第20話 口笛
アイリーンの指が紡いだ物語の余韻は、まだ、部屋のなかに、漂っていた。
「ここに、みんな、いたの?」
その問いが、あちこちで、小さく、繰り返されている。
誰もが、自分の知らなかった過去の手触りを、確かめているようだった。
育った場所の壁を越えて、おなじ物語を、聞いていた者たち。
フィオラも、シキータも、まだ、その熱を、頬に残していた。
別々の土地から来たはずの誰かと、ひとつの記憶を、分け合っていた——その不思議が、ざわめきとなって、部屋を満たしている。
クイナは、いつものように、その輪の外から、十六人を、見ていた。
ひとり、また、ひとりと、糸が結ばれていくのを、目で、追いながら。
——その時。
華やかな衣装の女性——エルシェが、ふと、何かに引っかかったように、顔を上げた。
「……あの口笛」
誰にともなく、エルシェが、つぶやく。
「さっきから、ずっと、引っかかっていたの。前に、一度、聞いた気がして」
エルシェの視線が、ひとりの女性へと、向けられた。
装飾の多い衣装の、しなやかな女性——サリーシアだった。
「サリーシアさん。あなた、さっき……ううん、もっと前に、口笛を、吹いていなかった?」
サリーシアが、軽く、目を見開く。
それから、思い当たったように、肩をすくめた。
「ああ、吹いていたかもしれないわね。癖なの。気持ちが昂ると、つい」
「もう一度、聞かせてもらえないかしら」
エルシェの声は、自分でも、なぜそう頼むのか、わからない——そんな響きをしていた。
「私の口笛で良ければ、いくらでも」
サリーシアが、おっとりと、笑う。
そして、唇を、すぼめた。
ふぃ、ふぃ——
しなやかな旋律が、ひとふし、部屋に、こぼれる。
石の壁に、柔らかく、反響して。
どこか、懐かしさを、誘うような、節まわしだった。
その音が、ほどけていくにつれ。
サリーシアの表情が、ゆっくりと、変わっていった。
「……あれ」
口笛が、途切れる。
「このやり取り……知っている」
サリーシアが、自分の唇に、指を、当てた。
「昔、誰かに、おなじように、頼まれたことが、ある。『あなたの口笛、もう一度』って」
言葉が、ひとつずつ、こぼれ落ちていく。
「そう……私、ここで、口笛を、吹いたの。この、広い部屋で。冷たい、石の床の、上で」
その目が、どこか遠いところを、見ていた。
「みんな、不安そうで。だから、せめて、気を、紛らわせたくて。私、口笛を、吹いたの」
サリーシアの声が、だんだん、確かさを、増していく。
「隣に、小さな子たちが、いた。膝を抱えて、ふるえている子も。……その子たちに、聞かせるみたいに。私、ずっと、吹いていた」
その指先が、見えない旋律を、たどるように、宙を、撫でた。
サリーシアの記憶の扉が、口笛の旋律に解かれて、ひらいていく。
その時だった。
「……私だわ」
エルシェの声が、震えた。
「あなたに、頼んだの……私。『もう一度、聞かせて』って。たった今と、おなじ言葉で」
エルシェが、胸に、手を当てる。
「そして、私……あなたの口笛に、合わせて、歌ったの」
言うが早いか、エルシェの唇から、澄んだ歌声が、こぼれ出た。
言葉のない、旋律だけの歌。
よく通る、伸びやかな声が、サリーシアの口笛に、重なっていく。
ふたつの音は、まるで、ずっと一緒に鳴っていたかのように、自然に、絡み合った。
長い歳月を、飛び越えて。
ひとつの音楽が、現在の部屋に、よみがえる。
その調べに、誘われるように——
白い装束の女性が、すっと、立ち上がった。
長い髪を結った、清浄な雰囲気の女性——ナリアだった。
「私……」
ナリアの足が、ひとりでに、半歩、前へ、出る。
「この、口笛と、歌に、誘われて……舞を、踊った。あの時。ここで」
その瞳が、潤んでいた。
「踊っている間だけ……私、不安を、忘れていられたの」
ナリアの腕が、しなやかに、持ち上がる。
