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第七話 花火の末路

いつもお読みいただきありがとうございます。


第七話は、吉原という場所の残酷さと優しさ、その両方を書いた回です。


人は上り坂より、下り坂の方が早い。


それは遊女だけではなく、誰の人生にもあることかもしれません。


かつて頂点にいた女が落ちていく姿を通して、薄雲が何を見て、何を思うのか。


どうぞ最後までお付き合いください。

夏の盛り、両国の川開きの噂が、廓の中にも流れてきた。


大川に舟を浮かべ、夜空に花火を打ち上げる。玉屋と鍵屋が腕を競い、何万という人が川端に押し寄せる。吉原の女たちには見ることの叶わぬ祭りだった。塀の中にいる限り、花火は音だけのものだった。遠い夜空のどこかで、どん、と腹に響く音がして、それきりだった。光は、塀が隠した。


その音を、薄雲は自分の部屋の窓辺で聞いていた。


格子の向こうに、四角い夜空があった。星がいくつか、にじんで見えた。打ち上げの音がするたびに、薄雲は目を上げた。しかし光は見えなかった。音だけが、塀を越えて落ちてきた。


花火というものを、薄雲は一度も間近で見たことがなかった。


売られてくる前、村にいた頃にも、花火などというものはなかった。江戸に来てからは、この塀の中だった。だから薄雲にとって花火は、ずっと、音だけのものだった。光を伴わない、遠い破裂音だけのものだった。


きれいなものなのだろう、と思った。


あれほど多くの人が、わざわざ川端まで見にいくのだから。一瞬で消えるのだろう、とも思った。


打ち上がって、開いて、消える。その短さゆえに、人は惜しんで見るのだろう、と。


窓辺で、薄雲は煙管をくゆらせた。


その時、廊下を駆けてくる足音がした。軽い、跳ねるような足音だった。襖の外で止まった。


「薄雲さん、薄雲さん」

桃亭扇次郎の声だった。



扇次郎は、吉原で一番の幇間だった。


座敷に呼ばれれば、たちまち空気を変えた。固くなった客を笑わせ、座が湿れば歌を放り込み、間が空けば軽口で埋めた。歯切れのいい江戸弁で、誰のことも傷つけずに笑いを取った。粋という言葉が着物を着て歩いているような男だった。


その扇次郎が、襖を細く開けて、顔だけを覗かせた。


いつもの剽軽な顔ではなかった。

「ちょいと、いいですかい」

「お入り」


扇次郎は部屋に滑り込むと、後ろ手に襖を閉めた。声をひそめた。廊下に聞こえることを警戒する声だった。


「花扇さんが、いけねえ」

薄雲は煙管を置いた。

「とうとう、最後の旦那が離れた。日本橋の呉服屋の。あの人が最後の綱でしたからね。それが今朝がた、別の見世の若い妓に鞍替えしたって話で」

「そうかえ」

「お冬さんが、もう動いてやす。今日明日にも、花扇さんは局へ移されるって話で」

局。


その言葉が、夏の宵の中に、ひやりと落ちた。


局とは、廓のいちばん奥にある、狭く暗い部屋だった。格を落とした遊女、病んだ遊女、もはや高い金を取れなくなった遊女が、最後に行き着く場所だった。日の差さぬ部屋で、安い客を取らされ、やがて消えていく。吉原の底だった。


「あれだけ羽振りのよかった人が、ねえ」


扇次郎は、ため息をついた。軽口を叩く男が、その時ばかりは黙った。


「花火と同じでさ。ぱあっと上がって、ぱあっと開いて、後には煙だけが残る。あっしらは、その煙を吸って暮らしてるようなもんで」

薄雲は、何も言わなかった。


花扇という名を聞くたびに、胸の奥に古い傷が疼いた。禿だった頃、薄雲を物置に閉じ込めたのは花扇だった。稽古の三味線を隠したのも、廊下で足を引っかけたのも、女中をけしかけて飯を抜かせたのも、花扇だった。十年以上も前のことだった。今でも、雪の夜の物置の冷たさを、薄雲は覚えていた。


