第八話 花の盛り
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第八話『花の盛り』をお届けいたします。
仲之町に咲く桜は、根のない桜です。
咲くためだけに運ばれ、
散れば引き抜かれていく。
その姿は、どこか吉原で生きる遊女たちにも似ています。
今回の物語は、そんな桜が咲き誇る春の吉原から始まります。
薄雲と春霞。
扇松楼の二輪の花が、
最も美しく咲いている時。
どうぞ最後までお付き合いください。
仲之町の桜が、その年も咲いた。
吉原の桜は、根のない桜だった。春が近づくと、植木屋が山から切り出した桜を大路の真ん中に植え込み、花の盛りが過ぎれば、また引き抜いて運び去った。一年のうち、ほんの十日ばかりのために運ばれてくる桜だった。根を張ることを許されず、咲くためだけにそこに立たされ、散れば捨てられる。
誰も、その桜の素性を問わなかった。どこの山で育ったのかも、引き抜かれた後どこへ運ばれるのかも。客は、ただ、今を盛りと咲く花を見て、酒を飲み、女を買い、帰っていった。花が美しいうちは、誰もが足を止めた。花が散れば、誰も見向きもしなかった。
遊女も、同じだった。
どこで生まれたのかを、客は問わなかった。年季が明けた後どうなるのかも、誰も気にしなかった。咲いているうちだけ、もてはやされた。それが、吉原だった。根のない花が、咲くためだけに集められる場所だった。
その桜の下を、二人の花魁が往く。
薄雲と春霞。扇松楼の二枚看板。今や吉原で、この二人の名を知らぬ者はいなかった。
花魁道中の夜だった。
先を行くのが薄雲だった。黒地に金糸で雲を織り出した打掛をまとい、高く結い上げた髪には、鼈甲の櫛と簪が幾本も挿してあった。三枚歯の高下駄で、外八文字を踏む。右へ、左へ、ゆっくりと弧を描きながら、一歩ずつ進んでいく。その所作には、急ぐ気配が微塵もなかった。見る者すべてを待たせ、見る者すべてに見させる歩みだった。
提灯の灯が、道の両側にどこまでも連なっていた。
夜気には、いくつもの匂いが混じっていた。女たちの白粉と鬢付け油の甘い匂い。茶屋から流れる酒と料理の匂い。仲之町に植えられた桜の、かすかに青い花の匂い。そして、その下に沈む、お歯黒溝のよどんだ水の匂い。華やかさと、その裏側の匂いが、ひとつの夜気の中に溶け合っていた。
沿道は、人で埋まっていた。薄雲の顔をひと目見ようと、商人も、職人も、刀を差した侍までもが、首を伸ばしていた。薄雲が一歩進むたびに、ため息のようなどよめきが波のように広がった。
誰かが小さく名を呼んだ。薄雲は、誰の顔も見なかった。視線は前方の一点に置かれ、まばたきさえ計算されているようだった。
高下駄が、敷石を打つ音がした。
からり、ころりと、乾いた音が、夜の大路に響いた。その音の間合いだけで、見る者は、薄雲の格を知った。急がず、たわまず、一打ちごとに、見る者の呼吸を奪っていく音だった。打掛の裾が、一歩ごとに、重たげに揺れた。何貫もある衣装を着こなして、なお軽やかに見せるのが、呼出し花魁の道中だった。
その少し後ろを、春霞が続いた。
薄雲が夜の静けさをまとった月だとすれば、春霞は、ほのかに色づいた春の霞だった。薄紅の打掛に、若草色の帯。歩みのひとつひとつに、薄雲にはない柔らかさがあった。沿道の客と、ふと目が合うと、春霞はわずかに微笑んだ。それだけで、見ていた者の頬が、ゆるんだ。
冷たい美の薄雲と、温かい美の春霞。
対照的な二人が並んで歩く姿は、吉原のどんな趣向よりも、人の目を惹いた。
道中の最後尾を、幇間の桃亭扇次郎が、軽い足取りでついて歩いていた。
扇次郎は、沿道の客に向かって、調子よく声を放っていた。
