第22話 小さな種
モアが、何かに、囚われたように、立ち尽くしていた。
視線は、自分の、首もとに落ちている。
そのモアの様子に、ひとり、またひとりと気がつき、皆の目が、モアへと、そして、その首もとへと、集まっていった。
皆の目に促されるように、モアの手が、首から、巾着を外した。
古びた紐を、ゆっくりとほどいていく。
中から、出てきたのは——
ひとつぶの、小さな種だった。
モアが、それを、手のひらに、そっと乗せる。
硬くて、茶色い、なんの変哲もない、種。
手のひらの上で、それは、ことりとも、音を立てない。
けれど、たしかな、重みがあった。
そして、その手のひらは、かすかに震えていた。
「……この種ね」
モアが、訥々と語りはじめる。
「ずっと、埋めることができなかった。育てることも、できなかった」
その目が、手のひらの種を、見つめる。
「どうしてだか、分からない。ただ、大事なものだって気がして。だから、ずっと、肌身離さず持っていたの」
モアが、首を横に振る。
「私、畑で、たくさんの種を育ててきた。いろんな種を、畑に埋めて、こころを込めて育てる。そうすると、ちゃんと芽を出す。……それが、私の仕事だから」
その指が、手のひらの種を、そっとなぞる。
「でも、この種だけは、どうしても埋められなかった。育て方が、想像つかないわけじゃないのに。畑に、土に、埋めようとすると、胸が……そう、胸が、ぎゅっと痛むの」
部屋が、静まり返る。
誰もが、モアの、訥々とした声に、耳を傾けていた。
「でも、今……この景色を見て。思い出したの」
モアの声が、少しずつ、熱を帯びていく。
「ここで。私、この種を、みんなに見せた。宝物だって」
モアの目に、涙が、盛り上がる。
「そうしたら、みんな、『すごい、すごい』って。褒めてくれた」
その涙が、ひとつぶ、種の上に、落ちた。
「……でも。どうして、こんな大事なこと、忘れていたんだろう」
小さな種を、起点にして、記憶が、よみがえっていく。
手のひらに伝わる、その硬い感触が、二十年前の、あの広い部屋へと、モアを、まっすぐに連れ戻していく。
モアが、種を、握りしめる。
「思い出した……あの時、私」
モアの声が、震えた。
「ひとりで、不安で。この種を、ぎゅっと握って、気を紛らわせていた。畑の、土の匂いを思い出しながら」
モアが、顔を上げる。
「そうしたら、誰かが、『それ、なに?』って。だから、見せたの。これは、種。埋めると、花や野菜になるんだよ、って」
モアの声が、少しずつ、ほどけていく。
「そのうち、ほかの子も、集まってきて。それぞれ、自分の宝物を出して、見せ合ったの。お守りとか、紐とか……ちいさな、たからものを。みんな、不安を忘れたみたいに、笑って」
その記憶を、たどるように。
「はじめて、だった。誰かに、私の宝物を見てもらえたの。……ひとりきりの私には、それが、どんなに嬉しかったか」
その言葉に——
「……あ」
声を上げたのは、生真面目そうな女性——アネッサだった。
「私……モアさんの、種のこと、聞いていた記憶が、あります」
アネッサの、丁寧な声が、だんだん、早口になっていく。
「あなたが、種を見せてくれて。私は、植物の、知識を語ったんです。『この種は、何だろう』って、二人で考えて」
アネッサが、こめかみを、押さえる。
「……それで。誰かが、言ったんです。『すごい、ちいさいのに、おおきくなるんだね』って。あの、無邪気な声を……私、覚えている」
その横顔には、研究者らしい探究の色と、幼い日の温もりが、入り混じっていた。
「私も」
のんびりとした声が、続いた。
マイペースな女性——マイラだった。
「私も、モアちゃんの種、見た覚えが、あるよ。思いっきり覗き込んじゃってたよね」
マイラが、ふわりと笑う。
「『すごい!』って、素直に、言った気がするなぁ」