その花扇が、落ちる。

「教えてくれて、礼を言いんす」

薄雲が言うと、扇次郎は首を振った。

「いや。あっしはただ……薄雲さんには、早めに知らせておいたほうがいいと思っただけで」


なぜそう思ったのか、扇次郎自身もうまく言えなかった。ただ、この見世で起きることを、薄雲はいつも誰よりも早く知っておくべきだという気がした。それが、扇次郎なりの、この花魁への礼の尽くし方だった。


扇次郎が出ていった後、薄雲は窓辺に戻った。


また、花火の音がした。どん、と遠くで鳴った。光は、見えなかった。


花扇のことを、薄雲は思い返していた。


まだ雫と呼ばれていた頃のことだった。八つで売られてきて、右も左もわからぬまま禿になった。あの頃の扇松楼で、誰よりも輝いていたのが花扇だった。豪華な打掛をまとい、花魁道中の先頭を歩き、客がこぞって名を呼んだ。幼い雫は、その姿を、廊下の隅から見上げていた。きれいな人だ、と思った。あんなふうになりたい、と思った。


しかし、その花扇が、雫に向ける目は、冷たかった。


善兵衛が雫に読み書きを教え、朝霧が三味線を仕込み始めると、花扇の目は、ますます険しくなった。あの子は楼主に贔屓されている。あの子は朝霧に目をかけられている。その妬みが、いじめになった。


稽古用の三味線が、ある朝、撥が折られていた。


覚えたばかりの舞の型を、廊下で披露しようとすると、足を引っかけられて転んだ。足を出したのは、花扇付きの禿たちだった。花扇の機嫌を取るように、姉貴分の妬みをそのままなぞって、幼い雫に冷たく当たった。三人ほどいた。雫より二つ三つ年上で、いつも花扇の後ろをついて歩いていた子たちだった。


いちばん辛かったのは、物置だった。雪の降る夜、花扇は雫を物置に閉じ込めた。鍵をかけたのは、あの禿たちだった。花扇に言いつけられ、くすくす笑いながら、外から心張り棒をかった。朝まで出さなかった。板敷きの床は凍るように冷たく、隙間風が雪を運んできた。雫は、膝を抱えて、夜を越えた。誰も来なかった。あの夜の寒さを、薄雲は、今でも体が覚えていた。後に小春を救ったのも、あの夜があったからだった。誰も来なかった夜を知っているから、来てやれた。


花扇は、薄雲を憎んでいた。


それは、間違いのないことだった。


だが、それだけではないことも、薄雲は知っていた。


花扇が、自分の禿たちには、別の顔を見せていたことを。夜更けまで三味線を見てやり、廓言葉の訛りを直し、客あしらいを叩き込んでいたことを。叱る声は厳しかったが、その厳しさの底に、たしかに、この子たちを生かそうという執念があったことを。薄雲は、廊下の陰から、何度もそれを見ていた。


雫をいじめた、あの禿たちだった。花扇に育てられ、花扇に従い、花扇の妬みをなぞって雫を踏んだ子たち。その子たちも、今ではみな、一人前の遊女になっていた。花扇に仕込まれた芸で、客を取り、座敷に出ている。育てた者と、育てられた者。憎んだ者と、憎まれた者。廓の縁は、そう簡単には切れない。


人は、ひとつの顔だけでは、できていない。


誰かを物置に閉じ込める手が、別の誰かの稽古を、夜通し見てやることもある。それが、薄雲が長い廓の暮らしで学んだことだった。善人も、悪人も、いなかった。ただ、事情を抱えた人間が、いるだけだった。



翌日、花扇は局へ移された。


荷物は少なかった。かつては簞笥に収まりきらぬほどの着物を持っていた女が、風呂敷ひとつにまとめられる程度のものしか、もう持っていなかった。良い着物は、借金の形にあらかた取り上げられていた。残ったのは、色のあせた小袖が数枚と、櫛が一枚きりだった。


