第36話 私の物語
ピッパの家は、午後になると、やわらかな光でいっぱいになる。
私は窓辺の椅子に腰かけて、膝の上で本を開いていた。
あの建物から戻ってきて、もう、何度も季節がめぐった。
ピッパに引き取られ、ピッパの妹としてこの家で暮らすようになって。
背は、あの頃よりずいぶんのびた。
鏡をのぞくと、すこしだけ大人びた私が、こちらを見ている。
手も、足も、ゆっくりと大きくなった。
胸に手を当てると、とくとくと、脈の音が打っている。
——たしかに、ここで、生きている。
そのことが、いまでも、ときどき不思議になる。
この家には、私の居場所がある。
朝になれば、ピッパが私の名を呼ぶ。
夜になれば、おやすみ、と声をかけてくれる。
——ルクス、と。
その名前で呼ばれるたびに、私は、ここにいていいのだと、思える。
そんな日常の中で、ふと、知らない声が、耳の奥でよみがえることがある。
誰かの鼻歌。
誰かの笑い声。
誰かが、私の名を呼ぶ声。
その声たちは、どれも、あたたかかった。
ピッパがお茶を運んできて、私のとなりに腰をおろした。
使用人はいるのに、ピッパはいつも、手ずからお茶を入れてくれる。
湯気が、光の中を、ゆらゆらと昇っていく。
「ねえ、ルクス」
ピッパが、いつもより、静かな声で言った。
「あなたに、聞いてほしい話があるの」
私は本を閉じて、ピッパを見た。
その目が、懐かしいものと、痛いものを、同時に見ているような色をしていた。
「ずっと、いつか話そうと思っていたの」
私は、その目をじっと見つめた。
「あなたが、ちゃんと受け取れる歳になるまで、待っていた」
ピッパは、お茶をひとくち飲んで、ゆっくりと語りはじめた。
「——もうずっと前のこと。ある場所で、聖女さまを呼び出す儀式が、行われたの」
その声は、おとぎ話を読むときのように、やさしかった。
けれど、内側に、固いものを抱えていた。
「でも、聖女さまを呼び出すためには、代償が必要だったの。それは、誰か、ひとりの存在。……そして儀式は、不完全なまま、暴走してしまった」
ピッパの指が、湯のみのふちを、そっとなぞる。
「——本当は、その代償に選ばれたのは、私だったの。こわくて動けなくなっていた私を、あなたが、庇ってくれた。……その結果、あなたが、私の代わりに——世界そのものから、消えてしまった。残された子たちは、ばらばらの土地に飛ばされて、あなたのことを、忘れてしまった」
私には、その日の記憶は、確かに、ある。
でも、私が消えていた時間のことは、なにひとつ、知らない。
だからこれは、ピッパが私に話してくれて、はじめて知る、私の物語だった。
「あなたを覚えているのは、世界でただひとり、私だけになってしまった」
もっとも、と、ピッパは、すこし目を伏せた。
「私だって、はじめから覚えていたわけではないの。飛ばされた先で、何年も、ふつうの子として暮らしていた。……でも、あるとき、ふいに、ぜんぶ思い出したの。あなたの声を。あなたの笑い方を。私が、あなたに庇わせてしまった、あの瞬間を」
ピッパの声が、ほんの少し、震えた。
「それからの私は、もう、知らないふりはできなかった。——それから、私はずっと、考えていたの。あなたを、どうやって取り戻すか」
ピッパは、まっすぐに前を見ていた。
「儀式の手順を、少しずつ調べた。代償の仕組みを、何年もかけて解き明かした。そうして、ひとつの計画を立てたの。——あなたを、もう一度この世界に呼び戻すための、長い長い計画を」
ピッパは、その計画に、ひとつの名前をつけていた。
「『Project for the Dawn』。——夜明けのための、計画。あなたという光を、この世界に昇らせるための」
ピッパは、照れたように、笑った。
「大げさな名前でしょう。でもね、長い時間、暗いところを歩いていると、自分が向かっている先に、名前がほしくなるものなの」
きっと、今の私には、まだ、想像できないくらいの長い時間なんだろう。
その長いあいだ、ピッパは、たったひとりで、私のことを覚えていてくれた。
誰も信じてくれなくても。
手がかりが、なにひとつ、残っていなくても。
——ただ、私を、忘れないために。
それから、ピッパは、計画の中身を語った。
「あの日、いっしょにいた子たちを、古い記録をたどって、ひとりずつ探し出した。招集状を送って、ある人には依頼を出して。そうして、みんなを、あの部屋に集めたの。——二十年以上前の、あの儀式の部屋を、そっくりそのまま、つくり直して」
あの部屋。
私が、もう一度、この世界に立った場所。
「あなたを取り戻すには、みんなが、あなたのことを思い出す必要があった。それも、私が教えるのではだめ。ひとりひとりが、自分の力で、自分の中から思い出さなければ、意味がなかったの」
ピッパの声が、すこし、低くなった。