「さあさ、ご覧じろ。扇松楼の二輪の花。月と霞でございます。月は欠けても、また満ちる。霞は晴れても、また立ちこめる。江戸広しといえど、こんな眺めは、ここにしかございませんよ」
べらんめえ調の、歯切れのいい口上だった。
客たちが笑い、財布の紐が緩んだ。扇次郎は、誰よりも早く座敷の空気を読み、誰よりも巧みに客を乗せた。しかしその軽口の裏で、扇次郎の目だけは、ずっと、先頭を歩く薄雲の背中を追っていた。
*
道中が終わり、二人は座敷へ戻った。
その夜、薄雲の座敷には、文左衛門がいた。
住吉屋文左衛門。あの桜の夜に、薄雲に身請けを断られ、「似ているな」とだけ呟いて去った男だった。それから季節がいくつか巡っても、文左衛門は、変わらず薄雲のもとへ通い続けていた。
文左衛門は、いつものように、海の話をした。
近頃、長崎から運ばせた船が、嵐に遭って三日も漂流したこと。それでも水主が一人も欠けずに戻ってきたこと。積荷の半分は失ったが、人が戻ったのだから上等だと思ったこと。文左衛門は、損の話をしながら、どこか嬉しそうだった。
「人さえ戻れば、船はまた造れる。荷はまた積める」
文左衛門は、盃を置いて言った。
「失って初めて、何が大事だったかがわかる。商いも、人も、同じでございますな」
薄雲は、酌をする手を、ほんの少し、止めた。
失って初めて、何が大事だったかがわかる——その言葉が、胸の奥の、柔らかいところに触れた。薄雲は、これまで、たくさんのものを失ってきた。故郷を。母を。自分の名前を。失うたびに、その大切さを知った。だが、それを口にする相手は、いなかった。客に語る話ではなかった。
「旦那さまは、お変わりありんせんなあ」
薄雲は、酌を続けながら、微笑んだ。気持ちを、いつもの場所へ戻して。
「いつも、人の話ばかりなさいんす。荷の話より、水主の話。儲けの話より、生きて戻った話。住吉屋ほどの大店の御主人が、損を喜ぶようでは、番頭さんが困りんしょう」
「困っておりますよ、ずいぶんと」
文左衛門は笑った。それから、ふと、笑いを収めた。
文左衛門は、亡くした妻のことを、めったに口にしなかった。しかし薄雲は、この男が、何か大きなものを失った目をしていることを、早くから感じていた。失って初めて大事さがわかる、と語るこの男の言葉には、重みがあった。語らずとも滲むものが、あった。だから薄雲は、文左衛門の海の話を、いつも、静かに聞いていた。客あしらいではなく、ただ、聞いていたい話だった。
火鉢の炭が、爆ぜた。
薄雲は、その変化を、すぐに察した。長く客を見てきた目だった。男が、これから何を言おうとしているのか、口をひらく前から、わかっていた。
「薄雲さん」
文左衛門の声が、低くなった。
「もう一度、訊かせてください」
薄雲は、酌の手を止めなかった。盃を満たし、静かに差し出した。何も聞こえなかったかのように。しかし文左衛門は、その盃を受け取らなかった。
「あんたを、迎えたい。この前と、同じ気持ちです。いや、あれから通うほどに、その気持ちは深くなった」
座敷が、静かになった。
遠くから、三味線の音が聞こえた。誰かの座敷の、賑やかな音だった。しかしこの部屋だけは、別の時間が流れていた。
薄雲は、差し出していた盃を、静かに引いた。
そして、目を伏せた。あの桜の夜と、同じ角度で。
「文左衛門さま」
声は、変わらず澄んでいた。
「前にも、申しんした。わちきのような、泥に染まった廓の女が、旦那さまの暖簾に泥を塗るわけには、まいりんせん」
「その言葉は、聞きました」
文左衛門は、薄雲の目を、まっすぐに見た。
「聞きましたが、信じてはおりません」
薄雲の睫毛が、わずかに動いた。