下働きの男が荷を運んだ。


花扇は、その後ろをついて歩いた。階段を降り、廊下を進み、廓の奥へ向かった。すれ違う遊女たちが、目を伏せた。誰も声をかけなかった。落ちていく者に声をかければ、自分にも不運が移る——そんな迷信が、廓にはあった。あるいは、ただ、かける言葉がなかったのかもしれなかった。


花扇は、俯いて歩いた。


化粧はしていなかった。素顔だった。痩せて、頬がこけて、目元に深い皺が刻まれていた。かつて扇松楼で一番の売れっ妓と呼ばれた面影は、もうどこにもなかった。ただ、年老いた一人の女が、廓の底へ沈んでいくだけだった。


局の部屋は、暗かった。


窓は小さく、格子が嵌まり、日はほとんど差さなかった。畳は古び、隅に湿った匂いが溜まっていた。布団が一組、たたんで置かれていた。それだけの部屋だった。


花扇は、その部屋に入った。


風呂敷を置き、座った。下働きの男が出ていくと、戸が閉まった。薄暗い部屋に、花扇は一人になった。


膝の上に、櫛を一枚、置いた。


黄楊の櫛だった。歯が一本、欠けていた。かつて、馴染みの客が買ってくれたものだった。あの頃は、簞笥に三十も四十も、櫛や簪が並んでいた。客が競って贈ってくれた。今は、この欠けた櫛が一枚、残っているだけだった。


花扇は、その櫛を、指でなぞった。


どこで間違えたのだろう、と思った。


気が強すぎたのか。客に媚びなかったのか。若い妓に厳しすぎたのか。考えても、わからなかった。ただ、気づいた時には、客が一人、また一人と離れていき、座敷が減り、部屋が狭くなり、そして今、この暗い局にいた。落ちる時は、あっという間だった。上がるのには、何年もかかったのに。


外では、まだ夏の光が満ちていた。


しかしその光は、この部屋には届かなかった。



花扇が局へ落ちたという話は、その日のうちに廓中に広まった。


遊女たちは、ひそひそと噂した。


あれだけ威張っていた人が。気の強さで知られた人が。とうとう局か、と。同情する声もあった。


明日は我が身だと、声を落とす者もいた。しかし多くは、どこか冷ややかだった。花扇は、人に好かれる女ではなかった。気位が高く、舌が鋭く、若い妓には特に厳しかった。その花扇が落ちたことを、胸の内で、ひそかに溜飲を下げる者もいた。


その昼、薄雲は、廊下で福松と行き合った。


柳家福松。年季の入った幇間だった。扇次郎が座敷の空気を一瞬で変える天才なら、福松は、廓全体の空気を、長い時間をかけて整える老木のような男だった。客にも遊女にも、等しく丁寧だった。声を荒らげることもなく、ただ穏やかに、何十年も廓に立ち続けてきた。


福松は、薄雲を見ると、軽く頭を下げた。それから、ぽつりと言った。


「花扇さんも、とうとうでございますか」

「聞きんしたか」

「この歳になりますとね、薄雲さん。何人もの女子が、ああして奥へ消えていくのを、見送ってまいりました。皆、初めは華やかなものでございましたよ。花扇さんも、それはそれは、見事な道中を踏みなすった」

福松は、遠くを見るような目をした。

「ですがね、廓ってえのは、薄情なもんで。上がる時は皆が持ち上げる。落ちる時は、皆が目をそらす。あたしのような者は、その両方を、ただ見ているしかございません」

「福松さんは、目をそらしんせんな」

「あたしは、もう、落ちようがございませんからね」

福松は、皺の寄った顔で、少しだけ笑った。

「持ち上げられたことのない者は、落ちることもない。気楽なもんでございますよ」

そう言って、福松は、廊下を去っていった。


その背中を、薄雲は見送った。風雪に耐えて立ち続ける、老いた松のような背中だった。あの男は、花扇の栄華も、転落も、その目で全部見てきたのだろう、と薄雲は思った。そして、何も言わずに、ただ、整え続けてきたのだろう。廓という、人が燃え尽きていく場所の空気を。


