第25話 絵本
シエラの『太陽』のカードが、投げかけた問い。
——あの一日に、もう、ひとり、いたのではないか。
その小さな、ざわめきは。
まだ、部屋の宙に、漂ったまま、消えずに、いた。
誰も、答えを持たない。
けれど、誰も、それを忘れることもできない。
——その、静けさの中で。
ひとりの女性が、そっと口を開いた。
「……私も」
本を抱えた、控えめな女性——ミュリエルだった。
その声は、いつものように、小さく、ためらいがちで。
「私も、ずっと、大事に持っているものが、あるんです」
ミュリエルが、ずっと下ろさずにいた、肩掛けカバンの中から、一冊の本を取り出した。
古びてはいる……けれど、ぼろぼろではない、一冊の絵本。
「これ……大人に、なってから。暮らした町で、見つけたものなんです」
その指が、すり切れた表紙をなぞる。
「どこで読んだかは、覚えていないのに、ずっと忘れられなかった物語と、同じ物語の絵本」
ミュリエルの、小さな声が、ぽつり、ぽつりと続く。
「そう……思い出しました。あの絵本は、孤児院の、ものだったから。あの日、ここに、連れて来られた時には。持ってくることが、できなかった。……でも、すごく大好きで、だから……お話だけは、覚えていて」
その瞳が、絵本の表紙に落ちる。
「おなじ物語の、絵本を、見かけた時。……気づいたら、手に、取っていました」
ミュリエルが、その絵本を、両手で、そっと包む。
「なぜか、とても、大事な気がして。それから、ずっと。宝物にしているんです」
——その時。
絵本を、見つめていたミュリエルの、表情が。
ふと、止まった。
「……あ」
その声が、小さく揺れる。
「あの時、私……」
ミュリエルの、目が、過去のどこかへと向けられた。
「絵本は……なかった。……でも」
その声が、だんだん、確かさを、増していく。
「覚えている、お話を。私、一生懸命、みんなにお話したんです。この、絵本の、物語を」
ミュリエルの記憶が、二十年前の、あの部屋へとひらいていく。
そして——
語りはじめた、その口調が。
ふいに、別人のように、なめらかになった。
「『——あるところに、ちいさな、たびびとが、いました』」
控えめな女性の、どこに、こんな声がひそんでいたのか。
澄んだ、語りの声が、部屋にひろがっていく。
「不安で、たまらない、みんなのために。私、必死で、物語をお話したんです。……そうしたら」
ミュリエルの、頬が、ほんのり染まった。
「みんなが……『すごい、すごい』って。聞き入ってくれて。控えめな、私のお話に。あんなに、たくさんの目が向けられたのは……はじめて、でした」
ふだんは、本のうしろに、隠れているような、ひと。
その、ミュリエルが。あの一日だけは、みんなのまんなかにいた。
その言葉が、部屋に落ちた瞬間。
「……あ。私も思い出した」
声を上げたのは、フィオラだった。
「あなたの、お話。聞いた覚えが、ある。……知らない世界に、つれて行ってもらったみたいで」
「私も」
エルシェが、胸に手を当てる。
「あなたの、お話に。私、すっかり聞き入っていた」
「あたしも、『すごいすごい!』って、褒めた、気がする!」
シキータが、勢いよく頷いた。
「あなたの、お話……とても、素敵、だった」
アイリーンが、やわらかく微笑む。
「私も……聞いていた、そんな気がするよ」
リオナが、ふんわりと、目を細めた。
「あなたの、お話のあいだだけ。こわいの、忘れていられたよねえ」
「私も、です」
ナリアが、こくりと頷く。
「あの時間は、とても、幸せでした」
——ひとり、また、ひとり。
部屋の、あちこちで。
「私も、聞いた」「私も、覚えている」と。
おなじ、記憶が、いっせいに芽を出していく。
誰の顔にも、おなじ温かさが、ともっていた。
ばらばらの場所で、育ったはずの人たちが。