「あんたは、頭のいい人だ。だから、いちばん相手が引き下がりやすい言葉を選ぶ。泥に染まった女、と自分を下げれば、こちらは何も言い返せない。あんたを口説こうとすれば、あんたの誇りを傷つけることになる。だから、男は引く。よくできた断り方です」
文左衛門は、静かに続けた。
「ですが、薄雲さん。あんたは、ほんとうは、そんなふうに自分を泥だなんて思っちゃいない。あんたは、誰よりも自分の値打ちを知っている人だ。知っていて、それでも、あえて自分を下げてみせる。なぜです。なぜ、よその誰でもなく、私にだけ、そういう断り方をなさる」
薄雲は、答えなかった。
文左衛門の言葉は、的を射ていた。射すぎていた。薄雲が四人の男に使い分けた断り方の、その最後の一枚——自分を差し出す断り方を、文左衛門だけが、見抜いていた。
しかし薄雲は、顔色ひとつ変えなかった。
「買いかぶりでありんす」
薄雲は、わずかに微笑んだ。
「わちきは、旦那さまが思うほど、立派な女ではありんせん。ただの、廓の女でありんす。深い意味など、ありんせん」
「そうですか」
文左衛門は、それ以上、追わなかった。
追えば、薄雲を追い詰めることになると、わかっていた。男は、引き際を知っていた。妻を看取った男だった。人の心に、踏み込んでいい場所と、踏み込んではいけない場所があることを、骨身で知っていた。
「では、また来ます」
文左衛門は、立ち上がった。
「何度でも来ます。あんたが頷くまで、ではない。あんたが、ほんとうのことを話してくれるまで、です」
その背中が、襖の向こうへ消えた。
薄雲は、一人になった座敷で、引いたままの盃を、じっと見ていた。
盃の酒に、行灯の灯が、小さく映っていた。
文左衛門の言葉が、耳に残っていた。あんたは、ほんとうのことを話してくれるまで来る、と。この男は、いつか、本当の理由に辿り着くかもしれない。そんな気が、薄雲にはした。これまでの誰とも違う目をした男だった。だが、それでも、薄雲は話すつもりはなかった。話せば、小春に伝わる。小春に伝われば、あの子は、自分を縛る。あちきのために、自分の幸せを捨てる。それだけは、させたくなかった。
薄雲は、盃の酒を、ひと息に飲み干した。
喉を、酒が下りていった。その熱さの奥で、薄雲は、近頃の右手のことを、ふと思った。冷えるだけだと、小春には言った。歳だと、笑ってみせた。だが、本当は、わかっていた。あれは、冷えではない。歳でもない。何かが、身体の奥で、静かに、始まっている。花扇のことを思った夜から、ずっと感じていた予感が、少しずつ、形を持ち始めていた。いつか自分も落ちる、という予感が。
薄雲は、その思いを、酒と一緒に、呑み込んだ。
今は、まだ、考えない。考えても、仕方がない。花の盛りは、まだ続いている。続いているうちは、咲くだけだった。
*
次の間で、その一部始終を、春霞が聞いていた。
あの桜の夜から、ずっと気になっていた。なぜ、ねぇさんは、あの旦那にだけ、自分を泥だと言うのだろう。ほかの男には、決して使わなかった言葉を。
今夜、文左衛門は、その問いを、ねぇさん本人にぶつけた。
そして、ねぇさんは、答えなかった。
春霞には、わかった。答えなかったということは、文左衛門の言葉が、当たっていたということだ。買いかぶりだと躱したけれど、あれは図星を隠す時の、ねぇさんの顔だった。長い年月、そばで見てきた春霞には、わかった。
ねぇさんには、誰にも言えない理由がある。
その理由を、ねぇさんは、抱えたまま、笑っている。
春霞は、襖の隙間から、座敷に一人で座る薄雲を見た。盃を見つめたまま、動かないねぇさんを。その背中が、ふいに、遠く見えた。すぐそこにいるのに、手の届かない場所にいるように見えた。
いつか、と春霞は思った。
いつか、ねぇさんが、その理由を話してくれる日が来るだろうか。あちきに、本当のことを。
春霞は、まだ知らなかった。
