第12話 光(ひかり)
「古い言葉で——『光』。世に、光を、もたらす者、という、意味の字」
—— 記憶の扉
フィオラのリズムの余韻が、まだ残っていた。
その沈黙の中、ひとり、碑文の前へ、歩み出た者がいた。
リノだった。
「……綺麗な文字ですね」
リノは、碑文に刻まれた古い文字に、すっかり見入っていた。
文官として、日々、書を扱う者。
その目には、ほかの誰も気に留めなかった、文字の一画一画の美しさが、映っているらしかった。
「読めは、しません。でも……この線の、流れ。とても、丁寧に、彫られている」
書を愛する者の目だった。
リノは、壁から壁へと、視線を走らせる。
その横顔に、文官らしい、生き生きとした熱が、戻っていた。
「見てください。一枚ごとに、違うんです。こちらは、硬くて、几帳面。こちらは、もっと、伸びやか。彫った人が、違うのかも、しれません」
誰かの不安をよそに、リノだけは、純粋に、その文字の美しさに、見惚れているようだった。
「読めなくても、いいんです。美しいものは、美しい。……ああ、この、止め。ここの、はらい。お手本に、したいくらい」
リノの指が、そっと、文字の溝に、触れた。
書き順を確かめるように。
一画、また一画。
まるで、自分の手で、その文字を、なぞり直しているかのように。
「これは……こう、描くんですね。ふむ、この字も、美しい……」
誰も、止めなかった。
ただ、リノの指が、古い文字の上を、ゆっくりと滑っていくのを、見守っていた。
その指が、ある一文字の上で——ふいに、止まった。
「あ……」
リノの動きが、固まった。
なぞりかけの指先が、宙に浮いたまま。
「この字……」
声が、急に、幼く揺れた。
「知っている。私……この字を、描いたことが、ある」
近くにいた者たちが、息を呑んだ。
また、ひとり。
この部屋を知っている者が——増えた。
リノは、はじかれたように、床に、膝をついた。
冷たい石の床に、指を、押し当てる。
そして、ゆっくりと——その指で、床に、同じ文字を、描き始めた。
迷いのない、流れるような線。
頭ではなく、手のほうが、その形を、覚えているかのようだった。
石の冷たさも、指先が白く汚れていくのも、リノは、気に留めていないようだった。
遠い日の自分がそうしたとおりに、その手が、ひとりでに、動いていく。
まるで、忘れていたのは頭だけで、この手は一度も、その日を、忘れていなかったかのように。
「子供の頃……私、ここで、これを、描いた」
その指が、床の上をすべる。
「筆も、墨も、なかった。ただ、指で。こうやって、何度も……この、広い部屋で」
リノの肩が、小さく、震えていた。
「不安、だったんだと、思います。何かが、始まるのを、待っていて。怖くて。だから——手を、動かしていた。こうして、字を、描いていれば、少しだけ、気が、紛れたから」
その背に、そっと、手を添える者が、いた。
旅装姿——マイラだった。
「リノ……大丈夫?」
けれど、リノは、答えなかった。
描き終えたばかりの文字から、目を、離せないでいた。
その指先が、もう一度、描いた線を、いとおしむように、なぞる。
幾度も、幾度も、描いた——手のひらが、そう、訴えてくるような、馴染みかただった。
「……待って。その字」
アネッサが、はっと、息を呑んだ。
眼鏡の奥の目が、大きく、見開かれた。
「古い言葉で——『光』。世に、光を、もたらす者、という、意味の字、です」
光。
その一言が、この部屋に、ことり、と落ちた。
ただの古い文字のひとつ。
なのに、なぜか——誰も、目を、離せなかった。
リノが、ゆっくりと、自分の指先と、床の文字を、見比べた。
「……知らなかった。私、そんな意味の字だなんて、思いも、しないで。ただ、この形だけを——指が、ずっと、覚えていたなんて」
その声が、戸惑いに、揺れていた。
黒髪のシエラが、その文字を、見つめたまま、低く、つぶやいた。
「……光。妙な字ね。見ていると、なんだか——懐かしいような、遠いような」
