第13話 再会
「……フィー姉ちゃん」
—— 愛称の絆
しばらく、誰も、口を開かなかった。
三つの記憶が——壁と、リズムと、古い一文字が——重く、場に横たわっていた。
その沈黙をほどくように、エルシェが口を開いた。
「……ねえ。ちょっと、整理させて」
よく通る声が、淀んだ空気を、やわらかく押し返していく。
「アネッサさんは、あの壁の文字を。フィオラさんは、あのリズムを。リノさんは、あの『光』の字を。三人とも、子供の頃、ここにいた——そう、思い出した。そうよね?」
誰かが、こくり、と頷いた。
「三人も、よ。……だったら」
エルシェの声が、ふと、低くなる。
「私たちも、なのかもしれない。本当は、みんな、この場所を、知っているのかも。ただ——思い出せて、いないだけで」
その言葉は、静かに、けれど、確かに、皆の胸に落ちた。
偶然、集められたわけでは、ないのかもしれない。
自分たちは、どこかで、繋がっている。
その予感が——うっすらと、形を持ち始めていた。
重くなりかけた空気を、けれど、エルシェは、ふっと笑って押し返した。
「でも。もしも、よ。もしも、こんな小さな頃に、私たち、ここで、出会っていたんだとしたら」
その横顔に、舞台の上のような明るさが戻る。
「それって、すてきな、再会じゃない。怖いことばかり、考えなくても、いいのかもね」
張りつめていた何人かの肩から、すっと力が抜けた。
どんな暗がりも、光の当たる場所に、変えてしまう。
それが、根っからの、舞台人の、温かさだった。
不思議な人だ、と、クイナは思った。
出口のない部屋で、これだけのことが、起きて。
それでも、この人は——闇のほうではなく、光のほうを、見ようとする。
その強さに、強張っていた何人かの顔が、ほどけていくのがわかった。
その嬉しさが、こぼれたのだろうか。
エルシェの唇から、自分でも気付かぬうちに、小さな鼻歌が漏れ始めた。
ふ、ふん……ふ、ふん、と。
歌劇の舞台で鍛えた、澄んだ声が、低く、心地よく、揺れる。
鼻歌を、口ずさみながら。
エルシェの視線が、何気なく、部屋を巡って——
そして、ふと、ひとりの背中で、止まった。
楽器を背負った、フィオラの、後ろ姿。
その、肩の、線。
背の、丸み。
ただの見知らぬ背中の、はずなのに——その輪郭が、なぜか、胸のずっと奥を、そっと撫でた。
「……あ」
エルシェの鼻歌が、止まった。
大きく見開かれた目が、その背中に釘付けになる。
「この背中……知ってる」
声が、震えた。
「子供の頃……不安で、たまらなかった時。私の前に、いつも、この背中が、あった。守るみたいに。……この、背中の影に、隠れていれば、大丈夫だって、思えたの」
エルシェの手が、自分の胸を押さえた。
「年上の、誰か。私の、すぐ隣で。指で、とん、とん、とん、って——リズムを、刻んでくれた。私は、それに、合わせて……鼻歌を、歌っていた。そう、さっきの、これを」
エルシェの声が、潤んでいく。
「不思議、なの。こんなに、怖い場所だったはずなのに。あの、背中の、すぐそばだけは——温かかった。私、ひとりじゃ、なかった。あの人が、いてくれたら、なんにも、怖くなかった。……どうして、こんな大切なことを、忘れて、いられたんだろう……」
ひとつ、ひとつ、言葉が、あふれていく。
止められない、感情の、波のように。
そして——その波の、いちばん高いところで。
エルシェの口から、ひとつの呼び名が、こぼれ落ちた。
「……フィー姉ちゃん」
自分でも、驚いたように。
エルシェが、その言葉を、繰り返す。
「フィー姉ちゃん……私、そう、呼んでた」
その瞬間だった。
フィオラの体が、びくり、と跳ねた。
振り向いた顔が、くしゃりと歪んだ。
「……フィー姉ちゃん」
フィオラが、呆然と繰り返す。
