第30話 面影
部屋の空気は、もう、さっきまでとは、別のものになっていた。
クイナひとりへ向いていた疑いは、いつのまにか、ひとつの問いへと、姿を変えている。
——もうひとり。
誰の記憶にも立ちつくす、顔のないその影。
その正体を、クイナは、知りたかった。
いや——確かめたかった。
胸の奥に灯した、ちいさな願いの、ために。
——もし、その十七人目が、私なら。
だから、クイナは、もう一歩、踏み込んだ。
「皆さん。その『もうひとり』のこと。……もう少しだけ、思い出せませんか」
——その子の、輪郭を、はっきりさせたい。
ほんとうは、誰よりも、クイナ自身が、そう願っていた。
「どんな子だったか。声でも、背格好でも。どんなに、小さなことでも、かまいません」
細部が、見えてくれば。そのどこかに、自分の面影が、見つかるかもしれない。
皆と同じ、あの日の自分が、立っているかもしれない。
淡い期待を、胸の奥に隠して、クイナは、皆の言葉を待った。
その問いかけに、十六人が、それぞれの記憶の底へ、手を伸ばしていった。
最初に口を開いたのは、フィオラだった。
「……声。声を覚えている、気がする」
フィオラが、そっと、目を閉じる。
「私のリズムに、重なった、もうひとつのメロディ。あれは、高くて、澄んだ声だった。たぶん、私より、ずっと、小さな子の」
「私も」
サリーシアが、おっとりと、けれど確かに、続けた。
「私の口笛を、一生懸命、真似ようとした子。……あの子の声も、高くて。とっても無邪気で。聞いているだけで、こちらまで、笑顔になるような、そんな声だった」
「目が、大きかった」
アイリーンが、ふと、言った。
「きらきら、していて。私のお話に、いちばん、夢中になって。いっしょに、物語の続きを、考えてくれた。……私より、少し、小さな子」
「私の、すぐ隣にも、いた」
アネッサが、眼鏡の奥の目を、細めた。
「一緒に、碑文を覗き込んでいた子。『これ、なあに?』って。私が、文字を指でなぞると、その子もおなじように、ちいさな指を伸ばして。……なんにでも、興味を持つ。知りたがりの、子だった」
ひとつ、またひとつ。
ばらばらだった記憶の断片が、おなじ方向へ、寄り集まっていく。
「『太陽』を、見たとき」
シエラが、タロットの束を、そっと撫でた。
「ぱあっと、顔を、輝かせたの。『素敵な絵!』って。何度も、何度も。……あんなに、うれしそうな顔を、私、忘れていたのね」
「種を、見て」
モアが、訥々と、言葉を継ぐ。
「『ちいさいのに、おおきくなるんだね』って。心から、驚いてくれて。……ほんとうに、うれしそうで。無邪気な、声だった」
「いちばん前で」
ミュリエルが、絵本を、胸に抱いたまま。
「身を、乗り出して。『つづきも、ききたい』って。……あんなに、まっすぐな目で、聞いてくれた子は、いなかった」
「私の舞を、見てくれたあと」
ナリアが、おずおずと、口を開いた。
「その子、高い、はずむような、声で。……『また、踊ってね』って。その場で、くるくる、回る真似まで、して。誰とでも、すぐに、仲良くなる、そんな雰囲気の子だった」
誰かが、ぽつりと、つぶやいた。
「……人懐っこい、子だったのね」
その一言が、皆の胸に、すとんと、落ちた。
——誰にでも、好奇心いっぱいに、話しかけて。
——分け隔てなく、みんなの輪に、入ってきて。
——高く、澄んだ声で。
——きらきらした、大きな目で。
——そこにいるだけで、強ばった空気が、ふっと、ほどけるような。
——よく笑う、明るい、小さな子。
ばらばらの記憶の底から、ひとりの子の像が、ゆっくりと、立ちあがってくる。
クイナは、その像に、食い入るように、見入っていた。
——どこかに……どこかに、私の、面影は、ないか。
立ちのぼる、その子の面影に。幼い日の自分を、何度も、何度も、重ねようとする。
