第21話 ひとりじゃなかった
ナリアの舞は、いつまでも、続くかのようだった。
白い袖が、宙に弧を描くたび、口笛と歌が、その動きを、追いかけていく。
高く澄んだ音と、伸びやかな声と、しなやかな身体が、ひとつの流れになって、部屋を、めぐる。
いつしか、誰もが、口をつぐんでいた。
ただ、その三人の姿に、心を預けるように。
冷たかったはずのこの部屋が、いまは、ふしぎな温もりに、満ちている。
やがて——
サリーシアの口笛が、すうっと細くなった。
エルシェの歌声が、やわらかくほどけていく。
それに合わせて、ナリアの舞も、ゆっくりと止まった。
白い袖が、最後に、ひとつ、揺れて。
静寂が、部屋に、降りた。
誰もが、その余韻に、言葉を、失っていた。
——その時。
ぱち、ぱち、ぱち、と。
乾いた、けれど、温かな音が、響いた。
日焼けした、芯のある女性——モアだった。
そのとなりで、簡素な装いの女性——コルテも、そっと、手を打ち合わせている。
「……素敵、だった」
モアが、訥々とつぶやく。
「素敵、でした。とても」
コルテも、祈るように、手を、胸の前で、合わせた。
二人の拍手は、小さかった。
けれど、その音だけが、静まった部屋に、まっすぐ、届いた。
ナリアが、その音のほうへ、顔を向ける。
「ありがとう」
自然に、お礼の言葉が、こぼれた。
そして——
「ありがとう。モアちゃん、コルテちゃん」
言ってしまってから、ナリア自身が、はっと、息を、のんだ。
「……あれ?」
ナリアが、自分の口元に、手を当てる。
「私、今……どうして、二人のこと、そう、呼んだの?」
誰も、ナリアに、その呼び名を、教えてなどいない。
けれど、それは、まるで、ずっと昔から知っていたかのように、自然に、出てきた。
ナリアの瞳が、遠いところを見つめる。
「思い出した……あの時も、こうだった」
その声が、震えた。
「あの、広い部屋で。冷たい、石の床の上で。みんなが、不安そうに、していた」
ナリアの言葉が、少しずつ、過去をたぐり寄せていく。
「私、せめて、と思って、舞を踊ったの。サリーシアさんの口笛と、エルシェさんの歌に、合わせて。……そうしたら」
ナリアの目が、潤む。
「ひとりぼっちで、隅に、いた、二人が……いちばん、大きく、拍手をしてくれたの」
誰よりも、まっすぐな拍手だった。
その音を、ナリアは、ずっと、忘れていたのに——いま、たしかに、思い出していた。
ナリアが、モアとコルテを、交互に見る。
「私、嬉しくて。『ありがとう』って、言った。そうしたら、私たち……はじめて、名前を、教え合ったの」
ナリアの声が、その記憶を、たどっていく。
「あなたは『モア』。あなたは『コルテ』。そして、私は——『ナリア』。よろしくね、って」
その言葉が、二人の胸に、届いた、瞬間。
「……っ」
モアの目が、大きく見開かれた。
「私……思い出した。私、ずっと、ひとりで、寂しくしていた」
モアの、訥々とした声が、ひとつずつ、言葉を確かめる。
「おなじところで、育った仲間なんて、いなかった。だから、この部屋でも、ずっと、輪の、外にいた。……でも」
モアの視線が、ナリアの、白い装束に、注がれる。
「あの時。あなたの舞を、見て。気付いたら、私、手を叩いていた。寂しさも、忘れて」
モアの、節くれだった指先が、かすかに震えていた。
名前を、呼んでくれる誰かが、ほしい。
その願いだけは、ずっと、口にしなかった。
言っても、しかたが、ないと、思っていたから。
——それが、いま、二十年の時を越えて、返ってきた。
「私も、です」
コルテが、続いた。
その丁寧な声が、かすかに潤んでいる。
「私も……ひとりきりで、連れてこられました。呼んでくれる人も、呼ぶ相手も、いなくて」
コルテが、胸の前の手を、ぎゅっと握る。
「でも、あなたの舞に、心が、動かされて。気付けば、祈るように、手を合わせていたんです。……そして、はじめて、名前を、呼んでもらえた」
その伏せたまつげを、ひとすじ、涙が、伝った。
ナリアと、モアと、コルテ。