その理由が、ほかでもない、自分自身であることを。
*
夏が過ぎ、秋が来た。
二人の評判は、いよいよ高まっていた。薄雲を呼ぶには、何ヶ月も前から約束を入れねばならなかった。春霞の座敷も、連日埋まった。扇松楼は、かつてないほど潤った。善兵衛は目を細め、お冬は帳面を繰る手を止めなかった。
その頃、二人きりの夜が、めっきり減っていた。
かつては、座敷が終わると、白粉を落とし、二人で向かい合って、その日のことを話した。だが今は、薄雲も春霞も、連日連夜、座敷に呼ばれ続けた。二人の刻が合う夜は、ひと月に数えるほどになっていた。
ある夜、久しぶりに、その刻が訪れた。
春霞が薄雲の部屋を訪ねると、薄雲は、行灯のそばで、右手を、左手でそっと包んでいた。
春霞が入ってきた気配に、薄雲は、すっと手を離した。何事もなかったように。
「ねぇさん」
「来たかえ」
薄雲は、いつもの顔で、微笑んだ。
「お手が、どうかなさいんしたか」
春霞は、できるだけ、何気なく聞いた。
「なんでもありんせん」
薄雲は、軽く答えた。
「近頃、少し、冷えるようになっただけでありんす。歳でありんすかなあ」
そう言って、薄雲は笑った。冗談めかして。まだ二十三の女が、歳だと笑うのは、おかしかった。
春霞も、合わせて笑った。
しかし、その夜、春霞は、見てしまった。
薄雲が、湯呑みを取ろうとした時。右手の指が、湯呑みの縁で、わずかに、こわばったのを。一瞬、握り損ねて、薄雲が、左手を添えたのを。
春霞は、何も言わなかった。
言えば、ねぇさんは、また「なんでもありんせん」と笑うだろう。だから、言わなかった。ただ、胸の奥に、小さな棘のようなものが、刺さった。その棘は、夜が更けても、抜けなかった。
その秋の夜、扇松楼で、大きな宴が催された。
馴染みの大店の主たちが、幾人も招かれた。座敷は華やかに飾られ、料理が並び、酒が注がれた。宴の趣向の目玉は、薄雲の舞だった。
薄雲が舞うのは、めったにないことだった。
三味線も舞も吉原で指折りの腕を持ちながら、薄雲は、そうそう人前では舞わなかった。だからこそ、薄雲が舞うと聞けば、客は競って集まった。その夜の座敷も、薄雲の舞ひとつのために、普段の何倍もの花代が動いていた。
座敷の中央に、薄雲が進み出た。
深紅の打掛だった。金の刺繡が、灯火を受けて、燃えるように輝いた。髪の簪が、ゆれて、小さく光った。薄雲が扇を手に取り、すっと背筋を伸ばすと、座敷のざわめきが、潮が引くように静まった。
地方の三味線が、鳴り始めた。
弾くのは、朝霧だった。
廓一の三味線の腕を持つ朝霧が、その夜だけは、薄雲のために撥を取っていた。かつて綾乃に三味線と舞を教えた師が、教え子の舞に、音を添えていた。朝霧は、何も言わなかった。ただ、最初の一音を、放った。
薄雲が、舞い始めた。
扇が、宙に弧を描いた。袖が翻り、裾が流れた。薄雲の身体は、音のひとつひとつに、寸分の狂いもなく応えていた。指の先まで、神経が通っていた。客たちは、息をするのも忘れて、見入った。
美しかった。
ただ、美しかった。
深紅の打掛が、灯火の中で、生き物のように翻った。薄雲という女の、これまでの生涯のすべてが、その舞の中に込められているようだった。売られてきた雪の日も、物置の冷たさも、孤独な夜も、すべてを呑み込んで、それでも咲き誇る、一輪の花のような舞だった。
燃えているようだ、と誰かが思った。
燃えすぎているのではないか、と。
あまりに見事な舞は、どこか、見る者を不安にさせた。花火が、消える前に、いちばん明るく燃えるように。
舞は、佳境に入った。
扇が、ひときわ高く、舞い上がった。
その時だった。
薄雲の右手が、止まった。
ほんの、一瞬だった。
