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第六話 断る夜

花魁は客を選べる。


けれど、身請けは別でした。


多くの遊女が夢見て、手の届かない自由への切符。


その切符を、薄雲は何度も自らの手で押し返してきました。


権威ある武士。

莫大な財を持つ豪商。

才に恵まれた戯作者。


そして——。


今宵は、そんな薄雲の一年のお話です。


第六話、お楽しみいただければ幸いです。

魁が客を断るのは、罪ではない。


吉原では、寝るも寝ぬも花魁の心ひとつと決まっていた。どれほどの分限者が大金を積もうと、花魁がうなずかねば、指の一本も触れられぬ。それが廓の不文律であり、最高位に立つ女に許された、ただひとつの自由だった。


だが、身請けとなれば、話は別である。


身請けは、檻からの解き放ちだった。借金の証文を焼き、年季を取り払い、女をひとりの人間に戻す唯一の道だった。それを断るということは、自ら望んで檻に残るということにほかならない。


世の遊女たちが、夜ごと夢に見て、ついぞ手の届かぬその切符を——薄雲は、幾度となく、その手で押し返してきた。


なぜ、と問う者はいなかった。


ただひとり、楼主の善兵衛だけが、その理由を知っていた。そして、誰にも語らなかった。


これは、薄雲が四人の男を断った、ある一年の話である。



秋の長雨が、仲之町の灯を滲ませていた。


軒先の提灯はどれも薄い膜を張ったようにぼやけ、傘を差した男たちの影が、濡れた敷石の上を黒く流れていく。雨は音もなく降っていた。降っているというより、夜気そのものが湿って垂れているようだった。妓楼の二階から見下ろせば、無数の傘が花魁道中の隊列のように連なり、その下で人の顔だけが提灯の朱に染まって浮いていた。


扇松楼の奥座敷は、廊下のざわめきから切り離されたように静かだった。


階下からは、まだ宵の口のにぎわいが、雨に湿った床を通して低く伝わってくる。三味線の爪弾き。客のだみ声。膳を運ぶ女中の足音。だが、それらはどれも一枚の障子を隔てて、遠い水音のように聞こえるだけだった。


香炉から立ちのぼる伽羅の煙が、行灯のひかりの中をゆっくりと這い、紫がかった闇に溶けていく。雨の湿りを含んだ夜気に、その甘く重い香りが沈み込んでいた。畳には金糸の縫い取りのある夜着が一枚、無造作に重ねられていた。違い棚には秋草を生けた青磁の花入。萩と桔梗が、首をわずかに垂れていた。床の間の掛け軸は、墨一色で描かれた寒山の図だった。


薄雲は、その座敷の上座に座していた。


黒地に銀の薄を散らした打掛が、行灯のひかりを受けてかすかに光る。帯は深い紫だった。結い上げた髪に挿した鼈甲の櫛と、幾本もの簪。すべてが計算されつくした均衡の上に置かれ、ひとつとして過剰でなかった。


その前に、ひとりの武家が座っていた。

「薄雲」

男は低く名を呼んだ。


榊原主膳。三千石の旗本である。歳の頃は四十半ば。背筋は鉄の棒を入れたように伸び、月代は青々と剃り上げられ、紋付の肩には微塵の埃もなかった。掌を膝に置き、その姿勢を半刻も崩さずにいる。座敷の空気が、男の存在ひとつで張り詰めていた。


「もう一度、申す」


主膳の声には、断られるという考えがなかった。


「そなたを、わが屋敷へ迎えたい。妾ではない。側室として、然るべき座を与える。そなたほどの品を、このような泥水の中に置いておくのは、天の理に背くことぞ」

火鉢の炭が、ぱちりと爆ぜた。


薄雲は、すぐには答えなかった。


膝の前の茶碗を、白い指でそっと持ち上げる。ひと口、含む。茶の温みが喉を下りていくあいだ、男を待たせる。待たせることが、無礼にならぬぎりぎりの間合いを、薄雲は身体で覚えていた。茶碗を静かに戻すと、かすかな音が畳に吸い込まれた。