白い袖が、宙に、弧を描いた。
口笛と、歌に、合わせて。
その身体が、ゆっくりと、舞いはじめる。
その所作に、迷いは、なかった。
よみがえったのは、幼い日の振りだったのだろう。
けれど、いま舞う姿は、二十年の研鑽を経て、見違えるほど美しく、磨き上げられていた。
——口笛。
——歌。
——舞。
三つの才能が、ひとつに、編まれていく。
二十年前、この部屋にあったはずの、ひとつの情景が。
いま、ふたたび、組み上がっていく。
部屋の空気が、変わった。
冷たかったはずの石の床に、温かな、神聖な何かが、満ちていく。
三人の誰も、示し合わせては、いなかった。
ただ、身体に、刻まれた拍子を、なぞっただけ。
それでも、口笛と歌と舞は、まるで、はじめから、ひとつであったかのように、寸分も、ずれなかった。
いつのまにか、ざわめきは、やんでいた。
高く澄んだ口笛に、伸びやかな歌声が、寄り添い。
舞う白い袖が、その響きを、目に見える形へと、変えていく。
見ている者たちから、感嘆の、息が、漏れた。
「ここで……即興の、演奏や、舞を、していたのね」
「私たち、それぞれの得意なことを、見せ合って……励まし合っていたんだ」
誰かが、つぶやく。
その声には、驚きと、温もりが、入り混じっていた。
その輪の中に、ピッパも、いた。
誰かの感嘆に、そっと、相づちを、重ねて。
驚いている誰かと、おなじ顔をして。
クイナは、その光景を、静かに、頭の中で、なぞっていた。
アイリーンは、物語で、人を繋いだ。
サリーシアは、口笛で、人を繋いだ。
ばらばらの場所から来た者たちが、それぞれの得意なことを、持ち寄って、不安だった一日を、互いに、支え合っていた。
連鎖は、もう、おなじ場所で育った者どうし、という枠を、完全に、越えていた。
——あの一日。
別々の土地から、別々の得意を持った幼子が、この部屋に、集められた。
そして、たがいの得意なことで、不安を、和らげ合った。
——けれど。
サリーシアの口笛が、ふと、ためらうように、揺れた。
「……もうひとり、いた気がするの」
サリーシアが、宙を、見つめる。
「私の口笛を、真似ようとした子。おなじように、口を、すぼめて……でも、音が、出なくて。ふたりで、笑ったの」
その口元が、ふっと、ほころぶ。
けれど、すぐに、その笑みは、戸惑いに、変わった。
「……でも。その子の、顔が。どうしても、出てこない」
応えた誰の顔とも、それは、重ならないようだった。
また「もうひとり」。
名前も、顔も、ない、誰か。
クイナは、その空白を、そっと、これまでの空白の隣に、並べた。
——いったい、何人ぶんの「誰か」が、この部屋から、消えているのだろう。
そして、壁ぎわには、まだ、二人がいた。
まだ、誰の名も、呼べずにいる、二人。
その視線が、三人の姿に、吸い寄せられて、離れない。
クイナは、息を、ひそめた。
——次は、あの二人かもしれない。
温かな音楽の、満ちる部屋で。
その輪に、まだ、加われずにいる者が、三人。
壁ぎわの、二人と。
そして、クイナ、自身。
あの二人には、まだ、糸の端が、見えていないだけ。
けれど、自分には——その端すら、どこにも、ない。
クイナは、胸の奥で、そっと、線を、引いた。
自分と、この十六人とを、隔てている、見えない一本を。
それでも、と、クイナは、思う。
この部屋で、ほどけていく記憶の連なりは、いつか、ひとつの絵に、なるはずだ。
その絵が、結ばれたとき。
奪われた一日が、なぜ奪われたのか——その答えも、きっと、見えてくる。
ナリアの舞は、ゆっくりと、その二人のほうへ、近づいていった。
白い袖が、招くように、宙を、滑る。
壁ぎわの二人の指先が、かすかに、動いたように、見えた。
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