高く掲げた扇を、次の型へと流すはずの右手が、宙で、わずかに止まった。指が、扇の要を、握り直すように、かすかに震えた。まるで、力が、一瞬だけ、抜けたように。
その一瞬、時が、止まったようだった。
三味線の音も、客のざわめきも、灯火の揺らぎも、すべてが遠のいた。薄雲には、自分の右手だけが、見えていた。言うことをきかない、自分の指だけが。胸の奥が、すっと冷えた。来た、と思った。とうとう、座敷で。いちばん見られている、この夜に。
すぐに、薄雲は動きを取り戻した。
扇は、何事もなかったかのように、次の弧を描いた。舞は、続いた。客の誰一人として、その一瞬の停止に、気づかなかった。あまりに見事な舞の中の、まばたきほどの間だった。誰も、見ていなかった。
いや——一人、気づいた者がいた。
朝霧だった。
撥を握る朝霧の指が、その一瞬、わずかに迷った。長年、綾乃の三味線も舞も、間近で見てきた師だった。教え子の身体の癖を、息遣いを、誰よりも知っていた。だから、わかった。今の止まりは、舞の「間」ではない。薄雲の意思が作った静止ではない。身体が、意思に逆らった瞬間だった。
しかし、朝霧は、撥を止めなかった。
止めれば、客が気づく。座が、壊れる。何より、薄雲の舞が、傷つく。だから朝霧は、何も気づかなかった顔で、音を紡ぎ続けた。教え子が動きを取り戻すまでの、わずかな間を、自分の音で、塗りつぶした。
それが、朝霧にできる、ただひとつのことだった。
才のある者だけが見える女だった。才のない者を、生涯、見ようとしなかった女だった。その朝霧が、唯一、自分の禿として育てた綾乃の異変を、見逃すはずがなかった。見えて、しまった。見えてしまったからこそ、朝霧は、何も見なかったふりをした。
舞は、続いた。
深紅の打掛が、灯火の中で、生き物のように翻り続けた。客は、誰も、何も、気づかぬまま。
*
もう一人、気づいた者がいた。
春霞だった。
座敷の隅で、春霞は、その一瞬を、見ていた。
舞そのものを見ていたのではなかった。ねぇさんを見ていた。いつも、ねぇさんを見ていた。だから、気づいた。あの右手が、止まったことに。指が、震えたことに。
朝霧の音が、その一瞬を埋めたことにも、春霞は気づいていた。地方の師が、わざと何事もない顔で弾き続けたことにも。つまり、朝霧も、見たのだ。春霞は、座敷の向こうの朝霧と、一度だけ、目が合った気がした。気のせいかもしれなかった。しかし、その一瞬、二人は、同じものを見た者同士の、無言の何かを交わした気がした。
春霞の背筋を、冷たいものが、すっと走った。
ねぇさんの右手は、止まってはいけない手だった。三味線の撥を、寸分の狂いもなく操る手。舞の扇を、糸の先まで思い通りに動かす手。その手が、ほんの一瞬とはいえ、止まった。意思に、逆らうように。
春霞は、知っていた。
あの夜の、湯呑みを握り損ねた右手を、春霞は思い出していた。あれだけではなかった。座敷の帰りに、稽古の合間に、誰も見ていない時に、ねぇさんが右手を左手で包んでいるのを、春霞は何度か見ていた。冷えるだけだと、歳だと、ねぇさんは笑った。春霞も、疲れているのだろうと、思おうとしていた。
しかし、今夜のあれは、疲れではなかった。
春霞は、宴の喧騒の中で、一人、凍りついていた。
舞は、続いていた。薄雲は、変わらず美しかった。深紅の打掛が、燃えていた。客たちは、うっとりと見惚れていた。座敷は、満ち足りた幸福に、包まれていた。
その幸福の真ん中で、春霞は、見てしまった。
花の盛りの、いちばん奥に、ひそかに兆した、最初の翳りを。
*
舞が終わった。
座敷が、割れるような賞賛に包まれた。客たちは、口々に薄雲を讃えた。生涯忘れられぬものを見た、と涙ぐむ者さえいた。薄雲は、扇を収め、深く頭を下げた。その所作にも、一分の隙もなかった。