白い指が、膝の上でかすかに動いた。それから、ゆっくりと顔を上げた。切れ長の目が、行灯のひかりを宿して主膳を見た。笑ってはいなかった。といって、こわばってもいなかった。ただ、深い水底のように静かだった。


「もったいないお言葉でありんす」

声は低く、澄んでいた。

「主膳さまのような御方に、ここまで言うていただけて、わちきは——果報者でありんす」


主膳の眉が、わずかに動いた。礼の言葉に、承諾の気配を読もうとしたのだった。


しかし薄雲は、そこで一度、目を伏せた。


長い睫毛が頬に影を落とす。その伏せた目の中に、ふいに別のひかりが宿ったように見えた。


哀しみとも、諦めともつかぬ、奥の深いひかりだった。


「されど——わちきには、故郷に老いた母がおりんす」

薄雲は静かに語り始めた。

「ちいさい頃に売られて、それきり一度も顔を見ておりんせん。今ごろは、もう床に伏せっているやもしれぬと、夢に見ぬ夜はありんせん。年季が明けたなら、故郷へ帰り、母の最期を看取る——それだけが、わちきの願いでありんす。神仏に、そう誓うておりんす」

言葉はよどみなかった。


ひとつひとつの音が、絹を裂くように整っていた。早すぎず、遅すぎず、感情がほどよく滲み、それでいて崩れない。それは話術というより、もはや技芸の域だった。長い年月をかけて研ぎ澄まされた、断るための芸だった。


「神仏への誓いを破れば、わちきの母は浮かばれぬ。主膳さまのお情けは、生涯忘れはいたしんせん。されど、この身を縛る糸だけは——どうか、お許しを」

薄雲は、深く頭を下げた。


額が畳につくほどに、低く。


主膳は、しばらく動かなかった。


断られた、という事実が、男の中にゆっくりと染み込んでいくのが、傍目にもわかった。怒りではない。困惑でもない。男は、生まれて初めて「否」というものに触れた者の顔をしていた。


やがて主膳は、太い息をひとつ吐いた。

「……母御か」

低く呟いた。

「孝の心を、武士が踏みにじるわけにはゆかぬな」


立ち上がる音がした。袴の衣擦れ。刀を取る手。


「薄雲。そなたは、わしが思うていたよりも、ずっと高いところにおった」

それだけ言って、主膳は座敷を出ていった。


障子が閉まる。足音が遠ざかる。雨の音だけが残った。


薄雲は、頭を上げた。


その顔には、もう何もなかった。


母を語っていた哀しみも、神仏への誓いを口にしていた敬虔も、跡形もなく消えていた。ただ、白い能面のような静けさだけが残っていた。薄雲は炭の燃える火鉢に目を落とし、煙管を取った。一服、ゆっくりと吸う。煙が、行灯のひかりの中を昇っていった。


次の間で、その横顔を見ていた者がいた。


小菊だった。


まだ座敷に出て間もない、振袖新造の身である。薄雲の妹分として、その夜も次の間に控え、姉女郎の客あしらいを見て学んでいた。


小菊は、見ていた。ねぇさんが、あの石のような武家を、傷ひとつつけずに帰したのを。否と言われたことのない男に、否を告げて、それでもその誇りを損なわなかったのを。母を語る時のねぇさんの声には、本物の哀しみがあった。あれは嘘なのか、本当なのか。小菊には、見分けがつかなかった。見分けがつかないことそのものが、ねぇさんの恐ろしさだった。


薄雲は、煙管を吸い終えると、灰を落とした。


ことり、と乾いた音がした。


その音だけが、座敷にやけに大きく響いた。



夏の宵だった。


あの長雨の秋から、いくつかの季節が巡っていた。蝉の声が町中に降りそそぎ、打ち水をした敷石から、むっとする熱気が立ちのぼる。座敷には涼を呼ぶために葦簀が立てられ、風鈴がひとつ、宵風にかすかに鳴っていた。