その夜、薄雲は局のほうへ向かった。


誰にも言わずに、一人で。


廊下を奥へ進むと、空気が変わった。華やかな表の座敷からは想像もつかぬ、湿った闇が、奥には澱んでいた。灯りも乏しかった。薄雲は、足音を忍ばせて進んだ。


花扇の部屋の手前まで来た時だった。


声が、聞こえた。


若い女たちの声だった。三人ほどいるようだった。かつて花扇付きの禿で、今は座敷に出ている遊女たちだった。幼い雫を物置に閉じ込め、足を引っかけ、さんざん泣かせた、あの三人だった。


局へ移った花扇を、見舞いに来たらしかった。部屋の戸は細く開いていて、中から灯りが漏れていた。


薄雲は、足を止めた。


女たちの声は、最初は神妙だった。

「花扇ねぇさん、お加減はいかがでありんすか」

「こんなところに移されて……おいたわしいことでありんす」

「あちきたち、ねぇさんのこと、忘れてはおりんせん」

殊勝な言葉だった。


しかし、薄雲は動かなかった。なぜか、その場を離れられなかった。


やがて女たちが、部屋を出てきた。薄雲は、廊下の暗がりに身を寄せて、影に隠れた。女たちは薄雲に気づかず、廊下を戻っていった。そして、花扇の部屋から十分に離れたと思った頃——その声が、変わった。


「ああ、肩が凝った。あんな辛気くさい部屋、長くいられんせんわ」

「ほんに。あの人、昔はあんなに威張っていたのに。いい気味でありんす」

くすくすと、笑い声が混じった。

「さんざん、あちきたちのこと、こき使って。三味線がなっとらん、舞がなっとらんって。今度はあの人が、安い客に頭を下げる番でありんすえ」

「自業自得でありんす」

「もう二度と、来ることはありんせんわ」


女たちは、笑いながら、廊下の角を曲がっていった。


その笑い声が、消えた。


廊下に、静寂が戻った。


薄雲は、暗がりの中に立っていた。



薄雲の足が、動いた。


女たちの後を追ったのではなかった。気づいた時には、薄雲は廊下の角を曲がり、戻ってくる女たちの前に、立ちふさがっていた。


女たちが、ぎょっとして足を止めた。


暗い廊下に、薄雲が立っていた。豪華な打掛も着ていない、座敷帰りの薄い着物のままだった。しかし、その姿には、抗いがたい何かがあった。女たちは、息を呑んだ。


「薄雲、ねぇさん……」

薄雲は、何も言わなかった。


ただ、三人の女を、順に見た。一人ずつ、目を合わせた。女たちは、その目に射すくめられて、動けなくなった。


「今、何と言いんした」

薄雲の声は、低かった。


怒鳴ってはいなかった。荒らげてもいなかった。しかし、その声には、刃のような冷たさがあった。座敷で客に向ける、あの柔らかな声とは、まるで別のものだった。


女たちは、俯いた。答えられなかった。

「いい気味だと。自業自得だと。そう言いんしたな」

「……」

「もう二度と来ない、と」

薄雲は、一歩、前に出た。


女たちは、一歩、下がった。

「お前たちは、誰に廓言葉を仕込まれた」

女たちが、顔を上げた。

「誰に、三味線の持ち方を教わった。誰に、客の前での座り方を教わった。誰に、初めての座敷の前夜、眠れぬ夜を、そばにいてもらった」


女たちは、答えなかった。答えは、わかっていた。


「花扇さんでありんしょう」

薄雲が、言った。

「あの人は、口は悪い。気も強い。お前たちを、厳しく叱った。三味線がなっとらん、舞がなっとらんと。それは本当でありんす。あちきも、昔、あの人に、ずいぶんと辛く当たられんした。お前たちにも、な」