薄雲は、微笑んでいた。
いつもの、完璧な微笑みだった。何も起きなかったかのような。何も抱えていないかのような。
その微笑みを、春霞は、座敷の隅から、見ていた。
ねぇさんは、気づいているのだろうか。自分の右手が、止まったことに。気づいていて、笑っているのだろうか。それとも、気づかぬふりをしているのだろうか。
わからなかった。
ただ、ひとつだけ、わかったことがあった。
ねぇさんは、誰にも、言わないだろう。
右手のことも、その奥にあるかもしれない何かも、ねぇさんは、一人で抱えて、笑い続けるだろう。母を病にし、神仏の卦を借り、自分を泥だと言って客を断ってきたように。ねぇさんは、いつも、自分のことを、誰にも言わない。
だったら、と春霞は思った。
だったら、あちきが見ている。
ねぇさんが言わないのなら、あちきが、見ている。気づかぬふりをして、笑っているのなら、あちきも、気づかぬふりをして、そばにいる。そして、いつか、ねぇさんが倒れる時が来たら——その時は、あちきが、支える。
雪の夜に、ねぇさんが、あちきにしてくれたように。
宴は、夜更けまで続いた。
灯火は、煌々と燃えていた。三味線が鳴り、笑い声が満ちた。扇松楼の、いちばん華やかな夜だった。花の盛りの、絶頂の夜だった。
その絶頂の夜の片隅で、一人の妹分が、姉の右手を、見つめていた。
誰にも言えぬ予感を、胸の奥に、そっと畳んで。
桜は、とうに散っていた。
仲之町の大路から、根のない桜は、引き抜かれて、運び去られた後だった。あれほど人を集めた花は、もう、どこにもなかった。来年の春、また別の桜が運ばれてくるまで、大路は、ただの土の道だった。
花の盛りは、長くは続かない。
それを、春霞は、まだ言葉にできずにいた。
ただ、今夜のねぇさんの舞が、これまで見たどの舞よりも、美しかったことだけは、わかっていた。あんなに美しいものを、二度と見られない気がした。美しすぎて、怖かった。なぜ怖いのか、春霞には、まだわからなかった。
散る間際の花が、いちばん美しいことを、春霞は、まだ知らなかった。
——第八話 了
第八話『花の盛り』をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は題名の通り、「花の盛り」を描いた回でした。
仲之町の桜。
花魁道中。
文左衛門の変わらぬ想い。
そして扇松楼で開かれた華やかな宴。
今この瞬間、薄雲も春霞も、まさに吉原の頂に咲いています。
誰もがその名を知り、
誰もがその姿を見たいと願い、
誰もがその美しさを讃える。
まさしく花の盛りです。
けれど花の盛りとは、
永遠を約束する言葉ではありません。
今回の物語では、その華やかさの裏で、小さな異変も描かれました。
客たちは誰も気付きませんでした。
しかし朝霧と春霞だけは見ていました。
ほんの一瞬だけ止まった右手を。
それはまだ誰にも言葉にできないほど小さな変化です。
けれど物語の中では、とても大きな意味を持つ瞬間でもありました。
また今回、文左衛門は再び薄雲に想いを伝えます。
そして初めて、薄雲の断り方の奥にある何かへ手を伸ばしました。
それでも薄雲は語りません。
誰にも。
春霞にさえ。
だからこそ、この回では薄雲の孤独もまた描きたかった部分のひとつでした。
花は、最も美しい時にこそ人を魅了します。
そして人は、その美しさが永遠ではないことを知っているからこそ、胸を打たれるのかもしれません。
『花の盛り』という題名には、そんな思いを込めました。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
次回も『吉原残月 ― 紅、散るまで ―』をよろしくお願いいたします。




