第24話 太陽のカード
「その子が、誰だったか。どうしても、思い出せない」
—— 宙に浮く面影
シエラの手の中で、古びたタロットカードの束が、静かに息づいていた。
誰もが、その手元を見つめている。
「これね」
シエラが、ゆったりと、口を開いた。
「私が、いつも、持ち歩いている、タロットカード」
その指が、カードの、すり切れた縁をなぞる。
「でも……ほんとうは、これ、新しいほうなの」
シエラの声が、静かに、続く。
「本物は、家に、大事に、しまってある。子供の頃から、持っていたタロットカード。……もう、ぼろぼろで、占いには使えないくらい」
「捨てれば、いいのに——とは、思わなかったの?」
誰かが、そっと、尋ねる。
シエラは、首を、横に、振った。
「どうしても、捨てられなかった。だから、おなじ絵柄の束を、わざわざ、探して。ずっと、肌身離さず、持ち歩いているの」
シエラが、ふっと苦笑する。
「この絵柄じゃないと、どうしても、しっくり、こなくて」
その瞳が、手の中のカードに落ちる。
「変な、こだわりよね。自分でも、そう思う。……でも、やめられなかったの。二十年、ずっと」
その指が、優しくカードを撫でる。
「……でも。なぜ、そこまでして。おなじ絵柄を、そばに、置いておきたいのか。自分でも、わからない」
シエラが、何かを確かめるように、目を閉じた。
「こんなに、大事に、思っているのに。……肝心のことが、何も、思い出せないの」
部屋の空気が、しんと、静まり、神秘的な色を帯びていく。
——その時。
何かに、導かれるように、シエラの指が、カードの束を切り、混ぜはじめた。
「ふしぎね。こうしていると……手が、ひとりでに、動くの」
その手つきは、迷いがなく、流れるようだった。
そして、切り、混ぜ終わったタロットカードの束の中から、一枚を抜き出す。
ゆっくりと、表を返した。
——一枚の、カード。
明るい光を、放つ、円い、意匠。
『太陽』の、カードだった。
その絵を、見た瞬間。
「……あ」
シエラの、唇から、小さな声が漏れた。
「太陽……このカード……知っている」
その目が、大きく見開かれる。
「思い出した。私……昔、このタロットカードを、ここで、引いてあげた」
シエラの声が、震えた。
「私……ひとりの子に。今みたいに、このタロットカードを、引いてあげたの。その時も『太陽』のカード、だった」
シエラは、『太陽』のカードを宝物のように見つめる。
「その子が……すごく、喜んで。『素敵な絵! 太陽!』って。きらきらした目で、笑って、いた」
シエラの記憶が、二十年前の、あの部屋へと繋がっていく。
「その子、まだ、ちいさくて。私の手元を、覗き込んで。カードが、めくれる、その瞬間を。息を、止めて、待って、いた」
シエラの声が、遠い情景をなぞっていく。
「『太陽』が、出たとき。その子、ぱあっと、顔を、輝かせて。何度も、何度も、『すごい』って、笑ったの」
その横顔が、やわらかくほころぶ。
けれど、すぐに、その表情に、戸惑いが差した。
「でも……その子が、誰だったか。どうしても、思い出せない」
その言葉に——
「……あ、それ」
声を上げたのは、リノだった。
「私、覚えています。シエラさんが、占いを、している姿。子供の頃、すごい、すごいって、驚きながら、見ていました」
「私も、だよ」
素朴な声で、リオナが、続く。
「シエラさんの、占い。不思議だなあって。すごいなあって、見ていたよ」
「カードを、切る手つき」
ユーニアが、目を輝かせる。
「すごく、綺麗で。私、つい、見入っちゃって、いました」
「あたしも!」
日焼けした、シキータが、勢いよく頷いた。
「シエラの占い、すごい!って。素直に、驚いた、覚えが、ある」
四人の声が、口々に、シエラへと向けられる。
——けれど。
その四人の言葉を、聞きながら。
シエラの表情が、だんだん曇っていった。