その夜の客は、上方の言葉を話す商人だった。


葦簀越しに、表の喧騒が遠く聞こえていた。物売りの声。子どもの笑い声。どこかの座敷から流れてくる、調子はずれの小唄。井戸で冷やした西瓜を運ぶ女中とすれ違ったのだろう、廊下にかすかに青い匂いが残っていた。薄雲の白い首筋に、玉のような汗がひとつ、すっと流れた。それを懐紙でそっと押さえる手つきさえ、この女がすると、ひとつの所作に見えた。


鴻池屋利兵衛。大坂で名を知らぬ者のない豪商である。色の白い、肉づきのよい男で、絹の着物の上からでも金の匂いがするようだった。指には珊瑚の根付。膝の前には、漆塗りの箱がいくつも積まれていた。


「薄雲はん」


利兵衛は、扇子で胸元をあおぎながら言った。にこやかな顔だった。


「わて、はっきり言いますわ。あんたが欲しい。なんぼ積んだらええ。千両か。二千両か。言うてみなはれ。この鴻池屋に、出せん金はおまへんで」

箱のひとつが開けられた。


小判が、行灯のひかりを跳ね返して鈍く光った。


「身請けの金やない。これは手付や。あんたが首を縦に振ってくれたら、この十倍を楼主に積む。


それで話はしまいや。なあ、悪い話やおまへんやろ」


薄雲は、その小判には目もくれなかった。


涼やかに微笑んでいた。葦簀越しの淡いひかりが、その頬に縞をつくっていた。利兵衛が金を見せれば見せるほど、薄雲の微笑みは深くなった。それは喜びの微笑みではなかった。底の見えない、静かな微笑みだった。


「鴻池屋さまは、お優しい御方でありんすなあ」

薄雲は、ゆっくりと言った。

「わちきのような女に、それほどの値をつけてくださる。嬉しゅうて、涙が出そうでありんす」

「ほな——」

「されど」

薄雲は、扇を膝の上にそっと置いた。

「わちきには、ひとつ、気がかりがありんす」

「気がかり?」

「先日、なじみの拝み屋に、旦那さまとの縁を占うてもろうたのでありんす」


薄雲の声が、少し低くなった。秘めごとを打ち明けるように。


「すると——出た卦が、よくありんせんかった。わちきと添えば、旦那さまのお命を縮める、と。大凶と出たのでありんす」

利兵衛の扇子が、止まった。

「わちきは、それを聞いてから、夜も眠れぬのでありんす。旦那さまは、住吉のお社にも詣でられる、信心深い御方。わちきの我が儘で、旦那さまのお命に障りがあっては——わちきは、生きてはおれぬ」

薄雲は、利兵衛をまっすぐに見た。

「鴻池屋さまには、いつまでも、いつまでも、ご壮健でいていただきとうありんす。だから——わちきは、頷くわけには、まいりんせん」

座敷が、静まった。


風鈴が、ちりん、と鳴った。


利兵衛は、しばらく薄雲の顔を見つめていた。商人の目だった。相手の言葉の裏に、いくらの値がついているかを読もうとする目だった。だがその目は、やがて緩んだ。薄雲の微笑みの底に、値札を見つけられなかったのだった。


「……かなわんなあ」

利兵衛は、苦笑して扇子を畳んだ。

「金で動かん女子に会うたんは、生まれて初めてや。あんた、ほんまもんやな」


漆の箱が、ひとつずつ閉じられていった。小判のひかりが、闇に隠れていった。


「ええわ。今夜は、楽しい夢を見せてもろたと思て帰りますわ。けど、薄雲はん」

利兵衛は、立ち際にもう一度ふりかえった。

「気が変わったら、いつでも文をくれなはれ。鴻池屋は、いつでもあんたを待っとるさかい」


男が去った後、薄雲は微笑んだまま、扇子を取り直した。


そしてその微笑みは、男の足音が完全に消えると同時に、すっと顔から引いた。波が砂浜から退くように。あとには、何も残らなかった。


薄雲は、開けられたままの漆箱を一瞥した。小判の山が、まだ闇の中で鈍く光っていた。それを取り返しに、いずれ鴻池屋の手代が来るだろう。薄雲は、その金にも、男の言葉にも、もう何の関心も持っていなかった。ただ、火鉢に手をかざし、夏の宵だというのに、冷えた指先を温めていた。


