第26話 祈りの思い出
「手を、繋いで。ぐるりと、輪に、なって」
—— 祈りの輪
ミュリエルが、絵本の、表紙を、そっと、開いた。
「『——あるところに、ちいさな、たびびとが、いました』」
さきほどの、澄んだ声が、ふたたび、部屋に、ひろがっていく。
控えめなはずの、その声は、物語を、紡ぐあいだだけ、不思議な、張りを、帯びていた。
皆が、口を、つぐみ、耳を、傾ける。
ページが、めくれる、たびに。
部屋の空気が、すこしずつ、やわらかく、ほどけていった。
絵本の、物語は。
遠い町を目指す、小さな旅人。
その旅人が、心細い夜をいくつも越えて、やがて、あたたかな灯りにたどりつく——そんな、ささやかな、お話だった。
クイナも、その輪の、すこし外で、ミュリエルの声に、耳を澄ませていた。
——観察を、続けながら。
それでも、その物語の優しさが、胸のどこか奥深くに、静かにしみこんでくる。
やがて、ミュリエルが、最後のページを閉じた。
「『——そうして、たびびとは。もう、ひとりではなく、なりました』」
ほう、と、誰かが息をついた。
名残を、惜しむような、温かい静けさが、しばらく部屋に漂っていた。
——その、静けさの中で。
ひとりの女性が、ふと、目を、伏せた。
簡素な装いの、祈るような、雰囲気の女性——コルテだった。
「……あの時の、私は」
その声は、とても小さく、ひとりごとのように、こぼれ落ちた。
皆の視線が、そっと、コルテに、集まる。
けれど、コルテは。それに、気づいていないようだった。
ただ、何かに、導かれるように、両手を胸の前で組み、静かに、目を閉じた。
——祈りのかたち、だった。
その唇が、小さく、動く。
聞き慣れた、祈りの言葉が、ひそやかに流れはじめる。
その、途中で。
コルテの、肩が、ぴくりと、震えた。
「……そうでした」
目を閉じたまま、コルテがつぶやく。
「絵本の、お話を、聞いて。私たち、楽しい、ひと時を、過ごしました。……でも」
その声が、だんだん、確かさを、増していく。
「それでも。あの時の、私たちは。まだ、こわくて、たまらなかった」
コルテの記憶が、二十年前の、あの部屋へと、ひらいていく。
「だから……誰かが、言ったんです。『みんなで、祈ろう』って」
コルテの、組んだ手に、力が、こもる。
「私たち……ひとつの、輪に、なりました」
その声が、震えた。
「手を、繋いで。ぐるりと、輪に、なって。となりの子の、手の、ぬくもり。反対がわの子の、指の、つめたさ。……それが、今でも、ここに、残っているんです」
コルテが、組んだ手を、そっと、胸に、当てた。
「こわいのが、すこしでも、遠くへ、いきますように。みんなが、無事で、いられますように。……そう、一生懸命に、祈ったんです」
孤独だったこころが、その記憶の輪のなかで、そっと、溶け合っていく。
コルテの声が、すこしだけ、明るくなった。
「ひとりひとりは、こわかった。……でも、手を、繋いだら。となりの子の、ふるえまで、つたわってきて。ああ、この子も、おなじなんだって。そう思えたら、すこしだけ、こわくなくなったんです」
その言葉が、部屋に、落ちた、瞬間。
「……ああ」
声を上げたのは、アネッサだった。
「思い出しました。……たしかに、私たち。あの時、輪に、なっていた」
「手を、繋いだ……よねぇ」
素朴な声で、リオナが、自分の手のひらを見つめる。
「となりの子の、手が。あったかかったの。……なんだか、今でも、おぼえてる」
「あたしも!」
シキータが、勢いよく頷いた。
「みんなで、輪になって。ぎゅっと、手を握った。……あの感じ、覚えてる」
「私も……祈りました」
モアが、訥々と、言葉を、継ぐ。
「むずかしい言葉は、知らなかったけど。ただ、みんなが、無事でありますようにって。それだけを、ずっと」
「私も、よ」
エルシェが、胸に手を当てる。
