表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十七人目の冒険者 ― 私への道  作者: 智信
第二部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/37

第12話 光(ひかり)

「古い言葉で——『ひかり』。世に、光を、もたらす者、という、意味の字」

—— 記憶の扉

 フィオラのリズムの余韻が、まだ残っていた。

 その沈黙の中、ひとり、碑文の前へ、歩み出た者がいた。

 リノだった。


「……綺麗な文字ですね」


 リノは、碑文に刻まれた古い文字に、すっかり見入っていた。

 文官として、日々、書を扱う者。

 その目には、ほかの誰も気に留めなかった、文字の一画一画の美しさが、映っているらしかった。


「読めは、しません。でも……この線の、流れ。とても、丁寧に、彫られている」


 書を愛する者の目だった。

 リノは、壁から壁へと、視線を走らせる。

 その横顔に、文官らしい、生き生きとした熱が、戻っていた。


「見てください。一枚ごとに、違うんです。こちらは、硬くて、几帳面。こちらは、もっと、伸びやか。彫った人が、違うのかも、しれません」


 誰かの不安をよそに、リノだけは、純粋に、その文字の美しさに、見惚れているようだった。


「読めなくても、いいんです。美しいものは、美しい。……ああ、この、止め。ここの、はらい。お手本に、したいくらい」


 リノの指が、そっと、文字の溝に、触れた。

 書き順を確かめるように。

 一画、また一画。

 まるで、自分の手で、その文字を、なぞり直しているかのように。


「これは……こう、描くんですね。ふむ、この字も、美しい……」


 誰も、止めなかった。

 ただ、リノの指が、古い文字の上を、ゆっくりと滑っていくのを、見守っていた。


 その指が、ある一文字の上で——ふいに、止まった。


「あ……」


 リノの動きが、固まった。

 なぞりかけの指先が、宙に浮いたまま。


「この字……」


 声が、急に、幼く揺れた。


「知っている。私……この字を、描いたことが、ある」


 近くにいた者たちが、息を呑んだ。

 また、ひとり。

 この部屋を知っている者が——増えた。


 リノは、はじかれたように、床に、膝をついた。

 冷たい石の床に、指を、押し当てる。

 そして、ゆっくりと——その指で、床に、同じ文字を、描き始めた。

 迷いのない、流れるような線。

 頭ではなく、手のほうが、その形を、覚えているかのようだった。

 石の冷たさも、指先が白く汚れていくのも、リノは、気に留めていないようだった。

 遠い日の自分がそうしたとおりに、その手が、ひとりでに、動いていく。

 まるで、忘れていたのは頭だけで、この手は一度も、その日を、忘れていなかったかのように。


「子供の頃……私、ここで、これを、描いた」


 その指が、床の上をすべる。


「筆も、墨も、なかった。ただ、指で。こうやって、何度も……この、広い部屋で」


 リノの肩が、小さく、震えていた。


「不安、だったんだと、思います。何かが、始まるのを、待っていて。怖くて。だから——手を、動かしていた。こうして、字を、描いていれば、少しだけ、気が、紛れたから」


 その背に、そっと、手を添える者が、いた。

 旅装姿——マイラだった。


「リノ……大丈夫?」


 けれど、リノは、答えなかった。

 描き終えたばかりの文字から、目を、離せないでいた。

 その指先が、もう一度、描いた線を、いとおしむように、なぞる。

 幾度も、幾度も、描いた——手のひらが、そう、訴えてくるような、馴染みかただった。


「……待って。その字」


 アネッサが、はっと、息を呑んだ。

 眼鏡の奥の目が、大きく、見開かれた。


「古い言葉で——『ひかり』。世に、光を、もたらす者、という、意味の字、です」


 光。

 その一言が、この部屋に、ことり、と落ちた。

 ただの古い文字のひとつ。

 なのに、なぜか——誰も、目を、離せなかった。


 リノが、ゆっくりと、自分の指先と、床の文字を、見比べた。


「……知らなかった。私、そんな意味の字だなんて、思いも、しないで。ただ、この形だけを——指が、ずっと、覚えていたなんて」


 その声が、戸惑いに、揺れていた。


 黒髪のシエラが、その文字を、見つめたまま、低く、つぶやいた。


