第23話 強いられた忘却
部屋には、まだ、温かな余韻が漂っていた。
アイリーンの劇。サリーシアの口笛。ナリアの舞。モアの、小さな種。
別々の場所で育った者たちが、ひとつずつ、取り戻した思い出を持ち寄って。
失われた一日の断片を、繋ぎ合わせてきた。
誰もが、そのぬくもりに、ひととき、身をゆだねている。
クイナは、その輪の外で、いつものように、皆を見ていた。
——けれど、心のどこかで、別のことを考えていた。
これだけのことを、思い出したのに。
いちばん大きな問いは、まだ、手つかずのまま、残っている。
みんなが、再会を、喜んでいる、いまこの瞬間にも。
その問いは、部屋の隅で、静かに、答えを待っていた。
クイナには、それが、見えていた。
その問いを、最初に、口にしたのは——
「……でも」
華やかな衣装の女性——エルシェだった。
「私たち、どうして、こんなに大事なことを、忘れていたのかしら」
その一言で、温かな空気が、すっと静まった。
「これだけ、たくさんの絆を。これだけ、大切な、思い出を。あの一日のことを。……まるごと、忘れていたなんて」
誰もが、はっと、したように、口をつぐむ。
思い出した、今だからこそ。
忘れていたことの、奇妙さが、際立って見えてくる。
「こわい、こと……だよねぇ」
素朴な声で、リオナが、つぶやいた。
「あんなに、印象に残りそうな、忘れられなさそうな日を。みんなで、いっしょに。きれいに、忘れていたなんて」
「……ありえない、ことよね」
生真面目そうな女性——アネッサが、低くつぶやいた。
「ひとつや、ふたつの、思い出なら、わかります。でも、これは……あの一日に、起きたこと、すべて。みんなが、そろって、おなじ日のことだけを、すっぽりと、失っていた」
アネッサの、丁寧な声が、考え込むように、低くなる。
「こんな忘れ方、ふつうじゃ、ありません。まるで……何かが、私たちに、忘れることを、強いていた、みたいに」
その言葉が、部屋に、冷たく落ちた。
「……強いていた?」
誰かが、おうむ返しにつぶやく。
「誰が。何のために」
答えは、誰にも、なかった。
誰も、その先を口にできなかった。
もし、ほんとうに、誰かが。
自分たちに、忘れることを、強いていたのだとしたら。
——それは、いったい、どれほどの力を、持った、何者なのか。
問いは、足もとから、冷たく、這い上がってくるようだった。
サリーシアが、腕を組んだ。
「私たち、ここで、励まし合って。互いのいろいろなものを、見せ合って。たしかに、絆を、築いていた。……それを、まるごと、奪われていたなんて」
その声に、かすかな苦さがにじむ。
クイナは、その議論を、頭の中に、刻みながら、ひとつずつ整理していった。
——分かったこと。
子供の頃、この部屋にいた。
互いに、繋がっていた。
そして、何かに、不安を、抱えていた。
——まだ、分からないこと。
なぜ、その記憶を、忘れていたのか。
なぜ、ここに、集められたのか。
何のために。
ひとつ、思い出すたびに。
謎は、減るどころか、かたちを、変えて、増えていく。
そして、クイナは、ふと、あることに気づいた。
——この忘却は、雑では、ない。
あの一日に関する、すべての記憶を奪いながら。
それ以外の、記憶は、傷つけていない。
まるで、熟練の手が、あの一日を基準に、正確に切り取ったかのように。
そして、その切り口からは、いつも。
顔のない、名前のない、声だけの「誰か」が、こぼれ落ちている。
クイナの中に、積み上がってきた、いくつもの空白。
——あれも。この、忘却と。おなじ手による、ものなのだろうか。
その時、ふと、誰かが、言った。
「……そういえば、さ」
日焼けした、活発な女性——シキータだった。
「思い出すきっかけ、大事なものを、握ってた、よね。あたしの、お守りとか。ユーニアの、ミサンガとか。モアの、種とか」