「あの輪の中で。私、となりの子と、手を、握り合って。みんなで、声を、合わせて、祈った」
「……私も、覚えている」
サリーシアが、静かに目を閉じた。
「みんなの、祈りの声が。ひとつに、重なって。広い部屋に、ひろがっていった。……あの響きを、私、忘れていない」
「私も……あの時」
アイリーンが、やわらかく、口を、開いた。
「輪の中で。誰かの、手を、握りしめて。いっしょに、祈っていた。……あの、繋がっていた、感じが。今、はっきりと、蘇ってきた」
ひとり、また、ひとり。
部屋の、あちらこちらで。
「私も、輪にいた」「私も、手を繋いだ」と。
おなじ、記憶が、いっせいに、蘇っていく。
あの祈りの記憶が、それぞれの胸の奥から……ひとつ、またひとつと、あふれ出していた。
誰の声にも、誰の横顔にも、おなじ、あたたかな確かさが、宿っていた。
二十年の、あの日の思いが、いま、おなじ部屋で、ひとつになり、響き合っていた。
それは、これまでで、いちばん、大きな、連なりだった。
ばらばらの土地で、ばらばらの孤児院で育ったはずの者たちが。
あの一日、ただ、ひとつの輪になって。
おなじ祈りを、捧げていたのだ。
その、温かな輪の記憶の中に。
ピッパも……いた。
「私も……あの輪の中で。となりの子と、手を、繋いでいたわ」
その言葉も、皆の記憶と、ぴたりと、重なった。
誰の目にも、ピッパは、あの輪をつくった、そのうちのひとりに見えた。
——けれど。
クイナは、その輪の中ではない。
ずっと外だ。
ただ、ひとり、立ち尽くしていた。
みんなが、口々に語る。
手を繋いで、輪になった、と。
となりの子の、ぬくもりを。
となりの子の、つめたさを。
その、すべてを、皆が、はっきりと覚えている。
——なのに。
クイナの中には。
その、輪の記憶が、ひとかけらもなかった。
これまでは、誰かと誰かの思い出だった。
自分がその場にいなくても、まだ、どこかで、説明がついた。
——けれど……今度は、ちがう。
いちばん大きくて、いちばん温かい、輪の記憶。
その輪の記憶の中に——自分だけが、いない。
それらが、いま、ひとつの冷たい確信に姿を変えて、クイナの、胸の奥に、すとんと、落ちた。
——私は。
ほんとうに、あの一日に、この部屋に、いたのだろうか?
その問いは。これまでの、どの違和感よりも、深く、静かに、クイナを射抜いた。
——もう、ひとりではなく、なりました。
さきほど、ミュリエルが、読んだ絵本の結びが、ふいに、クイナの耳の奥で蘇った。
けれど。
その動揺を、クイナは、また、表には出さなかった。
皆は、蘇った、輪の記憶に、夢中で。
——その輪に、ただひとり、加われない者が、いることに。
まだ、誰も、気づいて、いなかった。
クイナは、その、すべてを、記憶に、刻む。
紙にも、書かず。
ただ、頭の、奥深くに。
——みんなが、覚えている、ひとつの、輪。
——その輪に、いない、自分。
二つを、並べて。
そっと、刻みつけた。
——いつか、この問いに、答えを出す。
そのために、自分は、ここにいる、そんな確信がある。
みんなの輪に、入れない者。
その部外者の自分にしか、見えないものが、きっとあるはずだ。
クイナは、ざわつく胸を、そっと、おさえた。
部屋には、まだ、手を繋ぎ合った、あの日のぬくもりが、温かさを失わずに、満ちていた。
その時。
誰かが、ふと、つぶやいた。
「ねえ……あの輪の中で。私の、となりにいたのは。誰、だったかしら」
その問いに。
皆が、はっと、顔を、見合わせる。
——あの輪の中で。自分の両隣にいたのは、誰だったか。
ひとり、また、ひとり、記憶をたぐりはじめる。
その、何気ない、ひとことが。
次の、扉に、そっと、手を、かけたことに。
まだ、誰も——クイナでさえも。
気づいては、いなかった。
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