは、その光景を、少し離れた場所から、静かに見つめていた。
目を細め、ひとつ残らず、記憶に焼き付けていく。
——アネッサさんの記憶は、妙に、具体的だ。
魔法陣の位置、壁の文字、床の冷たさ、鐘の音。
子供の頃の、おぼろげな断片にしては、細部がはっきりしすぎている。
あれは、想像や、思い込みの類いでは、ない。
本当に、この場所にいた人の、記憶だ。
けれど、とクイナは思った。
——肝心なところだけが、すっぽりと、抜け落ちている。
なぜ、子供の自分が、ここへ、連れて来られたのか。
隣に、いたという「誰か」は、誰なのか。
そして、その先に、何が、起きたのか。
まるで、誰かが、都合の悪いところだけを、丁寧に削り取っていったかのように。
それに——あの、「隣にいた誰か」。
話しながら、アネッサは、何度も、十七人の顔を見回していた。
その面影を、この中に、探そうとするように。
けれど、どの顔とも、重ならないらしく。
最後には、小さく首を振って、目を伏せた。
——誰でもない、誰か。
顔も、声も、名前もない、ただ温かさだけを残した、その「誰か」の輪郭が、クイナの胸の隅にも、奇妙な座りの悪さとなって、残った。
そして、もうひとつ。
クイナの胸には、別の確信が、あった。
——私は、この部屋を、知らない。
冷たい石も、淡く脈打つ光も、深く刻まれた文字も、鐘の音も。
どれひとつ、覚えが、ない。
アネッサが、いま懸命に手繰り寄せている、その記憶の糸の、どこにも、自分は、繋がっていなかった。
ここにいる十六人と、自分との間に、見えない一本の線が、引かれている——そんな感覚が、なぜか、胸の奥に、小さな棘のように、刺さった。
けれど、それを、口にはしなかった。
いまは、ただ、見て、覚えておけばいい。
いつか、この断片たちが、ひとつに繋がる、その時のために。
どれほどの、時間が、経っただろう。
アネッサが、長い息を、ついた。
眼鏡を外し、目頭を、指で押さえる。
「……だめですね。私の記憶は、どうやら、ここまで、みたい」
その声には、隠しきれない、疲労が、滲んでいた。
「もう少しで、手が、届きそうなのに。その、もう少しが、どうしても、越えられない。霧の、向こう側に、何かが、いるのは、わかるんです。でも——その顔が、見えない」
誰も、急かさなかった。
めいめいに、押し黙り、考え込む。
部屋に、再び、沈黙が、降りた。
けれど——その沈黙は、さっきまでの、ただ怯えるだけの沈黙とは、どこか、色が、違っていた。
アネッサが、確かに、この部屋を、覚えていた。
ならば。
——もしかしたら、私も。
その小さな問いが、ひとり、また、ひとりの胸に、灯り始めていた。
静かに目を閉じる者。
冷たい壁の文字を、そっと、指でなぞる者。
十七人が、それぞれの記憶の糸を、おそるおそる手繰り始める。
その輪の中で、ただ、クイナだけが。
手繰るべき糸を、持たないまま、静かに、皆を見守っていた。
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