けれど、それ以上は、続かなかった。
シエラもまた、自分の言葉の意味を、つかみかねているようだった。
碑文の中の『光』。
リノが、子供の頃、この床に描いた『光』。
同じ字が、遠い時を隔てて、向かい合っていた。
偶然、だろうか。
子供が、たまたま覚えていた字が、たまたま、この碑文にもあった。
そう思えば、不思議は、ない。
けれど——その場の誰も、それを、ただの偶然とは、思えずにいた。
「でも……変なんです」
リノが、眉を寄せた。
「私は、碑文を、読んで、思い出したわけじゃ、ありません。ただ——この字を、自分の指で、描いた。その、手の感触だけが、よみがえった。碑文のことなんて、何も、知らない、子供の頃に」
なぜ、その字を、描いていたのか。
ひとりだったのか、それとも——誰かと、一緒だったのか。
その字に、どんな意味があるのか。
リノには、何ひとつ、わからなかった。
ただ、「ここで、この字を、描いた」。
そのたったひとつの事実だけが、確かに、手の中に、残っていた。
部屋のあちこちで。
めいめいが、自分の手のひらを、見つめていた。
自分にも、覚えのない何かが、刻まれていないか、と。
けれど——壁の文字に、手を伸ばす者がいても。
床に、指を走らせる者がいても。
アネッサや、フィオラや、リノのように、はっきりと「思い出した」と言える者は、もう、現れなかった。
三人。
ただ、三人だけ。
クイナは、床に描かれた文字を、じっと、見つめた。
目を細め、ひとつ残らず、記憶に、刻みつける。
——三人とも、この部屋を、知っていた。
広い部屋。
冷たい石の床。
子供の頃の、不安。
めいめいに、別々のきっかけで、同じ場所の同じ記憶を、手繰り寄せている。
それに、と、クイナは思った。
アネッサは、壁の文字を目で。
フィオラは、言葉の響きとリズムで。
リノは、文字を指でなぞって。
きっかけは、てんでばらばら。
なのに、行き着く先は、いつも、同じだ。
——この部屋。
まるで、別々の鍵で、同じひとつの扉を、開けているかのように。
ただ——リノの記憶だけは、ほかの二人と、少し、毛色が、違っていた。
アネッサも、フィオラも、よみがえったのは、漠然とした、感覚だった。
不安。
待っていた。
広い部屋。
けれど、リノが、よみがえらせたのは——たったひとつの、はっきりとした形。
『光』という字。
偶然にしては、選び抜かれたように、その一文字だけが、やけに、くっきりと、浮かんで見えた。
——わからないのは、そこだった。
リノは、なぜ、この場所で、よりにもよって、『光』という字を、描いていたのだろう。
ひとりで? それとも、誰かに、教わって?
答えのない問いが、また、ひとつ、増えた。
そして、いつものように。
——私は、知らない。
この字を指で描いた覚えも。
この部屋の冷たい床も。
三人が分かち合う、その記憶のどこにも、やはり、自分の居場所は、なかった。
リノが、床から、ゆっくりと、立ち上がった。
膝についた冷たさを、払うように。
「……だめですね。私に思い出せるのは、ここまで、みたいです。なぜ描いたのかも、誰と描いたのかも——その先が、どうしても」
その声には、さっきまでの文官らしい張りは、もう、なかった。
誰も、何も、言えなかった。
慰めの言葉も、次の一手も——いまは、まだ、誰の手にも、なかった。
この部屋に、三つの記憶が、並んだ。
壁を知る者。
リズムを知る者。
古い一文字を知る者。
けれど、その誰もが、たどり着けるのは、入り口のほんの手前まで。
そして、それぞれが、同じ心細さを、抱えていた。
誰の指先にも、まだ、答えのない、ひとつの字が、残されていた。
『光』。
誰にも読めない言葉の中で、ただ、その一文字だけが、意味を持って、ぽつりと、灯っている。
それが、いったい、何を照らす光なのか——まだ、誰も、知らなかった。
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