薄雲の声が、ほんの少し、揺れた。


女たちの肩が、強張った。十年以上も前、物置の心張り棒をかった手のことを、思い出したのかもしれなかった。薄雲は、それ以上は言わなかった。


「でもな」

薄雲は、女たちを見た。

「あの人ほど、お前たちの稽古を、夜中まで見てやった人が、ほかにいんしたか。あの人ほど、お前たちが客に恥をかかぬよう、口を酸っぱくして仕込んだ人が、ほかにいんしたか。叱るのは、どうでもいい相手には、しないものでありんす。あの人は、お前たちを、一人前にしたかった。この廓で、生きていけるように。それだけは——本当のことでありんす」

女たちは、俯いたまま、動かなかった。


一人の女の肩が、小さく震え始めた。

「落ちていく人を、後ろから蹴るのは、たやすいことでありんす」

薄雲の声は、もう、刃ではなかった。

「誰にでもできる。賢くなくても、強くなくても、できる。けれど、それをした分だけ、お前たちもいつか、同じことをされんす。吉原は、そういう場所でありんす。お前たちが今日、花扇さんにしたことは、いつか、お前たちが落ちた日に、若い妓がお前たちにすることでありんす」

女たちは、声もなく、立ち尽くしていた。

「行きなんし」

薄雲が、静かに言った。

「そして、覚えておきなんし。今日のことを」


女たちは、深く頭を下げて、逃げるように廊下を去っていった。


その足音が、消えた。


薄雲は、しばらく、廊下に立っていた。


叱りながら、薄雲は、あの女たちを憎めなかった。落ちた者を蔑むのは、幼さゆえだった。まだ、自分が落ちる日のことを、知らないからだった。誰でも、若い頃は、自分だけは落ちないと思っている。薄雲も、かつてはそうだった。お糸が足抜けに失敗して空っぽの目になった時も、お梅が局


へ消えた時も、心のどこかで、自分は違うと思っていた。その傲りが、いつか自分にも返ってくることを、薄雲は今、少しずつ感じ始めていた。


だから、あの子たちを叱ったのは、花扇のためだけではなかった。


いつか落ちる、すべての者のためだった。自分自身のためでも、あったのかもしれなかった。



その一部始終を、聞いていた者がいた。


花扇だった。


薄暗い局の部屋の中で、花扇は布団の上に座っていた。戸は細く開いたままだった。廊下の声は、すべて、その隙間から、部屋の奥まで届いていた。


女たちの陰口も。


そして、薄雲の言葉も。


花扇は、動かなかった。


膝の上に置いた手が、握りしめられていた。骨の浮いた、痩せた手だった。爪に、かつての紅の名残が、わずかに残っていた。その手が、震えていた。


あの背中を見て、あちきは廓の歩き方を覚えんした——いつか、廊下で、薄雲がそう言ったことを、花扇は覚えていた。あの時は、綺麗事だと思った。出世した女の、余裕のある皮肉だと思った。


しかし、今の言葉は、違った。


誰も聞いていないと思っていた廊下で、薄雲は、花扇を庇った。自分をいじめた女を。物置に閉じ込めた女を。十年以上も恨まれて当然の女を。その女のために、薄雲は、若い女たちを叱った。


なぜ。


花扇には、わからなかった。


わからないまま、涙が、こぼれた。


声を、上げなかった。上げられなかった。長い廓の暮らしで、花扇は、泣き声を殺す癖が、身についていた。だから、声もなく、ただ涙だけが、頬を伝った。痩せた頬を、いくつもいくつも、伝い落ちた。


膝の上の、握りしめた手に、涙が落ちた。


ぽつり、ぽつりと。


花扇は、礼を言いたかった。


戸を開けて、廊下に出て、薄雲に、何か言いたかった。すまなかった、と。ありがとう、と。たった一言でいいから、言いたかった。


しかし、できなかった。


体が、動かなかった。十年以上、憎み続けた相手だった。意地を張り続けた相手だった。その相手の前に、今さら、どんな顔で出ていけばいいのか、わからなかった。


だから、花扇は、ただ、座っていた。


声を殺して、泣きながら。



廊下の薄雲も、動かなかった。


戸の細く開いた、その隙間の向こうに、花扇がいることを、薄雲は知っていた。自分の言葉が、すべて、あの部屋の奥まで届いていることも、わかっていた。


知っていて、薄雲は、戸を開けなかった。


花扇に、声をかけなかった。


かつて自分を苦しめた女が、今、闇の中で泣いている。それを、薄雲は知っていた。けれど、戸を開ければ、花扇に、惨めな姿を見られたという、もうひとつの傷を負わせることになる。落ちた女の矜持。最後に残った、わずかな矜持。それを、薄雲は、奪いたくなかった。