「そうだ。私……『フィー姉ちゃん』って、呼ばれてた。私のリズムに、鼻歌を合わせて——私の後ろを、ついて回る、小さな子が、いた」
フィオラの目が、まっすぐエルシェを捉えた。
その瞳が、見る間に、潤んでいく。
「エルシェ。……あなた、だったの」
二人の間の、思い出せもしなかった、長い長い空白が、その一言で、音もなく、埋まっていく。
「私、あなたを……守ってた……ちっちゃな、妹みたいに」
フィオラの声も、もう、震えていた。
なんでも笑い飛ばす、いつものさばさばは、どこにも、なかった。
「思い出したよ。あなたの、小さな手。私の、服の裾を、ぎゅって、握って、離さなかった」
エルシェは、答える代わりに——ただ、何度も、何度も頷いた。
その頬を、涙が伝っていた。
どちらからともなく、二人は、距離を詰めた。
姉が、妹を。
妹が、姉を。
思い出せなかった、長い長い時間を、埋めるように、固く抱き合った。
ふたつの影が、ひとつに重なる。
その姿に、見ている者の胸まで、じんと熱くなった。
部屋の、あちこちから、声が、上がった。
「すごい……! 二人の記憶が、繋がった!」
シキータが、興奮を抑えきれずに叫ぶ。
「ねえ、それって——あたしも、誰かと、繋がってるのかな!?」
シエラが、目を細めた。
「……ひとつの記憶が、もうひとつの記憶を、呼ぶ。これは、運命の符号かも、しれないわね」
アネッサも、頬を紅潮させていた。
「記憶が、連鎖した……興味深い。一人では、辿り着けなかった先に、二人なら、届く」
コルテは、両手を胸の前で組み、そっと目を閉じていた。
まるで、その再会を、祈り、祝福するかのように。
モアは、何も言わず、ただ、自分の胸のあたりを握りしめていた。
羨ましさと、心細さの、入り混じった、横顔で。
その輪の中で、ピッパも、静かに頷いていた。
「そうね。……ほんとうに、よかったわね」
誰かの言葉に、ひとつ、ひとつ、そっと、寄り添うように。
クイナは、少し離れて、その光景を見つめていた。
目を細め、その一部始終を、記憶の底に畳み込んでいく。
——繋がった。
ひとりの記憶が、もうひとりの存在を、鍵にして。
アネッサも、フィオラも、リノも、ひとりでは、記憶の入り口の扉で、止まっていた。
けれど、エルシェが「フィー姉ちゃん」と呼んだ瞬間、フィオラの記憶は、その先へ、進んだ。
——記憶は、ひとりでは、先に進めない。
誰かと、誰かが、揃って、はじめて、鍵が回る。
扉が、開く。
ばらばらの、断片。
それが、人と人との間で、噛み合った時にだけ、ひとつの鍵に、なる。
——だとすれば。
この十七人は、もともと、ひとつの何かを、ばらばらに、千切られて、ここへ、撒かれたのではないか。
いつか、どこかで。
誰かの、手で。
やがて、二人は、そっと身を離した。
けれど、繋いだ手だけは、まだ、ほどこうとしなかった。
失くしたはずの、姉妹の時間を、確かめ合うように。
その姿に、ほかの誰の目にも、おなじ問いが灯りはじめていた。
——もしかしたら、私にも。
この中に、手を、取り合える、誰かが、いるのかもしれない。
ひとつの再会が、小さな希望と——そして、ひとつの問いを残した。
私は、いったい、誰と、ここに、いたのだろう。
そして、いつものように——私は、その輪の中にいない。
繋がる相手も、呼ぶ名前も、呼ばれる名前も、ない。
目の前の再会を、ただ、ガラス越しのように、外から見ているだけ。
そんな冷めた心で、クイナは思った。
フィオラの隣には、たしか、二人、いたはずだ。
リズムに、鼻歌を合わせた子——それは、エルシェだとわかった。
でも、もう一人。
別の、綺麗なメロディを、口ずさんでいた、誰か。
その子は——その誰かは、その記憶を、まだ思い出せていない。
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