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第五話 姉妹

皆さま、いつもお読みいただきありがとうございます。


第四話では、雪の夜に出会った薄雲と小春が、初めて心を通わせました。


そして第五話では、その出会いから流れた四年の歳月を描きます。


血の繋がりはなくとも、人は家族になれるのか。


吉原という閉ざされた世界の中で育まれた、二人だけの絆を見届けていただければ幸いです。


それでは第五話――

「春霞」をお楽しみください。

桜が散り、蝉が鳴き、枯葉が舞い、また雪が降った。


小春が扇松楼に来てから、二度目の春が来た頃には、廓言葉も芸事の基礎も、ひと通り身についていた。三味線はまだ音が安定しなかったが、廓言葉の訛りはすっかり抜け、礼儀作法も人並み以上にできるようになっていた。


女中が言った。


「あの越後の子、覚えが早いね」


その言葉が薄雲の耳に入った時、薄雲は何も言わなかった。しかし廊下を歩く足が、少しだけ軽くなった。


小春は天性の子だった。


教えたことをすぐに自分のものにした。一度やってみせれば、次の日には似たことができた。三度繰り返せば、もとの形より少し自分らしさが加わった。薄雲はその性質を早くから見抜いていた。形をなぞるだけでなく、形の中に自分を入れる子だった。そういう子が、花魁になれる。


小春の日常は、禿としての労働で埋まっていた。


夜明け前から始まり、深夜まで続く。米を研ぎ、飯を炊き、廊下を拭き、遊女の部屋を整え、稽古に出て、使い走りをして、また稽古に出る。その繰り返しだった。休む間がなかった。倒れそうになることもあった。


それでも小春は、笑顔でいた。


廓の子供には珍しいことだった。売られてきた子の多くは、時間が経つにつれ、笑顔を失っていった。機械のように動くようになっていった。しかし小春は違った。笑うべき時に笑い、辛い時は辛そうにした。感情を隠せない子だった。それが弱さになる場面もあった。しかし薄雲は、その感情の豊かさを消させなかった。


「感情を隠す必要はありんせん」と薄雲は言った。「ただ、出す場所を選びなんし」


それが小春を育てる薄雲の方針だった。感情を殺すのではなく、使い方を教えた。


廓の遊女たちを見ながら、小春は多くのことを学んだ。


格子の前に座る女たちを、今は違う目で見ていた。昔は怖いと思っていた。今は、仕事をしている人たちだと思った。客に笑いかける時の目と、仕事が終わった後の目が違うことも、わかるようになっていた。あの顔とこの顔は別のもので、それが花魁として生きることの意味だと、少しずつわかってきた。


薄雲がそれをしていた。


薄雲は、座敷では薄雲だった。部屋では、少し違う顔だった。あちきに見せる顔が、廊下を歩く薄雲の顔とも違った。三つの顔を使い分けながら生きていた。それがどれほどの労力か、小春には想像もできなかった。しかし、それが吉原で生き続けることの代償だと思った。


いつか自分も、同じことをするのだろうか。


小春には、まだわからなかった。


薄雲は、小春を教えることに力を注いだ。


毎夜、小春が薄雲の部屋に来た。


座敷の仕事が終わり、白粉を落とした後の時間だった。二人で向かい合って座り、今日あったことを話した。小春の失敗、女中からの叱られ方、お冬の様子。薄雲はそれを聞き、どうすれば良かったかを話した。


「お冬さんに廊下で呼び止められんした。着物の裾が乱れていると言われんした」


「乱れていたかえ」


「少しでありんす」


「少しでも直しておきなんし。お冬さんは目が細かいでありんす。つけ込む隙を作らないことでありんす」


「はい」


「それだけかえ」


「もう一つ、ありんす。お前の三味線は下手だと言われんした」


薄雲は少し考えた。


「それは本当のことかえ」


「……本当でありんす」


「なら、直せばよいでありんす。嘘をつかれた時は腹を立てていいでありんす。本当のことを言われた時は、直すことだけを考えなんし」


小春は頷いた。


そういう話を、毎夜した。厳しい言葉を使う時も、薄雲は声を荒らげなかった。怒るでも、慰めるでもなかった。ただ、どうすれば良くなるかを、一緒に考えた。


小春は、それが嬉しかった。廓の大人は、怒るか、無視するかだった。叱られた後に「どうすれば良かったか」を教えてくれる者は、薄雲だけだった。


稽古も、夜の時間に続けた。


薄雲が三味線を弾いてみせ、小春が繰り返した。違うと思った箇所は止めて、もう一度見せた。なぜそこが違うのかを言葉で説明した。小春はそれを聞き、次の日の昼の稽古で試した。