「だから私は、自分が仕掛けた張本人だということを、最後まで隠していた。私が『これはこういう話よ』と説明してしまえば、みんなは構えてしまう。思い出は、与えられるものではない。自分の内側から立ちのぼってくるものでなければ、あなたを呼び戻す力にはならなかったから」
ピッパは、ふっと、息をついた。
「それでも、みんなの記憶だけでは、足りなかった。ばらばらの思い出を、ひとつの像に結びつけて、『この部屋には、もうひとり、忘れられた誰かがいた』と——筋道だけで証明してくれる人が、どうしても必要だったの」
ピッパが、私を見て、やわらかく目を細めた。
「そのために、ひとりの冒険者に、依頼を出した。観察して、考えて、見えないものを言葉で手繰り寄せる——そういう人。あの人なら、消されたあなたを、論理と推理で導き出してくれる、そう信じて」
私は、その人のことを、かすかに、覚えている。
輪の、すこし外に立って、まっすぐにこちらを見ていた、静かな人。
「あの部屋で、みんなが、ひとつずつ思い出を語ってくれた。あの冒険者が、その思い出を組み上げて、あなたがいたことを、証明してくれた。そうして——あなたは、還ってきたの」
ピッパは、そこで、いったん言葉を切った。
長い旅の終わりに立ったひとのように、ただ、私を見ていた。
「これが、あなたの物語よ、ルクス。——私が、ずっとあきらめられなかった、あなたへと繋がる物語」
部屋に、静かな時間が流れた。
窓の外で、鳥が一羽、鳴いて、飛んでいった。
私は、すぐには言葉が出てこなかった。
自分の知らないところで、自分のために、こんなにも長く歩いてくれた人がいた。
そのことを、どう受け取ればいいのか、まだ、うまくわからなかった。
ただ、ひとつだけ、気になっていることがあった。
「ねえ、ピッパ」
私は、おずおずと、たずねた。
「みんなとは……どうなったの?」
あの部屋で、ほんの短いあいだ、私を囲んでくれた人たち。
名前も、顔も、ぼんやりとしか覚えていない。
けれど、たしかに、あたたかかった、あの人たち。
別れたきりの、みんな。
ピッパは、まぶしそうな顔をした。
「……すべてが終わったあと、私は、あの人たちみんなに、頭を下げたの」
その声には、まだ、痛みが残っていた。
「騙すような形で集めて、あの部屋に閉じ込めた。どんな理由があっても、許されないやり方だった。——それは、ちゃんと、私の言葉で詫びたわ。できるかぎりの償いも、申し出た」
ピッパは、湯のみを、両手で包んだ。
「戸惑った人もいた。怒った人もいた。でも……失くしていた記憶、失くしていた繋がり——そして、あなた。大事なものを取り戻せたから、最後にはみんな、受け入れてくれた」
そして、ピッパは、微笑んだ。
「いまでも、手紙のやりとりが続いているのよ。あの人たち同士も、また、繋がり直して。……いつか、あなたにも、会いに来てくれるわ」
あの冒険者のことも、ピッパは付け加えた。
「あの人には、依頼料を、きちんとお支払いしたわ。少しだけ、上乗せして。それでも、『こういう依頼は、今回限りとしてください』って、釘を刺されてしまったけどね。——ふふ、依頼料は、高くつきました」
私は、その話を、静かに聞いていた。
みんな、それぞれの暮らしに帰っていったのだ。
でも、一度繋がり直した糸は、いまも、繋がっている。
胸の奥から、ちいさな願いが、ひとつ、こぼれた。
「……また、みんなと会いたいな」
ピッパは、私の頭を、そっと撫でた。
「ええ。きっと、会えるわ」
私は、もう一度、自分の手のひらを見た。
ここに、私がいる。
忘れられて、消えて、それでも——還ってくることができた、私が。
まだ、よく知らない人たちが、私のことを思い出してくれた。
ひとりの人が、ずっと、あきらめずに歩いてくれた。
ひとりの冒険者が、言葉と筋道だけで、いないはずの私を、手繰り寄せてくれた。
「……ありがとう」
うまく言えなくて、ただ、それだけを言った。
ピッパは、なにも言わずに、もう一度、私の頭を撫でた。
不思議だった。
私は、自分が消えていたことを、覚えていない。
苦しかったはずの時間を、なにも知らない。
その全部を、痛みごと引き受けて歩いてきたのは、いつも、私ではない誰かだった。
——だから、せめて。
この物語だけは、私が、ちゃんと受け取ろうと思った。
午後の光が、ゆっくりと、部屋を渡っていく。
——これは、私の物語。
私の、大事な物語。
いつか、私の言葉で、はじめから語ってみたい。
名前を消された、ちいさな「わたし」が。
ふたたび、「私」へと、還ってくるまでの——この道のりを。
本編はこれにて終了となります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
……っが、実はまだあと1話あります。
よろしければ、ぜひそこまでお付き合いいただければ幸いです。
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