第16話 ミサンガ
「……ナーねえね」
ユーニアが、もう一度、その呼び名を、口の中で、転がした。
なぜ、そう呼んだのか。
その理由は、まだ、はっきりとは、わからない。
けれど、リオナを見つめる目には、確かな熱が、宿りはじめていた。
「ユナ、ナル……」
リオナも、二人を見つめ返して、繰り返す。
その呼び名の感触が、舌に、馴染んでいる。
三人のあいだに、何かを、いままさに、掴みかけている空気が、流れていた。
あと、ひとつ。
あと、ひとつ、きっかけがあれば——。
その時。
ユーニアの手が、また、自分のポケットへ、伸びた。
さっきから、何度も、無意識に、押さえていた場所。
その指先が、今度は、ポケットの中のそれを、そっと、取り出す。
「……あ。これ……」
ユーニアの手のひらの上に、載せられたのは——一本の、古い紐だった。
細い糸を、編んで作られた、組紐のような、飾り。
けれど、長い年月に、すっかりすり切れて、両の端は、ほつれて、力なく垂れている。
元は輪を成していたのだろうが、いまは、その輪も、閉じてはいなかった。
「これ……子供の頃から、ずっと、持ってたんです」
ユーニアの声が、戸惑っていた。
「最初は、きっと、ミサンガだったんです。でも……覚えている記憶だと、もう、こうして、切れていて。いつ切れたのかも、思い出せない。それなのに、捨てられなくて。こんなに、ぼろぼろになっても。……なぜ、こんな紐を、大事にしているのか。自分でも、わからないんです」
ユーニアは、その紐を、目の高さに、掲げた。
光に、透かすように。
「……よく見ると。三つの色が、編み込まれているんです」
近くの者たちが、覗き込む。
すり切れてなお、確かに、そこには、三色の糸が、撚り合わされていた。
落ち着いた、淡い赤色。
深く、澄んだ青色。
そして、清らかな、白に近い色。
「子供心に……色を選んで。三つを、組み合わせて、編んだ気が、するんです」
ユーニアの指が、無意識に、その紐を、撫でていた。
すり切れた糸の、ざらりとした手触り。
その感触を、指先が、確かめる。
「……あ」
ユーニアは古い紐を握りながら、見えない糸を組み上げるように指を動かした。
糸を、すくい。
かけて、結び。
ひと目、ひと目、編んでいくような、規則正しい、動き。
「……この、動き。私、知っている」
その目が、大きく、見開かれる。
「子供の頃。私、この指で、紐を、編んでいた。こうやって、何度も……」
言葉が、堰を切ったように、あふれ出す。
「教えてくれたのは——ナーねえねだ。『こうやって、すくって、結ぶの』って。優しく、何度も。私の手を、取って」
ユーニアの視線が、リオナへ、向く。
「そして、私の隣に、ナルがいた。一緒に、編んでた。二人で、どっちが上手か、競って……笑いながら」
今度は、白い装束のナリアを、見る。
その瞳から、涙が、こぼれた。
「思い出した。この三つの色は——私たちなんだ」
ユーニアが、震える指で、ひとつずつ、糸を、指し示す。
「この、落ち着いた赤色は……ナーねえね。深い青色は……私。そして、この白色のが——ナル」
三色の糸が、ひとつに、撚り合わされた、紐。
それは、ただの飾りでは、なかった。
三人で、それぞれの色を持ち寄って、編み上げた——絆の、かたちだった。
「……そうだ」
リオナが、堪えきれず、口を、開いた。
「私が、二人に、教えたんだ。紐の、編み方を」
その目から、つうっと、涙が、伝う。
「淡い赤色は、私が、好きだった色。『ナーねえねの色だね』って、ユナが、選んでくれた」
「私の、白色も」
ナリアが、続けた。
いつもの、年少らしい、まっすぐな声が、潤んでいる。
「ユナが、『これは、ナルの色』って。……私、嬉しくて。自分の色を、もらえたのが。三人の中に、私の場所が、ちゃんと、あるんだって、思えて」
ナリアは、その白い糸を、そっと、指でなぞった。