「……ありがとう。でも……ちがう、の」
シエラが、ゆっくりと、首を振る。
「みんなは、私の占いを、見て、いてくれた。それも、嬉しかった。……でも、私が、カードを、引いて、あげた『その子』は。きっと、みんなとは、別の、誰か、なの」
その言葉に。
場が、ふっとざわめいた。
「……どういう、こと?」
「シエラさんが、タロットを、引いてあげた相手を。誰も、覚えていない……?」
「でも、たしかに。『その子』は、いた、のよね」
誰かが、おそるおそる口にする。
「……もしかして。もう、ひとり、いたの、かしら」
その問いは、宙に、浮いたまま。
誰も、答えを、持っていなかった。
その『もう、ひとり』が、誰なのか。
いくら、顔を、思い浮かべても。
ここにいる、十七人の、どの顔とも、それは、重ならない。
不安げな、沈黙が、つかのま、部屋に降りた。
——その、ざわめきの中で。
「私も、見ていた、覚えが、ありますよ」
穏やかな声で、ピッパが、言った。
「シエラさんの、占い。すごいなあって、隣で、驚いて。……ねえ?」
その言葉は、四人の記憶と、ぴったり、重なった。
誰の目にも、ピッパは、ただの、もうひとりの観客に見えた。
——けれど。
クイナだけは。
その光景を、いつもとは、違う目で、見ていた。
これまで。
いくつもの連鎖は、いつも、きれいに噛み合っていた。
誰かが、思い出のきっかけを、握り。
その相手が、おなじ思い出を、握り返す。
鍵と、鍵穴のように。ふたつで、ひとつ。
アネッサの場所。フィオラのリズム。リノの文字。シキータのお守り。
どのきっかけも、相手と、寸分たがわず、対に、なっていた。
だからこそ、連鎖は、迷いなく、ここまで進んできたのだ。
——けれど、今度は、ちがう。
シエラの握った鍵は、「誰かに、カードを、引いてあげた」という、記憶。
なのに、応えた五人が返したのは、「占いを、見ていた」という、別の、かたちの鍵。
噛み合って、いない。
シエラが、カードを引いてあげた、その相手。
——その鍵穴だけが、この部屋の、どこにも見当たらなかった。
クイナの中で。
小さな、けれど、たしかな、違和感が。
ことり、と、音を立てた。
——もしかして。
ほんとうに、もう、ひとり。
この十七人の、ほかに。
あの一日に、いた、「誰か」が、いたのではないか。
これまで、積み上げてきた、いくつもの空白。
声だけの、誰か。顔のない、誰か。名前のない、誰か。
もし、それらが、ぜんぶ——
おなじ、ひとりの、ものだと、したら。
その考えが、ふいに、形を持ちかけて。
けれど、クイナには、まだ、それを、確かめる術が、なかった。
たしかな、証拠は、何ひとつ、ない。
ただ、違和感だけが、胸の奥で、静かに息づいている。
——観察を、続けよう。
クイナは、その小さな手がかりを、記憶のいちばん上に、そっと重ねた。
その束は、いつのまにか、見過ごせない、厚みになりはじめていた。
ひとつひとつは頼りない違和感でも、積み重なれば、無視できない重さになる。
シエラは、まだ、『太陽』のカードを見つめていた。
「この絵が……好きだったの。だから、おなじものを、探してまで、そばに、置いていた」
その指が、カードを、そっと撫でる。
「でも……思い出せない。私、いったい、誰に。このカードを、引いて、あげたんだろう」
その問いは、これまでの、どの再会とも、違っていた。
いつもなら、誰かが、すぐに、「それ、私!」と、応えてくれたのに。
今度ばかりは——応える声が、どこからも上がらなかった。
その沈黙こそが、いつもの再会には、なかったもの。
行き場を失った問いだけが、ぽつんと、宙に残されていた。
『太陽』のカードだけが。
二十年前の光を、いまも、静かに放っていた。
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