次の間で、小菊は、また見ていた。


二度目だった。ねぇさんが微笑みのまま男を帰し、男が去ったとたんに、その微笑みを脱ぎ捨てるのを。小菊は、ふと思った。あの微笑みは、いったいどこへ行くのだろう。脱いだ着物のように、どこかに畳んで仕舞っているのだろうか。それとも、もとから、どこにも無いものなのだろうか。



冬が来た。


その夜は雪だった。仲之町の屋根という屋根が白く沈み、提灯の朱だけが、降りしきる雪の向こうにぼんやりと滲んでいた。火鉢を三つも入れた座敷でさえ、底冷えがした。


客は、戯作者だった。


柳亭春岳。当代きっての人気戯作者である。瘦せた身体に、洒落た縞の着流し。落ち窪んだ目の奥に、油断のならぬひかりを宿していた。男は座敷に入るなり、酒も肴も求めず、ただ薄雲と話をしたがった。


その夜の二人は、ほかの客とは違っていた。


春岳が白楽天の一節を口にすれば、薄雲がその対句を引いた。薄雲が伊勢の古い歌を詠めば、春岳がその心を今の世に引き寄せて返した。言葉が、たがいの間を毬のように行き交った。


雪の夜の冷えた空気の中で、二人の交わす言葉だけが、ほのかに熱を帯びていた。火鉢の炭が爆ぜる音と、障子の外で雪の枝がしなる音のほかには、何も聞こえなかった。座敷の空気は、いつしか客と遊女のものではなく、対等な二人の知の遊戯のものになっていた。


薄雲の目に、その夜だけ、別のひかりがあった。


ふだん、誰の前でも崩れぬ静けさの底に、かすかな熱があった。久しく忘れていた何かが、男の言葉に呼び覚まされたように。


「薄雲」

夜も更けた頃、春岳はふいに改まった。

「俺は、あんたという女が惜しい。この廓に置いておくには、惜しすぎる。あんたの中には、物語がある。語られるべき、たったひとつの物語がな。俺はそれを書きたい。あんたを身請けして、そばに置いて、その物語を——一生かけて、書き残したいんだ」

薄雲は、すぐには答えなかった。


火鉢の炭が、静かに崩れた。


雪が、障子の向こうで降り積もっていく音が、聞こえるような気がした。


春岳の言葉は、これまでの誰のものとも違っていた。権威でもなく、金でもなかった。それは、薄雲という人間の、いちばん奥の孤独に触れる言葉だった。誰にも語れぬまま胸の底に沈めてきたものを、この男は見つけ出し、すくい上げようとしていた。


薄雲の指が、わずかに動いた。


その一瞬——ほんのまばたきほどの間、薄雲の中で、何かが揺れた。


もし、と。


もし、この男のそばで、わちきの物語が語られるのなら。誰にも知られぬまま、雫のように消えていくはずだったわちきの一生が、ひとつの物語として、この世に残るのなら。


揺れた。


たしかに、揺れた。


だが——薄雲の脳裏に、ひとりの娘の顔が浮かんだ。


雪の夜に、物置で震えていた、あの小さな娘。粥の椀を両手で抱えて、ようやく泣き止んだ、あの顔。


揺れは、消えた。


薄雲は、目を上げた。そこにはもう、いつもの静けさが戻っていた。


「春岳さま」

声は、やわらかかった。

「わちきの物語など、書くほどのものでは、ありんせん。それに——」

薄雲は、ふっと笑った。少し、困ったように。

「困ったことに、うちの楼主は、たいそうな欲深でありんしてなあ」

「楼主が?」

「身請けの金を、五倍積まぬ限り、籍は抜かぬと言い張っておりんす。春岳さまほどの御方から、これ以上お金をむしり取らせては、わちきの気がすみんせん。あなたさまの筆で稼いだ、大切なお金でありんすもの。そんなものに使うては、罰が当たりんす」