あの一日には、おなじ、ひとつの、お話に。心をひとつにしていたのだ。
その、温かなざわめきの輪の中に。
ピッパも、いた。
「私も……あなたの、お話。聞き入っていたわ」
その言葉も、皆の記憶と、ぴたりと重なった。
——けれど。
クイナは、その輪の外で、ただ、ひとり、立ち尽くしていた。
みんなが、口々に語る。
ミュリエルの、お話を聞いた、と。
おなじ部屋で。
おなじ時に。
おなじ物語に。
そう、聞き入った、と。
——なのに。
クイナの中には。
その記憶が、ひとかけらも、なかった。
これまでの、連鎖は。
誰かと、誰かの、一対一の、繋がりだった。
だから、自分が入れなくても、まだどこかで、納得ができた。
——けれど、今度は、ちがう。
これは、この部屋の、多くの人が、いっせいに分かち合っている、記憶。
みんなが、ひとつの、物語に、聞き入っていた。
その輪に——自分だけが、いない。
見たものは、忘れない。
聞いたことも、忘れない。
そのはずの、自分の頭の中を。
クイナは、必死で探した。
ミュリエルの、声。
澄んだ、語り。
みんなの、『すごいすごい』。
——どこにも、なかった。
『私……何も、思い出せない』
その事実が、これまでで、いちばん、冷たく。
クイナの胸を、刺した。
ひとりだけ、ちがう世界からまぎれこんだような。
そんな、心細さが、胸の底から、じわりとひろがってくる。
けれど。
その動揺を、クイナは、表には出さなかった。
幸い、誰も、クイナを見てはいない。
皆、それぞれの、よみがえった記憶に、夢中で。
——「思い出せない」者が、ひとり、まじっていることに。
まだ、誰も、気づいて、いなかった。
その時。
ミュリエルが、ふと、首をかしげた。
「……ひとり。特に、熱心に、聞いてくれた子が、いた気がします」
その声に、また、あの、ざわめきが戻ってくる。
「いちばん、前で。目を輝かせて。『つづきも、ききたい』って。……いちばん、楽しそうに聞いていた子が」
ミュリエルが、こめかみに、指を当てた。
「でも……その子の、顔が。どうしても……どうしても、出てこないんです」
——まただ。
クイナの内で、おなじ違和感が、また、ひとつ、冷たく、重なった。
シエラが、カードを引いてあげた相手。
そして、ミュリエルのお話を、いちばん熱心に聞いていた子。
——どちらも、この部屋の、誰でも、ない。
「もう、ひとり、いた」。
その感覚が、二つ続けて、浮かび上がってくる。
クイナは、その二つを、頭の中で、そっと重ねてみる。
ぴたりと、形が合った。
まるで、おなじ、ひとりの、影のように。
——けれど、まだ。
「みんなで、集まって、聞いた」という、ひとつの絵は。
誰の中にも、結ばれていない。
皆は、てんでに、「私も、覚えている」と、感じているだけ。
その記憶を、ひとつに束ねる糸は、まだ、見えなかった。
クイナは、そのすべてを、記憶に刻む。
紙にも書かず。ただ、頭の奥深くに。
一枚、また、一枚と、刻みつけていく。
——いつか、この記憶だけを、頼りに。
この謎を、解く、その時のために。
それが、いまの自分にできる、ただひとつのことだった。
いまは、まだ、違和感のかけらにすぎない。
けれど、いつか、このちいさなかけらたちが、ひとつの答えへと繋がる時が、くる。
クイナには、なぜか、そんな予感があった。
部屋には、懐かしく、温かな空気が、ゆっくりと満ちていた。
誰かが、ふと、ミュリエルに声をかける。
「ねぇ、ミュリエルさん。その絵本の、物語。……もう一度、聞かせて、くれない?」
ミュリエルが、はにかむように微笑んだ。
「ええ。……喜んで」
その手が、そっと絵本の表紙にかかる。
——その、ひと時が。
次の、扉を開けることに、まだ誰も、気づいていなかった。
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