第31話 輪郭
「ほんとうに、いたんだ。——もう、ひとり」
—— 十七人目の推理
「——十七人目は、私では、ない」
—— 崩れる希望
その子が、私で、ないのなら。
その問いを、クイナは、いったん、胸の奥へ、しまった。
いま、すべきことは、感傷では、ない。
——その子の像を、もっと、確かにする。
クイナは、ゆっくりと、顔を上げた。
「皆さんの話を、つなぎ合わせると。……その子の輪郭が、はっきりしてきました」
その声は、静かで。けれど、揺らぎが、なかった。
「ひとつ。皆さんが、口をそろえて言いました。——自分より、少し小さな子だった、と」
何人かが、こくりと、頷く。
「ふたつ。声が、高くて、無垢で、聞いていると、つられて笑ってしまうような、とも」
「……ああ。確かに、そうだったわ」
エルシェが、つぶやいた。
「みっつ。その子は——誰の、幼なじみでも、なかった」
クイナの言葉に、室内が、わずかに、ざわめく。
モアや、コルテ、ピッパにも、幼なじみはいなかった。
——でも。
「皆さんは、この部屋で、それぞれ、昔の仲間を見つけ合いましたね。おなじ場所で、育った人どうし。……でも、その子は、誰の幼なじみでもなかった。なのに、そう、ひとりだけで、ぽつん、としていたわけでもない」
「……そう、いえば」
フィオラが、ふと、目を、伏せた。
「私たちは、おなじ場所で、育った者どうし、肩を、寄せ合っていた。……でも、あの子は……どの輪にも属さないのに、どの輪にもいた。……ふしぎな子だった」
「よっつ」
クイナは、ひと呼吸、置いた。
「その子は、誰にでも、好奇心いっぱいに話しかけた。分け隔てなく、みんなの輪に入ってきた」
四つの欠片が、宙に、並ぶ。
「皆さんが、それぞれ、覚えている『相手』。……それは、ぜんぶ、同じひとりの子、そうなんじゃないですか」
静寂が、落ちた。
「……同じ、子」
誰かが、その言葉を、そっと、繰り返す。
「そう、言われると……そう、だ。私の、あの子も。シエラさんの、あの子も」
「背格好も、声も。……ぜんぶ、おなじ」
ひとり、また、ひとり。
ばらばらだった、十六の記憶の中の『相手』が。
いま、ひとりの子の姿へと、ぴたりと、重なっていく。
「……いた」
アネッサが、眼鏡の奥の目を、見開いた。
「ほんとうに、いたんだ。——もう、ひとり」
「会いたい……」
ぽつりと、リオナが、こぼした。
「こんなに、よくしてくれた子なのに。私、その子の、名前も、顔も。……ひとつも、出てこない。それが、こんなに、悲しいなんて」
「あたしも」
シキータが、ぎゅっと、唇を、噛んだ。
「ぜったいに、忘れちゃ、いけない子だった。……そんな気が、するのに。どうして、こんなに、思い出せないの」
その問いに答えられる者は、いない。
温かいはずの記憶の底に、説明のつかない冷たさだけが残った。
それは、もう、誰の思い違いでもなかった。
皆の記憶が、ひとつの像を、囲んで、『もう一人いた』という事実が——確かな、重みを持って、立ちあがった。
その、ざわめきを。
クイナは、静かな顔で見つめていた。
——けれど、その胸の内では、まったく別のことが、音もなく起きていた。
——皆の記憶に、その子は、いる。
ひとりひとりの中に、その子と交わした小さなぬくもりが残っている。
——では、私は?