春岳は、薄雲の顔をじっと見ていた。


戯作者の目だった。人の言葉の嘘と真を、生業として見分けてきた男の目だった。その目が、薄雲の言葉の中に、何か不自然なものを探していた。だが、見つけられなかった。薄雲の表情は、最後まで崩れなかった。


やがて春岳は、ゆっくりと息を吐いた。

「……そうか」

低く言った。

「楼主が、な」


その声には、わずかな苦みがあった。納得したわけではない。だが、それ以上踏み込むことを、男は己に禁じたのだった。


「野暮を言った。許してくれ」


春岳は立ち上がった。雪明かりが障子を青白く染めていた。


「だが薄雲。これだけは言わせてくれ。あんたは——いい女だ。俺が今まで会った、どんな女よりもな」

男は去った。


雪は、まだ降っていた。


薄雲は、ひとり座敷に残された。


いつもなら、客が去ればすぐに消えるはずの表情が、その夜は、しばらく顔に残っていた。揺れの名残だった。薄雲は、自分でも気づかぬうちに、障子の向こうの雪を見ていた。降りしきる雪を。果てのない、白を。


あの男のそばにいれば、わちきは、わちきのままで生きられたやもしれぬ。物語を語り、言葉を交わし、ひとりの人間として向き合える相手だった。だが、それは、小春を置いていくということだった。あの子を、この檻にひとり残して、自分だけが外の世界の言葉を生きるということだった。


それは、できぬ。


春岳の差し出した手は、薄雲ひとりへの手だった。小春の分の手は、そこになかった。だから、薄雲は、その手を取らなかった。揺れはした。けれど、取らなかった。


やがて薄雲は、目を閉じた。


そして、ひらいた時には、もう、いつもの薄雲に戻っていた。



三人の男が、去った。


権威が去り、財が去り、才が去った。江戸の男たちの持ちうるすべての力が、薄雲の前に差し出され、そして退けられた。


その断り方を、小菊はすべて見ていた。


見ていて、舌を巻いた。


ねぇさんの断り方は、芸だった。武家には武家の、商人には商人の、戯作者には戯作者の言葉があった。相手によって、まるで別の人間のように言葉を変えた。けれど、どの断り方にも、ひとつだけ共通するものがあった。


ねぇさんは、自分を悪者にしなかった。


母を病にし、神仏の卦を借り、楼主を欲深にした。断る理由を、いつも自分の外に置いた。そうすれば、誰も傷つかない。相手の誇りも、自分の心も。それは、長い年月をかけて廓で磨かれた、生き抜くための知恵だった。


小菊は、思った。


ねぇさんは、誰のものにもならない。きっと、これからも。あの人は、檻の中でいちばん高いところに咲いた花だ。誰の手も届かない。そういう花なのだと。


その考えが、小菊にとって、どこか誇らしくもあり、どこか哀しくもあった。


なぜ哀しいのか、小菊は、まだうまく言葉にできなかった。



春が、巡ってきた。


仲之町の桜が、満開だった。


夜桜の下を、花魁道中が往く。引き手茶屋から大門へ、また大門から引き手茶屋へ。八文字を踏む高下駄の音が、花びらの舞う宵闇に、ゆっくりと響いた。薄雲の道中は、いつにもまして人を集めた。沿道の客が、ため息のように名を呼んだ。