「……あの、広くて、冷たい部屋で。怖くて、たまらない時は、三人で、これを、握っていたの。三人の色を、いっしょに、握っていれば……すこしだけ、怖くなくなったから」
三人の記憶が、一本の紐のように、撚り合わさり、ひとつになる。
欠けていた色が、それぞれの手で、埋まっていく。
「ユナ……ナル……」
リオナが、両手を、広げた。
二人は、もう、ためらわなかった。
幼い日に、そうしていたように——その胸へ、飛び込んでいく。
「ナーねえね!」
二人の声が、重なった。
三人は、固く、抱き合った。
二十年の空白を、その温もりで、塗りつぶすように。
離れていた歳月も、忘れていた名前も、いまは、もう、どうでもよかった。
ただ、互いの背に回した腕の確かさだけが、すべてだった。
「ずっと、一緒だったね」
リオナが、二人の髪を、撫でながら、囁く。
「三つの色は、ばらばらに、なってたけど。……ほんとうは、ずっと、ひとつの、紐だったんだ」
ユーニアが、切れた紐を、宝物のように、握りしめた。
すり切れて、もう、結び直すことも、できないけれど。
その三色だけは、二十年を、越えて、ここに、残っていた。
その光景に、見ている者たちの胸も、温かく、満ちていく。
部屋の、あちこちで、声が、上がった。
「すごい……また、繋がった」
シキータが、頬を、紅潮させている。
「これで……三組目、だよね」
その輪の中で、ピッパも、静かに、頷いている。
「……よかった。ほんとうに、よかったわね」
誰かの喜びに、後から、そっと、寄り添うように。
クイナは、いつもの場所から、その一部始終を、記憶に、刻んでいた。
九人。
フィオラとエルシェ。
サリーシアたち、四人。
そして、リオナと、ユナと、ナル。
十七人のうち、もう、半分以上が、忘れていた絆を見つけ出した。
——あの時の部屋に、あったもの。
——あの時の部屋で、していたこと。
それだけが、消えた記憶への、扉を、開ける鍵になる。
そんなクイナの耳に、ひとつのつぶやきが届いた。
「ふたりと、よにんと、さんにん。……まるで、誰かが、組分けでも、していたみたい」
黒髪のシエラが、ひとつ、ひとつ、確かめるようにつぶやいた一言。
その何気ない一言に、クイナの目が、わずかに、動いた。
組分け。
ふと、こぼれた言葉。
本人は、深く考えずに、言ったのだろう。
けれど——その言葉は、クイナが、ずっと、抱えていた違和感に、形を、与えるものだった。
——誰かが、ばらばらの土地から、何組もの子供を、選んで集めたのではないか。
その推測へ踏み出すには、十分なひとことだった。
そして、思い出される記憶は——みんな、同じ場所へ、帰っていく。
広い部屋。
冷たい石の床。
不安な時間。
別々の入り口から手繰り寄せても、行き着く先は、いつも、たったひとつの、おなじ一日だ。
クイナは、胸の奥で、二つの問いを、転がした。
——なぜ、その一日が、あったのか。
ばらばらの土地に、ばらばらに、生きてきた子供たちが、たった一度、おなじ部屋に、集められた、その日。
そして、もうひとつ。
——なぜ、その一日の記憶だけが、みんなの中から、消えていたのか。
偶然、忘れたのでは、ない。
まるで、誰かの手で、きれいに、拭い去られたかのように。
答えは、まだ、どこにも、なかった。
ただ、ひとつの紐が、切れてもなお、捨てられずに、残っていたように。
消されたはずの一日も、こうして、ひとつ、またひとつと、拾い集められていく。
そして、いつものように——みんなが取り戻していく、その記憶の中に、まだ、私はいない。
ふと、クイナは、輪の隅へ、目を、やった。
誰とも、まだ、繋がっていない者たち。
壁ぎわで、じっと、自分の手のひらを、見つめている、二人がいた。
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