クイナは、自分の心を冷たく探った。
もし、自分が、その十七人目なら。
この十六人の、誰かの記憶のどこかに、自分との、ひとかけらのやりとりが、残っているはずだ。
けれど……誰も、クイナを、覚えていない。
碑文を、覗き込んだ手も。
口笛に、重なった声も。
なにもかも、クイナのものではなかった。
この部屋の、どの記憶を、めくっても。
そこに、クイナは、いない。
——その子は、みんなに、覚えられている。
——私は、誰にも、覚えられていない。
ふたりは、正反対だった。
子供だったか、大人だったか、ではない。
二十年前なら、クイナも、まだ子供だ。
決め手は、もっと単純で、もっと残酷だった。
その子は、確かに、ここにいた。
クイナは——ここにいなかった。
あれほど、願ったのに。
——皆と同じ、あの日の輪に、自分もいた。
その、たったひとつの可能性は。
いま、自分自身の組み立てた筋道に、断ち切られた。
胸の奥で、最後の願いが、音もなく、崩れ落ちた。
——十七人目は、私では、ない。
無実を、晴らしたくて、始めた推理が。
めぐりめぐって、自分こそが、ほんとうの部外者だと。
そう、クイナ自身の手で、証明してしまった。
皮肉な、結末だった。
けれど、不思議と心は凪いでいた。
——私が、誰なのか。
その問いは、まだ、胸の奥に残っている。
——けれど、いまは。それよりも。
立ちのぼった、その子の面影が。
クイナの胸を、占めていた。
誰の隣にも、いて。
誰からも、慕われて。
それなのに、誰の記憶からも、その顔を、消された。
——この子を、取り戻す。
その思いだけが、クイナの中で、まっすぐに、灯った。
誰からも慕われていたのに、世界からただ一人だけ、まるごと拭い去られてしまったようなその子。
その理不尽を知ってしまった以上、もう見て見ぬふりはできない。
自分が、何者で、あろうと。
消されたように、忘れ去られていい記憶なんて、ひとつもない。
依頼で、来ただけの、部外者。
その立場は、もう、変えられない。
——けれど、だからこそ、できることがある。
輪の中にいる者には、見えないもの。
輪の外に、立つ者にだけ、見えるもの。
クイナは、ひとつ、息を、吸った。
そして、冷たく澄んでいく頭で、淡々と、筋道を、先へ進めた。
クイナの目の色が、変わった。
『自分』へ向いていた視線が、いま、部屋全体へ——皆の記憶の、流れそのものへと、開かれていく。
クイナは、もう一度。
頭の奥に刻んだ、これまでのすべてを、最初から、たどり直した。
——思い出は、いつも、誰かの、ひとことから、始まった。
アネッサの、碑文。
フィオラの、リズム。
エルシェの、こぼれた鼻歌。
ひとりが、口火を切る。
その記憶が、隣の誰かの、鍵を回し。
また、隣へ。そして、また、隣へ。
そうやって、十六人の扉は、ひとつずつ、開いてきた。
——けれど。
たどり続ける、記憶の流れの中。
そう、ひとつだけ。
奇妙な、よどみが、あった。
——ピッパ。
クイナは、その名を、胸の内で、そっとなぞった。
ピッパは、いつも誰かが思い出した、そう、そのあとで、「私も」と、やわらかく頷くだけだった。
自分のほうから、何かを、思い出したことは、そう、ただの、一度も、なかった。
——さっきの、あの子を思い出そうとした時も。
誰もが、われ先にと、その子との記憶を、語りだした、あの時。
ピッパだけが、ひとつも、新しい記憶を持ち出さなかった。
ただ、おだやかに、微笑んで……皆の言葉に、寄り添うだけ。
——いや、あの時だけじゃ、ない。
絵本の話を思い出した時も、シエラさんが占いを思い出した時も、ピッパは決まって、いちばんあとに、そっと「私も、いたわ」と続けた。
すでに思い出した皆の、いちばん外側に、あとから、自分を添えるだけだった。
みんなが、思い出して、いる。
ピッパだけが——思い出して、いない。
いや。
思い出している"ふり"を、しているだけ、なのではないか。
冷たいものが、クイナの背を、すうっと、撫でた。
——まだ、確かなことは、何も、言えない。
けれど。
その引っかかりは、もう、胸の隅には、おさまりきらなかった。
クイナは、皆へ向けていた顔を。
ゆっくりと、ひとりの女性のほうへ向けた。
「——ところで。ピッパさん」
その、静かな呼びかけに。
和やかだった部屋の空気が。
ふいに、ぴんと、張り詰めた。
ピッパが、ゆっくりと、顔を上げる。
その唇には、まだ、おだやかな微笑みが、のっている。
——けれど。
クイナの目は、もう。
その微笑みの、ずっと奥を、まっすぐに、見つめていた。
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