「……そういえば」
いままで、はっきりとは思い出せずにいた、何人かが。
はじかれたように、顔を、上げた。
「あの子。私にも、話しかけて、きた」
「私も……何か、やりとりした、気がする」
「『ねえ、ねえ』って。私の手元を、覗き込んで、きて」
「私の、髪を、そっと、触って。『きれい』って、笑った」
「泣いていた私の、となりに、来て。ちいさな手で、よしよし、って。……あの、ぬくもり」
「『元気、出して』って。手を、握ってくれた」
ひとり、また、ひとり。
その子と交わした、ひとかけらの記憶を、思い出していく。
——仲のいい、決まった子たちと、だけじゃ、ない。
この部屋の、ほとんど、みんなが。
その明るい子と、どこかで、ふれあっていた。
十七人目は。
あの一日、誰の隣にも、いたのだ。
「……その子。いま、どこに、いるのかしら」
ふと、誰かが、つぶやいた。
その声には、会いたい、と願うような、やわらかな響きが、にじんでいた。
「こんなに、みんなと、仲良くしようと、頑張っていた、あの子のことを、どうして、私たち、忘れて、いたんだろう」
答えられる者は、いない。
ただ、その問いだけが、温かなさざめきの底に、ひやりとした影を、落とした。
その温かな、さざめきを。
クイナは、じっと、見ていた。
——けれど。
その輪の中で、ただひとり。
ピッパだけが、その子の記憶を、口にしなかった。
皆の言葉に、静かに、頷きながら。
ただ、おだやかに、微笑むだけ。
——「私も」が、ない。
あれだけ、誰とでも交わった子なら……ピッパとも、何か、あったはずなのに。
クイナは、その小さな引っかかりを、口には出さず、胸の隅へ、そっと、置いた。
——いまは、まだ、いい。
代わりに、クイナの胸を占めていたのは、別の、戸惑いだった。
——人懐っこくて、誰にでも話しかけて、明るく、よく笑う。
立ちあがってきた、その子の像を。
クイナは、自分の、幼い頃に、そっと、重ねてみた。
——重ならない。
クイナの知っている、幼い自分。
それは、いつも部屋の隅にいる子供。
物静かで、臆病で。
誰かに話しかけるより、本の陰から、そっと、人を見ている、そんな子だった。
遊ぼうと、誘われても、きまって首を横に振った。
輪の中心は、いつも、まぶしくて……そして、すこし遠かった。
その遠さの分だけ、クイナは、人をよく見る子になったのだ。
この、どんな輪にも、まっすぐ入っていける、明るい子。
それは——どう、思い浮かべても、幼いクイナ自身とは別の、誰かだった。
——十七人目は。
——私では、ないのかもしれない。
胸の奥に灯した、ちいさな願いが。
手の中で、すっと、温度を失っていく。
——ほんとうは、私もあの輪の中にいたかった。
けれど、皆が思い出したその子は、幼いクイナが、いちばんなれなかった子の姿をしていた。
部屋には、その子の像を結びつつある、静かな高揚が、満ちていた。
みんなが、もうひとりの、優しい面影を、慈しむように、たぐっている。
そのなかで、クイナだけが、ひとり、冷たい予感にとらわれていた。
みんなが、慈しんでいる、その面影。
それを——誰よりも、自分のものに、したかった。
けれど。
手を、伸ばすほどに。
その面影は、クイナから、するりと、遠ざかっていく。
——では。
その子が、私で、ないのなら。
あの日、確かに、ここにいて。
誰の隣にも、いて。
そして、誰の記憶からも、その顔だけを、消された、もうひとり。
その像が、はっきりと、結ばれていくほど。
その子が、誰なのか、という謎だけが、いっそう、濃く、深くなっていく。
クイナの、知らない、誰か。
けれど、この部屋のみんなが、覚えている、誰か。
——それは、いったい、誰、なのか。
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