第18話 魔法陣
「……シーちゃん」
黒髪の、神秘的な女性——シエラが、ゆっくりと、自分を呼んだその呼び名を、口の中で、繰り返す。
いつもの、含みのある神秘の気配が、いまは、どこかへ、消えていた。
「シーちゃん……。知っている、この呼び方。私、そう、呼ばれていた」
気品ある装いの、優雅な女性——アイリーンも、胸に、手を当てた。
「アイリ……私も。ずっと、昔に、誰かが、私を、そう呼んで……」
その声は、かすかに、震えていた。
名を呼ばれた、ただそれだけのことに——二人は、戸惑い、けれど、どこか、泣きそうな顔を、していた。
その言葉に、押されるように。
マイラが、もう一度、足元の、魔法陣へ、目を落とした。
淡く光る、複雑な文様。
その線を、指で、そっと、なぞる。
なぞって——その手が、止まった。
「……思い出した」
マイラの、のんびりとした声に、確かな熱が、こもる。
「私たち、子供の頃。こういう模様を、四人で、描いて、遊んでた」
言葉が、堰を切ったように、あふれ出す。
「あの日も、不安で、たまらなかった。なにがなんだかわからなくて。……でも、四人で、いたから。冷たい床に、大きな模様が、もう、描いてあって。みんなで、その線を、ぐるぐる、なぞって。『これ、ほんものの魔法陣だね』って、強がって。帰ったら、また庭で、描いて遊ぼうねって。……そうやって、こわいの、誤魔化していたんだ」
マイラの指が、魔法陣の線を、ゆっくりと、たどっていく。
その動きは、もう、初めて見るものを、なぞる手つきでは、なかった。
何度も、何度も、なぞった線を、確かめるような——慣れた、手の動き。
「この、形。この、渦の、巻き方。ぜんぶ、覚えてる。……指が、覚えてた。記憶より、ずっと」
その目から、ぽろりと、涙が、こぼれた。
「あの日も、私が強がって、真ん中に座って……泣きそうだった、みんなを、呼んでた。『シーちゃん、リノ、アイリ、こっちこっち!』って」
その瞬間。
シエラの、張りつめていた頬が、ふいに、ゆるんだ。
「マイ……」
その呼び名は、自分でも、驚いたように、自然に、口を、ついて出た。
「マイ。あなた、思い出したのね」
「シーちゃん……!」
マイラの顔が、くしゃりと、歪む。
清潔な身なりの、生真面目な女性——リノも、震える声で、続いた。
「マーちゃん……あの魔法陣。私、覚えています」
「マーちゃん!」
アイリーンも、こらえきれずに、その名を、呼んだ。
大人びた、貴族の作法も、いまは、どこかへ、消えていた。
ただ、幼い日に戻ったように、まっすぐな声で。
ばらばらだった、四つの記憶が。
名を呼び合うたびに、ひとつ、またひとつと、噛み合っていく。
ひとりが思い出すと、その記憶が、隣の誰かの記憶を、呼び覚ます。
まるで、四本の糸が、互いを手繰り寄せて、もとの一本に、編み直されていくように。
「私は、ずっと隣で見ていた」
シエラが、目を、細める。
「そう、ここではない、あの庭で……カードで、遊びながら。あなたたちが、夢中で、魔法陣を描いているのを。……いちばん年上だったから。見守るのが、私の、役目だった」
「私は、描く係でした」
リノが、懐かしそうに、笑う。
「マーちゃんが、『こういうの、こういうの』って、無茶を言って。私が、それを、線にして。……いま思えば、あの頃から、私、書くのが、好きだったんですね」
「そして、私が、お話をつけたの」
アイリーンが、優雅に、両手を、広げる。
「『これは、魔法使いの、魔法陣。私たちは、これから、すごい冒険に、出るのよ』——そんなふうに。みんな、目を、輝かせて、聞いてくれた」
「そうだ、私……」
マイラが、ふと、魔法陣の、中心を、見つめた。
「私は、ここに、座ってたんだ。みんなを、呼んで。『こっちこっち』って。……四人で、ぎゅうって、くっついて、いつもの遊びの、続きみたいに。手を、動かしてるあいだだけは、こわいことを、考えずに、すんだ」
その声に、三人が、深く、頷く。