その夜、薄雲の座敷を訪れたのは、文左衛門だった。


住吉屋文左衛門。廻船を手広く商う、幕府御用達の豪商である。歳は四十前後。これといって派手なところのない男だった。絹は上等だが、地味な色を選んでいた。指に飾りはなく、声は低く、物腰は静かだった。


だが、その目だけが、ほかの誰とも違っていた。


人を、まっすぐに見る目だった。値踏みするのでも、舐めるように見るのでもなかった。ただ、相手の奥にあるものを、静かに見ようとする目だった。


文左衛門は、長いあいだ、薄雲のなじみだった。


幾度も座敷に通い、海の話をした。沖に浮かぶ漁火が、夜の波間に星のように散らばる話。嵐の夜、波が山のように立って船を呑もうとする話。遠い長崎の湊から運ばれてくる、ぎやまんの器や、見たこともない色の更紗の話。文左衛門は、それらをけっして自慢げには語らなかった。ただ、見てきたものを、見てきたとおりに、静かに話した。


文左衛門の語る海は、檻の中で生きる薄雲にとって、ただひとつ、外の世界を感じさせてくれるものだった。塀の向こうにも、お歯黒溝の向こうにも、世界が続いているのだということを。四角く切り取られた吉原の空の、そのさらに上に、果てのない空があるのだということを。薄雲は、文左衛門の海の話を聞いている時だけ、ほんのわずか、肩の力が抜けるようだった。


その夜、文左衛門は、改まって言った。

「薄雲さん」


桜の花びらが一枚、開け放った障子のすきまから舞い込んで、畳の上に落ちた。


「あんたを、身請けしたい」

薄雲は、文左衛門の顔を見た。

「うちには、海の見える屋敷がある。日当たりのいい座敷もある。あんたが望むなら、そこで、もう誰にも気兼ねせず、ゆっくり暮らせばいい。三味線を弾いてもいい、弾かなくてもいい。何もしなくたっていい。ただ、あんたが——あんたのままで、生きてくれたら、それでいい」

飾りのない言葉だった。


権威もなかった。金の話もなかった。物語を書きたいという欲もなかった。ただ、薄雲という人間を、薄雲のまま生かしたい、という一念だけが、そこにあった。


薄雲は、しばらく黙っていた。


その横顔を、次の間から、小菊が見ていた。


ねぇさんは、なんと言って断るのだろう。母を病にするのか。神仏の卦を持ち出すのか。それとも、楼主を欲深にするのか。小菊は、これまでの三つの断り方を思い出しながら、ねぇさんの言葉を待った。どれを使っても、きっと完璧だろう。あの旦那も、ほかの三人と同じように、傷つかぬまま帰されるのだろう。そう思っていた。


薄雲は、ゆっくりと口をひらいた。

「文左衛門さま」


その声を聞いた時、小菊は、わずかな違和を覚えた。


いつもの、断る時の声と、どこか違っていた。

「わちきは——泥に染まった、廓の女でありんす」

薄雲は、目を伏せた。

「廓の水は、一度染まれば、二度と落ちぬ水でありんす。そんな女が、文左衛門さまのような御方のもとへ輿入れしては——旦那さまの名に、一生消えぬ傷がつきんす。住吉屋の暖簾に、泥を塗ることになりんす。わちきは、それだけは、できぬのでありんす」

小菊は、息を呑んだ。


ねぇさんは、自分を、下げた。


これまで三人の男には、決して使わなかった断り方だった。母を悪者にし、神仏を悪者にし、楼主を悪者にしてきたねぇさんが、文左衛門にだけは、自分を泥にした。自分の身を、いちばん低いところに置いた。


なぜ。


小菊には、わからなかった。


文左衛門は、薄雲の言葉を、黙って聞いていた。


長いあいだ、何も言わなかった。


その目は、薄雲の伏せた目を、じっと見ていた。泥に染まった廓の女、と薄雲は言った。住吉屋の暖簾に泥を塗る、と。だが文左衛門は、その言葉の表面を聞いてはいなかった。言葉の下に流れているものを、聞こうとしていた。妻を亡くした男だった。人の言葉の奥にあるものを、独りで聞き取る年月を、長く生きてきた男だった。


