第11話 リズム
あれから、しばらく。
めいめいが、自分の記憶の奥を、懸命に覗き込んでいた。
けれど——何かを思い出せたのは、やはり、アネッサ、ただ一人だけ。
その彼女も、肝心なところで、行き止まっていた。
その淀んだ空気を破ったのは、シキータだった。
「ねえ、それより」
シキータが、ぱっと顔を上げる。
「アネッサさん。さっき読んでくれた、あの壁の文字——碑文、だっけ。あれ、いったい、何が書いてあったの? もう一回、ちゃんと、教えてよ」
考えてみれば、と、クイナは思った。
碑文を見つけ、断片を拾いはしたが、皆が落ち着いて、その中身を聞く機会は、まだなかった。
次々に起きる出来事に、ただ、追い立てられていただけだ。
「……そうですね。曖昧な記憶より、まずは、確かなものから」
アネッサが、眼鏡の位置を直し、立ち上がった。
不確かな記憶の沼から、足を引き上げるように。
自分の領分に戻ると、その横顔に、少しだけ、研究者の落ち着きが、戻ってきた。
「まず——一枚ずつ、書いてある通りに、声に出してみます。意味は、そのあとで」
アネッサが、ひとつ目の壁に、指を添えた。
ひとつ、息を吸う。
そして、その口から、誰も聞いたことのない言葉がこぼれ出た。
「——イ・サ・レーン。トゥオ・ネ・ヴィ……」
低く、転がるような響きだった。
意味は、まるで、わからない。
けれど、不思議と、耳の奥に、残った。
「……これは、儀式の、手順。何を、どんな順番で行うか。段取りのようなものが、刻まれています」
次の壁へ、指が移る。
「——サラ・ク・トー。ネイ・ファ・ルゥ……」
その聞き慣れない響きに、何人かが身じろぎした。
「こちらは、伝承。古い言葉で——『聖女召喚』。聖女を、呼び出す。そういう、言い伝えです」
三つ目の壁へ。
アネッサの指が、文字の溝を、なぞっていく。
「——ヴェ・ドゥ・ナ。オル・テ・シア……」
「『等価交換』。何かを差し出して、その代わりに、何かを得る——代償の、決まりごとです」
その響きを聞きながら——フィオラの指先が、かすかに、動いた。
そして、最後に。
ひときわ深く刻まれた壁の前で、アネッサの指が、止まった。
ほかのどれよりも、長く、古い言葉の連なり。
「——カイ・ロ・ネス。ウ・ドゥ・ライ。テオ・サ・ミン……」
低く、高く、また、低く。
ひとつの音が、次の音を手招きするように。
硬いはずのアネッサの声が、その律動だけは、確かに、なぞっていた。
まるで、遠い昔に、誰かが唄った歌の、名残のように。
「これが——過去の儀式の歴史。いつ行われたか、その記録です」
全員が、深刻な面持ちで、聞き入っていた。
聖女召喚。
等価交換。
言葉は、確かに、そこにある。
けれど、その言葉が、自分たちにとって、何を意味するのか。
誰にも、わからなかった。
白い装束の、ナリアが、震える声で、呟いた。
「……まさか、私たちが。この、儀式と……」
その先は、言葉に、ならなかった。
誰も、それを、否定できなかった。
できるだけの材料が、何ひとつ、なかったから。
その時だった。
楽器を背負った女性——フィオラが、ふと、小さく、呟いた。
「……詩みたい」
近くにいた者が、怪訝そうに、振り返る。
「詩?」
「うん。さっき、アネッサさんが、ひとつずつ、声に出して、読んだ——あの、古い言葉。あれが、頭の中で、ずっと、鳴っていて。なんだか、韻を踏んでるみたいで。リズムがとれる」
いつのまにか、フィオラの指が、自分の膝を、軽く、叩いていた。
とん、とん、とん……と。
規則正しい、リズム。
吟遊詩人の指は、言葉の奥にある律動を、無意識に、拾っていた。
とん、とん、とん。
その指の動きが、続くうちに。
フィオラの表情が、ふいに、変わった。
叩く手が、ぴたり、と止まる。
「……あれ」
その目が、大きく、見開かれた。
「このリズム……私、知っている」
声が、かすかに、震えていた。
「ずっと昔。何かの……前に。不安で、たまらなくて。落ち着こうとして——こうやって、指で、同じリズムを、刻んでいた」