それぞれの中で、おなじ一日が、おなじ温度で、よみがえっているようだった。
四人の記憶が、ぴたりと、重なった。
この部屋の、冷たい床の上で、四人は、ふたたび、ひとつの、輪に、なっていた。
どちらからともなく、四人は、手を、伸ばした。
「シーちゃん!」
「マイ! ……マーちゃん!」
「リノ!」
「アイリ!」
幾重にも、重なる呼び名。
四人は、笑いながら、泣きながら、固く、抱き合った。
やがて、どちらからともなく、あの頃の合言葉が、こぼれ出た。
「……これから、すごい冒険に、出るのよ」
アイリーンが、涙の滲んだ声で、あの日の台詞を、口にする。
残る三人が、顔を、くしゃりとさせて、笑った。
四人はもう、おなじ物語の、続きの中に、いた。
その光景に、見ている者たちの胸も、満たされていく。
部屋の、あちこちから、温かなため息が、漏れた。
「四組目……これで、十三人が繋がったわね」
エルシェが、目元を、そっと、押さえる。
「すごいなぁ。名前を、呼び合うだけで、こんなに、思い出せるなんて」
シキータが、感心したように、つぶやいた。
立て続けの再会に、部屋の空気は、すっかり、ほどけている。
出口のない、この場所の、重苦しさを、いっとき、忘れさせるほどに。
その輪の中に、ピッパも、いた。
「……よかった。ほんとうに、よかったわね」
誰かの喜びに、後から、そっと、寄り添うように、頷いて。
クイナは、いつもの場所——輪の外から、その一部始終を、見つめていた。
——十三人。
第一の二人。
第三の四人。
第四の三人。
そして、いま、第二の四人。
四つの、小さな輪が、すべて、繋がった。
十七人のうち、十三人までが、互いの呼び名を、取り戻した。
クイナは、これまでに見た、すべての再会を、頭の中で、並べてみる。
壁の文字。リズム。古い一文字。お守り。背中。仕草。切れた紐。そして、魔法陣。
きっかけは、てんでばらばらだった。
声で。手で。品物で。仕草で。
ある者は、文字の形から。ある者は、指に残った、動きから。
誰ひとり、おなじ入り口を、通っていない。
けれど——どの鍵も、最後には、おなじ、ひとつの扉を、開けた。
あの、広い部屋。
あの、冷たい床。
あの、不安な、一日。
みな、そこへ、帰っていく。
別々の道から、たったひとつの、おなじ場所へ。
——やはり、間違いない。
この十七人は、ばらばらに生きてきたように見える。
でも、いつか、どこかで、その一日だけは、たしかに、共にしていた。
しかも、その一日が、まるごと、みんなの記憶から、消されている。
そして、いつものことだった。
十三人が、名を呼び合い、涙を流す、その輪の、どこにも。
クイナの席は、なかった。
呼ぶ名前も、呼ばれる名前も、持たないまま。
私は——その一日のことを、思い出すことができない。
見たもの、聞いたことは、忘れない——そんな自分の記憶の中に、その一日は存在しなかった。
クイナは、ひとつ、小さく息を吐いて、視線を、巡らせた。
歓喜の輪から、少し離れた場所。
そこに、まだ繋がる相手の、いない者たちのうちの二人がいた。
壁ぎわに立つ、その二人——
芯のある雰囲気の女性、モア。
祈るような佇まいの女性、コルテ。
次々と生まれる再会を、二人は、どんな思いで、見ていたのだろう。
まぶしいものを見るように。
けれど、その奥に、隠しきれない、寂しさを、にじませて。
誰かに名を呼ばれ、誰かの名を呼ぶ——その輪は、もう、すぐそこにあるのに。
二人だけが、その輪に、加われずにいる。
ひとりは、胸の前で、そっと、手を、握り合わせ。
もうひとりは、何かを探すように、自分の手のひらを、じっと、見つめていた。
その横顔を、クイナは、しばらく、見つめていた。
名を呼び合う輪の、すぐ外側にしか、立つ場所を持たない者たち。
——あの二人も、私と、おなじなのだろうか。
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