だから、薄雲は、何も言わなかった。


ただ、廊下に立っていた。


戸の向こうで、押し殺した嗚咽が、かすかに聞こえた。それを、薄雲は、聞いていた。


薄雲の頬にも、涙が伝った。


なぜ泣いているのか、薄雲自身も、よくわからなかった。花扇を憐れんでいるのか。十年前の自分を思い出しているのか。それとも、人がこうして落ちていく、この場所そのものを、悲しんでいるのか。わからなかった。ただ、涙が、流れた。


二人の女が、一枚の戸を隔てて、泣いていた。


言葉を、交わさなかった。


礼も、詫びも、なかった。


ただ、涙だけが、闇の中に、静かに落ちていった。



しばらくして、薄雲は、踵を返した。


来た廊下を、戻っていった。


足音を忍ばせて。花扇に、自分がそこにいたことを、気づかせぬように。


表の座敷のほうから、三味線の音が、かすかに流れてきた。客の笑い声がした。下駄の音がした。廓は、何事もなかったように、今夜も回っていた。一人の女が局へ落ちようと、廓の灯は、変わらず燃えていた。


薄雲は、自分の部屋へ戻った。


窓辺に座り、格子の向こうの夜空を見た。


また、花火の音がした。


遠く、どん、と。


川開きの花火は、まだ続いていた。何万の人が、川端で、夜空を見上げているのだろう。打ち上がり、開き、消えていく光を。一瞬の華やぎを。


花扇も、花火だった、と薄雲は思った。


ぱあっと上がって、ぱあっと開いて、誰よりも明るく夜空を焦がして。そして、消えた。後には、煙だけが残った。誰も、その煙を、覚えていない。


しかし、と薄雲は思った。


あちきは、覚えておく。


花扇という女がいたことを。気が強く、口が悪く、若い妓を厳しく叱り、それでいて、誰よりも夜中まで稽古を見てやった女がいたことを。物置の冷たさを教えた女が、同じ手で、たくさんの禿を一人前にした女でもあったことを。


その名を、薄雲は、忘れない。


吉原は、消えた者の名を、すぐに忘れる。半年もすれば、花扇という名を口にする者は、いなくなるだろう。別の遊女が、花扇のいた座敷に座り、別の禿が、別の女に仕込まれていく。世界は、回り続ける。


それでも、誰か一人くらいは、覚えていてもいい。


薄雲は、そう思った。


窓の外で、また、花火が鳴った。


光は、見えなかった。塀が、隠していた。


しかし薄雲は、その音の向こうに、確かに、消えていく光を見た気がした。一瞬、夜空を焦がして、惜しまれもせずに消えていく、無数の光を。


煙管の火が、いつのまにか、消えていた。


薄雲は、それに火をつけ直さなかった。


ただ、暗い窓辺に座って、遠い花火の音を、最後まで聞いていた。


——第七話 了


第七話「花火の末路」をお読みいただきありがとうございました。


今回の話で描きたかったのは、「許し」ではありません。


薄雲は花扇を許したわけではないと思います。


雪の夜に物置へ閉じ込められた記憶は消えていません。


それでもなお、落ちていく者を蹴らなかった。


その姿に、人としての強さがあるのではないかと思いました。


また、花扇も単なる悪役ではありません。


誰かを傷つけた人間が、別の誰かを育てていた。


人は善人か悪人かで割り切れるものではなく、いくつもの矛盾を抱えながら生きている。


そんな思いを込めて書きました。


そして題名の「花火の末路」。


花火は消えます。


けれど、その光を覚えている人が一人でもいるなら、完全には消えないのかもしれません。


次回もよろしくお願いいたします。

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