三人の間に、新しい糸が結ばれていく。
——これまで、どこにも、繋がっていなかった、二人に。
はじめての、糸が。
ほかの皆は、おなじ孤児院の、誰かと、再会していった。
けれど、モアにも、コルテにも、その「おなじ孤児院の誰か」は、いなかった。
ずっと、ひとりだった。
この部屋で、輪が、ひとつ、またひとつと、できていくのを、ただ、外から、見ているしかなかった。
——その二人が、いま、はじめて、輪の、内側に、いる。
「私も……ここに、いたんだ」
モアが、ぽつりと言った。
「私も……ここに、いました」
コルテが、それに重ねる。
モアと、コルテが、ふと、目を合わせた。
おなじ孤児院の仲間を、持たなかった者どうし。
言葉は、交わさなかった。
けれど、その視線だけで、たしかに、何かが、通じ合っているようだった。
二人が、改めて、部屋を見回した。
高い天井を。冷たい石の壁を。古い碑文を覆う、織物を。
——ひとりでは、なかった場所として。はじめて。
部屋に、温かな、ざわめきが、広がっていく。
「あの二人も……ちゃんと、ここに、いたのね」
「ずっと、ひとりだと思っていた人まで……ほんとうは、繋がっていたんだ」
「よかった。これで、みんな……」
誰かの声が、潤んでいた。
その輪の中に、ピッパも、いた。
ほかの誰かと、おなじように、目元を押さえて。
まるで、自分も、救われたかのような、顔をして。
クイナは、その光景を、輪の外から見つめていた。
——繋がった。
ひとりきりだった、モアも、コルテも。
もう、輪の、なかにいる。
別々の場所で、別々に、育った者たちが、ひとつ残らず、あの一日で繋がっていた。
クイナは、これまでの連鎖を、頭の中で、順に並べ直す。
はじめは、おなじ場所で育った者どうしが、ひとつの組になって。
次に、物語が、口笛が、舞が、その組と組の壁を越えていった。
そして、いま。
どこの組にも入れなかった、ひとりきりの二人さえ、誰かの記憶の手が、すくい上げた。
——この部屋では、誰ひとり、ほんとうの意味では、ひとりではなかったのだ。
あの一日にかぎっては。
クイナは、心のなかで、数えた。
名前を、取り戻した者の数を。
——十五人。
ふと、ナリアが、小さく、首をかしげた。
「……ね。あの時、名前を、教え合ったの。三人、だった……よね?」
その声が、わずかに、揺れた。
「ううん……もうひとり、いた気が、するの。私の『よろしくね』の、あとに。名前を教えてくれた子が……でも」
ナリアが、こめかみに、指を当てる。
「その子の、名前が。どうしても、出てこない」
また、ひとつ。
名前の、抜け落ちた、空白。
クイナは、それを、これまでの空白の隣に、そっと重ねた。
——その「誰か」は、いったい、何人ぶんの記憶から、消えているのだろう。
そして、また、温かな輪の、すぐ外で、クイナは、ひとり、立っていた。
繋がらない者は——本当は、二人、いるはずだった。
自分と、ピッパ。
ピッパもまた、この部屋で、ただの一度も、自分自身の記憶を、取り戻してはいない。
なのに——あの人は、いま、輪のなかで、誰よりも、自然に微笑んでいる。
まるで、ずっと前から、そこに属していた、かのように。
その小さな引っかかりを、クイナは、まだ、言葉にはしなかった。
——その時だった。
ふと、視界の、隅で。
モアが、何かに気付いたように、動きを止めた。
「あ……」
モアの手が、ゆっくりと、首もとへ伸びる。
そこには、古びた、小さな巾着が、下がっていた。
その指が、布の上から、何か硬いものの形を、確かめるように、押さえる。
ころん、と。
小さな、けれど、たしかな手応えが、布越しに、伝わってきたようだった。
モアの目が、見開かれていく。
温かな再会の余韻が、その瞳のなかで、ふいに、別の何かへと、塗り替えられていく。
まるで、二十年の時を、まっすぐに、遡るように。
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