桜の花びらが、もう一枚、舞い込んだ。


やがて文左衛門は、静かに立ち上がった。

「……今日のところは、引こう」


低く言った。怒ってはいなかった。傷ついた様子もなかった。ただ、何かを深く考えている顔だった。


障子に手をかけ、出ていこうとして——文左衛門は、ふと足を止めた。


ふりかえりはしなかった。背を向けたまま、ぽつりと言った。


「似ているな」

薄雲が、顔を上げた。

「……何が、でありんすか」

文左衛門は、答えなかった。


誰に似ているのか。何が似ているのか。何も言わなかった。ただ、その背中が、ほんの少し、淋しげに見えた。遠い昔、同じように何かを断られた夜があったのかもしれない。あるいは、同じように自分を下げて去っていった、誰かの面影を見たのかもしれない。その問いの答えを、男は持ったまま、明かさなかった。


そして、男は座敷を出ていった。


桜の夜の中へ、静かに消えていった。



座敷に、薄雲が、ひとり残された。


いつもなら——母を語った後も、神仏を語った後も、楼主を語った後も、薄雲の表情は、客の足音が消えると同時に、すっと引いた。何も残らなかった。波が砂浜から退くように。


だが、その夜は、違った。


薄雲は、動かなかった。


障子の開いたすきまから、桜の花びらが、また一枚、舞い込んだ。それが畳の上に落ちるのを、薄雲はじっと見ていた。手は膝の上に置かれたまま、動かなかった。煙管を取ることもなかった。茶を含むこともなかった。


ただ、止まっていた。


まるで、自分の口にした言葉の重さに、自分で打たれたかのように。


わちきは、泥に染まった廓の女でありんす——。


その言葉は、嘘ではなかった。だが、本当でもなかった。本当の理由は、別にあった。この檻に、置いていけない者がいる——ずっと言葉にしてこなかったその一事が、ようやく薄雲自身の中で、はっきりと形をとり始めていた。


薄雲の目が、わずかに、次の間のほうへ動いた。


そこに、誰かがいることを、薄雲は知っていた。


知っていて、何も言わなかった。


長い、長い沈黙だった。


火鉢の炭が、音もなく灰になっていった。



次の間で、小菊は、息を殺していた。


ねぇさんが、止まっている。


いつも、客が去ればすぐに消えるはずの何かが、その夜は、消えていなかった。ねぇさんの背中が、いつもと違っていた。何かを抱えた背中だった。何かに、打たれた背中だった。


なぜ、ねぇさんは、あの旦那にだけ、自分を下げたのだろう。


なぜ、あの旦那が去った後だけ、止まっているのだろう。


小菊には、わからなかった。


その意味を知るのは、まだ、ずっと先のことだった。何年も先の、別の春のことだった。その時、小菊は、この夜のねぇさんの背中を思い出すことになる。止まったまま動かなかった、あの背中を。


だが、今は、まだ何も知らない。


ただ、見ていた。


障子のすきまから、ねぇさんの止まった背中を。


その背中の向こうで、桜の花びらが、もう一枚、舞い落ちるのを。


雪洞の灯が、ふたりの女のあいだの闇を、淡く照らしていた。


外では、桜が、降りやまなかった。


——第六話 了



第六話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は薄雲が四人の男から身請けを申し込まれ、それぞれを断るお話でした。


花魁が客を断ることは珍しくありません。


けれど、身請けを断るというのは別の話です。


自由になれる道を、自ら閉ざし続ける薄雲。


その理由は、まだ誰にも語られていません。


ただ、小菊だけが少しずつ違和感を覚え始めています。


この夜の出来事が、いつか別の春へ繋がっていきます。


引き続き『吉原残月 ― 紅、散るまで ―』をよろしくお願いいたします。

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