ナリアと、コルテが、顔を見合わせて、微笑んだ。
ついさっき、輪に、迎え入れられたばかりの、二人。
その二人が、今度は、モアの、新しい繋がりを、誰よりも、嬉しそうに見守っている。
モアの周りに、新しい糸が、結ばれていく。
ナリア。コルテ。そして、アネッサと、マイラ。
ひとりきりだった、モアの宝物が——たしかに、誰かと分かち合われていた。
モアが、アネッサと、マイラを、見つめる。
「……思い出してくれたんだ。私の、たった、ひとつの、宝物を」
その目から、大粒の涙が、ぽろぽろと、こぼれ落ちた。
「……埋められなかった、わけが分かった」
モアが、種を、見つめたまま、ぽつりと言った。
「この種を、埋めてしまったら。なんだか、忘れちゃいけない、大事なことまで、土の中に消えてしまう気が、していたのね。……ずっと」
モアの頬を、また、涙が伝う。
けれど、その顔は、晴れやかだった。
「忘れていても。心は、ちゃんと覚えていた。この種が、私と、あの一日を繋いでいてくれたんだ」
モアが、種を握った手を、胸に当てる。
「埋められなくても。芽を出させてあげられなくても。……あきらめずに、持っていてよかった」
その言葉は、誰に、言うともなかった。
けれど、なぜか、部屋の、隅々まで、静かに染みわたっていく。
部屋に、温かな、ざわめきが広がる。
「小さい頃の宝物が……あの一日、私たちを繋いでくれたのね」
「モアさんも、ちゃんと、ここに、いたんだ」
誰もが、モアがひとりではなかったことを、自分のことのように、喜んでいた。
その輪の中に、ピッパも、いた。
うんうん、と頷きながら。
誰よりも、深く、感じ入ったような顔をして。
クイナは、その光景を、輪の外から、見つめていた。
——モアも、繋がった。
ナリアの拍手で、名前を。
そして、この種で、宝物を。
二重に、輪の、内側へ。
クイナは、これまでの連鎖を、もう一度、頭の中でたどってみる。
名前を、呼び合うことで。宝物を、見せ合うことで。
いちばん、ひとりだった者ほど、二つ、三つと、ていねいに糸を結び直されていた。
——まるで、誰ひとり、こぼさないように、と。
誰かが、はじめから、そう願っていたかのように。
ばらばらに、ほどけていた糸の端を、ひとつずつ拾い上げては、もとの結び目へ返していく。
そんな、ていねいな手つきが、この部屋には、たしかにあった。
ひとりきりだった者さえ、こうして、糸を取り戻していく。
輪に、加われずにいる者は、もう——
クイナは、そこで、思考を止めた。
胸の奥に、いつもの、冷たい線が引かれていく。
この、温かな部屋で。繋がる相手を、持たないのは。
——やはり、自分、だけ。
ふと、クイナの中で、ひとつの言葉が、引っかかった。
アネッサの言った、あの声。
『ちいさいのに、おおきくなるんだね』
——あれは、いったい、誰の声だったのだろう。
クイナは、応えた者たちの顔を、頭の中に、並べてみる。
モア。アネッサ。マイラ。
けれど、その無邪気な感嘆を、口にした子は。
その三人の、誰とも重ならなかった。
また、ひとり。
声だけを、残して、消えた、誰か。
クイナは、その声なき空白を、これまでの空白の隣に、そっと重ねた。
モアが、種を、巾着に戻した。
古びた紐を、結び直し、ふたたび、首にかける。
「……大事な、記憶、だったんだね。この小さな種は」
モアが、巾着の上から、その小さな膨らみを、手のひらで包む。
まるで、二十年ぶんの、孤独を抱きしめるように。
——そして、その孤独に、そっと別れを告げるように。
その横顔は、もう、輪の外にはいなかった。
クイナは、ただ、ひとり。
温かな部屋の、いちばん端で、その光景を、静かに見届けていた。
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