その言葉に、皆が、顔を見合わせる。
「私たち、ずっと、持っていたんだ。二十年も。……忘れていたのに、捨てられ、なかった」
「忘れて、いたのに。手放す気には、どうしても、なれなかった」
誰かが、自分の持ち物に、そっと触れる。
「理由も、わからないまま。ただ、大事だと、信じて」
「……つまり」
アネッサが、考えながら、言葉を継いだ。
「忘れさせられても、なお、手放せなかった、もの。それが、私たちと、あの一日を、繋ぎとめていた、最後の糸だった……ということ、ですね」
その整理に、皆が、静かに頷く。
「大事なものは……忘れても。心が、ちゃんと、覚えて、いたのかも、しれないわね」
神秘的な声が、静かに響いた。
黒髪の、占い師——シエラだった。
その横顔は、何か、遠いものを見つめているようだった。
「ねえ。それなら……ほかにも。何か、大事なものを、持っている人が、いるかも、しれない」
その言葉に。
部屋が、しんと、静まった。
——その、静けさの中で。
シエラが、ゆっくりと、自分の懐に、手を当てた。
「……私も」
その指が、布の上から、何かを確かめる。
「私も、ずっと。大事に、持っているものが、あるの」
シエラが、懐から、それを取り出した。
一組の——古びた、カードの束。
占いに使う、タロットカードだった。
占いの、道具。
けれど、いまは、誰も、それを、ただの道具とは思わなかった。
また、ひとつ。記憶の扉が、ひらこうとしている。
その予感に、皆が、息をのんだ。
その瞬間、クイナの中でも、何かが、ちりっと反応した。
——大事なもの。
皆を、過去と、繋ぎ直してきた、鍵。
お守り。ミサンガ。種。
そして、今回は——タロットカード。
けれど、クイナには。
握りしめる、大事なものが、ひとつも、なかった。
二十年、肌身離さず、持ち続けるような、何かが。
——そもそも、あの一日の記憶が、自分の中には、ない。
見たものも、聞いたことも、忘れない。
そのはずの頭に、あの一日だけが、ぽっかりと空いている。
その冷たい事実を、クイナは、また、ひとつ、噛みしめた。
けれど、と、クイナは、思い直す。
大事なものを、持たない、自分。
あの一日の、ぬくもりを、知らない、自分。
——だからこそ。この部屋で、ただひとり。
思い出に、流されることなく、冷静に見ていられるのかもしれない。
みんなが、繋がっていく糸の中で、再会の熱気に、浸っている間に。
その糸の、編み目そのものを、外から見つめることができる。
部外者だから、見えるものが、きっと、ある。
ふと、視線を巡らせると。
輪の中に、ピッパが、いた。
皆が、口々に、「なぜ忘れたのか」を語り合う中で。
あの人だけは、ひとことも、その問いに、触れていなかった。
ただ、穏やかに微笑んで。
誰かの言葉に、小さく頷くだけ。
——気のせい、だろうか。
クイナは、その小さな引っかかりを、いつもの空白の隣に、そっと置いた。
シエラは、手の中のカードを、じっと見つめていた。
その瞳が、ゆっくりと揺れる。
「……ふしぎ。このタロットカードを、見ていると」
シエラの声が、夢の底から、たぐり寄せるように、続いた。
「私……誰かに、このタロットカードを、引いて、あげた。そんな、覚えが……ある気が、するの」
けれど、と、シエラは、小さく、首を、横に振った。
「でも……その『誰か』が、どうしても、思い出せない。こんなに、大事に、思っているのに」
その声には、占い師の、神秘も、余裕も、なかった。
ただ、迷子のような、心細さだけがにじんでいた。
その指先が、いちばん上の、一枚に触れる。
部屋の、誰もが。
息を、ひそめて、その手元を見つめていた。
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