「……光。妙な字ね。見ていると、なんだか——懐かしいような、遠いような」


 けれど、それ以上は、続かなかった。

 シエラもまた、自分の言葉の意味を、つかみかねているようだった。


 碑文の中の『光』。

 リノが、子供の頃、この床に描いた『光』。

 同じ字が、遠い時を隔てて、向かい合っていた。


 偶然、だろうか。

 子供が、たまたま覚えていた字が、たまたま、この碑文にもあった。

 そう思えば、不思議は、ない。

 けれど——その場の誰も、それを、ただの偶然とは、思えずにいた。


「でも……変なんです」


 リノが、眉を寄せた。


「私は、碑文を、読んで、思い出したわけじゃ、ありません。ただ——この字を、自分の指で、描いた。その、手の感触だけが、よみがえった。碑文のことなんて、何も、知らない、子供の頃に」


 なぜ、その字を、描いていたのか。

 ひとりだったのか、それとも——誰かと、一緒だったのか。

 その字に、どんな意味があるのか。

 リノには、何ひとつ、わからなかった。

 ただ、「ここで、この字を、描いた」。

 そのたったひとつの事実だけが、確かに、手の中に、残っていた。


 部屋のあちこちで。

 めいめいが、自分の手のひらを、見つめていた。

 自分にも、覚えのない何かが、刻まれていないか、と。

 けれど——壁の文字に、手を伸ばす者がいても。

 床に、指を走らせる者がいても。

 アネッサや、フィオラや、リノのように、はっきりと「思い出した」と言える者は、もう、現れなかった。

 三人。

 ただ、三人だけ。


 クイナは、床に描かれた文字を、じっと、見つめた。

 目を細め、ひとつ残らず、記憶に、刻みつける。


 ——三人とも、この部屋を、知っていた。

 広い部屋。

 冷たい石の床。

 子供の頃の、不安。

 めいめいに、別々のきっかけで、同じ場所の同じ記憶を、手繰り寄せている。


 それに、と、クイナは思った。

 アネッサは、壁の文字を目で。

 フィオラは、言葉の響きとリズムで。

 リノは、文字を指でなぞって。

 きっかけは、てんでばらばら。

 なのに、行き着く先は、いつも、同じだ。

 ——この部屋。

 まるで、別々の鍵で、同じひとつの扉を、開けているかのように。


 ただ——リノの記憶だけは、ほかの二人と、少し、毛色が、違っていた。

 アネッサも、フィオラも、よみがえったのは、漠然とした、感覚だった。

 不安。

 待っていた。

 広い部屋。

 けれど、リノが、よみがえらせたのは——たったひとつの、はっきりとした形。

 『光』という字。

 偶然にしては、選び抜かれたように、その一文字だけが、やけに、くっきりと、浮かんで見えた。


 ——わからないのは、そこだった。

 リノは、なぜ、この場所で、よりにもよって、『光』という字を、描いていたのだろう。

 ひとりで? それとも、誰かに、教わって?

 答えのない問いが、また、ひとつ、増えた。


 そして、いつものように。

 ——私は、知らない。

 この字を指で描いた覚えも。

 この部屋の冷たい床も。

 三人が分かち合う、その記憶のどこにも、やはり、自分の居場所は、なかった。


 リノが、床から、ゆっくりと、立ち上がった。

 膝についた冷たさを、払うように。


「……だめですね。私に思い出せるのは、ここまで、みたいです。なぜ描いたのかも、誰と描いたのかも——その先が、どうしても」


 その声には、さっきまでの文官らしい張りは、もう、なかった。


 誰も、何も、言えなかった。

 慰めの言葉も、次の一手も——いまは、まだ、誰の手にも、なかった。


 この部屋に、三つの記憶が、並んだ。

 壁を知る者。

 リズムを知る者。

 古い一文字を知る者。

 けれど、その誰もが、たどり着けるのは、入り口のほんの手前まで。

 そして、それぞれが、同じ心細さを、抱えていた。


 誰の指先にも、まだ、答えのない、ひとつの字が、残されていた。

 『光』。

 誰にも読めない言葉の中で、ただ、その一文字だけが、意味を持って、ぽつりと、灯っている。

 それが、いったい、何を照らす光なのか——まだ、誰も、知らなかった。

今後の参考になりますので、面白い・続きが気になると思っていただけたら、

評価・ブックマークで応援いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