フィオラは、自分の手を、信じられないものでも見るように、見つめた。
「待って、いたんだ。私。何かを、ずっと。それが、怖くて。でも、このリズムを刻んでいると、少しだけ、心が、凪いだ」
フィオラが、自分の右手を、ひらいては、閉じた。
「この、指の感じ。いまの私が、弦を、押さえる時と、同じだ。子供の頃の、これが——そのまま、私の手に、残ったのかもしれない」
指先が、もう一度、宙で、とん、と、跳ねた。
「隣に……いました。私と、同じくらいの、年の子が」
言葉が、ひとつずつ、こぼれていく。
「その子が——私のリズムに、合わせて、鼻歌を、歌ってくれた。小さな、声で。そう、こんなふうに……」
フィオラの唇が、何かのメロディを、なぞろうとして。
けれど、音にならず、消えた。
「それから……もう一人。別の、誰かが、いた。その子は、また違う、綺麗なメロディを……口ずさんで、いた気が……する」
そこで、フィオラの言葉も、途切れた。
鼻歌の子の顔も。
メロディを口ずさんだ、もう一人の顔も。
広い部屋の冷たい石の床の感触だけを残して——その先は、霧の中に、沈んでいた。
「……だめだ。誰だったのか、までは、出てこない」
その時。
フィオラの隣で、エルシェが、小さく、息を呑んだ。
とん、とん、とん、というリズムを、聞いた瞬間から。
その瞳が、どこか、落ち着かなげに、揺れていた。
「……このリズム」
エルシェが、自分の胸に、手を当てる。
「なんだか……知っている気が、する。どこかで、聞いた気が……」
けれど、それきり、言葉は、続かなかった。
形になりかけた何かは、すぐに、霧散したらしい。
エルシェは、戸惑ったように、首を振った。
「……ごめんなさい。気のせい、かしら」
部屋のあちこちで。
めいめいが、自分の手元に、目を落としていた。
無意識の癖。
いつも、なぞっている何か。
数人が、自分の指を、ぎゅっと、握りしめる。
「……私たちも、本当は」
誰かが、言いかけて、口を、つぐんだ。
その先を、言葉にするのが、怖い、というように。
クイナは、少し離れた場所で、二人を——アネッサと、フィオラを、静かに見比べていた。
目を細め、ひとつ残らず、記憶に、焼き付けていく。
——共通している。
不安。
何かを、待っていた。
広い部屋。
冷たい石の床。
そして——隣に、いた「誰か」。
二人とも、同じものを、語っている。
まるで、同じ日の同じ場所を、別々の角度から、覗いているかのように。
——同じ場所に、同じ頃。
この二人は、確かにいた。
アネッサは、目で。
フィオラは、手で。
それぞれの覚え方で、同じ一日を、抱えている。
けれど、と、クイナは思った。
——やはり、その「誰か」だけが、像を結ばない。
アネッサの隣に、いた誰か。
フィオラのリズムに、鼻歌を合わせた誰か。
そして、綺麗なメロディを口ずさんでいたもう一人。
みな、顔のない、ただの「誰か」のまま、宙に、浮いている。
それに——エルシェ。
フィオラのリズムに、ひとり、過敏に反応していた。
あの揺らぎは、いったい、何だったのか。
クイナは、その横顔も、静かに、記憶の隅に刻んでおいた。
そして、いつものように。
——私には、覚えがない。
あのリズムも。
あのメロディも。
広い部屋も。
二人が分かち合っている、その記憶のどこにも、自分は立っていなかった。
フィオラが、長い息をついて、楽器の紐を握り直した。
「私の記憶も……ここまで、みたいだ。もどかしいな。喉まで、出かかってるのに」
その横で、アネッサが、深く頷いた。
二人の間に、言葉はなかった。
けれど、確かに、何かが——同じ何かが、通い合っているのが、見て取れた。
ひとつの記憶が、別の記憶を呼んだ。
碑文の古い言葉のリズムが、ひとりの女性の記憶を目覚めさせた。
淡く脈打つ魔法陣の光の中で。
十七人は、まだ、それぞれの記憶の入り口を探しあぐねていた。
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