廓言葉の細かな使い方も、夜に教えた。


「客の気分が良い時の廓言葉と、そうでない時の廓言葉は変えなんし」


「どう変えるんでありんすか」


「同じ言葉でも、速さと高さが違いんす。機嫌の良い客には少し明るく、静かな客には少し低く。言葉の意味より、音の方が先に届きんす」


そういうことを、薄雲は知っていた。長年の経験から得た知恵だった。本には書いていないことだった。師匠も教えてくれないことだった。薄雲が自分の体で覚えたことを、小春に渡した。


客の読み方も教えた。


「入ってきた瞬間の顔を見なんし。上機嫌か、疲れているか、何かを抱えているか。顔色と歩き方でわかりんす。疲れている客は、騒がしい座敷より静かな座敷を好みんす。何かを抱えている客は、話を聞いてほしいでありんす。その違いを、最初の一刻で見極めなんし」


「難しいでありんす」


「最初はそうでありんす。しかし続けると、わかるようになりんす。人の顔を、よく見ることでありんす」


小春は、薄雲の言葉を一つ一つ胸に刻んだ。書き留めることはできなかった。廓の禿が夜中に文字を書いていれば目立つ。だから頭に入れた。忘れないように、次の日の朝、繰り返した。繰り返すうちに、体に入った。


そうして毎夜が積み重なっていった。


「ねえさんは、どうしてそんなに知っているんでありんすか」


ある夜、小春が聞いた。


「あちきも、お前と同じことをやってきたからでありんす」


「失敗を?」


「失敗を。何度も。お前より、ずっと多くでありんす」


小春は少し笑った。薄雲も、笑った。


夜の部屋に、二人の笑い声が漏れた。廓の夜の中で、その笑い声は小さかった。しかし確かにあった。


少し経って、小春が言った。


「ねえさんはなぜそこまでしてくれるんでありんすか」


薄雲は少し考えてから、答えた。


「お前に会った夜のことを、覚えているかえ」


「覚えていんす。雪の夜でありんした」


「あの夜、あちきはお前に粥を食べさせんした。羽織をかけんした。それだけのことでありんす。しかしお前は、あちきにそれを、ずっと感謝しておりんす」


「当然でありんす。ねえさんが来てくれなかったら、どうなっていたか」


「あちきに感謝する必要はありんせん」


小春は目を見開いた。


「なぜでありんすか」


「あちきがやりたくてやったことでありんす。お前のためだけではありんせん。あの夜の、あちき自身のためでもありんした」


小春には、その意味がすぐにはわからなかった。後になってわかる。薄雲が小春を助けたのは、十年前の自分を救うためでもあった。誰も来てくれなかったあの夜の綾乃を、小春を助けることで、少しだけ救えた気がした。


「それでも」と小春は言った。「あちきにはねえさんが必要でありんす。それだけは本当でありんす」


薄雲は、何も言わなかった。ただ、小春の頭を一度だけ撫でた。


撫でながら、薄雲は思っていた。


この子がいなければ、今の自分はどうなっていただろうか、と。孤独のまま、座敷を繰り返し、夜ひとりで名前を呟き続けていただろうか。しかし小春が来てから、夜の時間が変わった。一人で過ごす夜が、二人の時間になった。その変化が、どれほど大きかったか、薄雲は言葉にできなかった。


姉と妹。


血の繋がりはなかった。しかし、吉原の中でそれ以上の繋がりを持つ者が、他にいただろうか。


薄雲は、思わなかった。


年が変わり、また春が来た。


小春の三味線が、三年目に変わった。


ある夜の稽古の最中だった。いつも通りに弾いていた。しかし、ある一節で、音が変わった。自分でも気づいた。師匠が顔を上げた。


「もう一度、そこを」


小春は繰り返した。同じ音が出た。


師匠は何も言わなかった。しかし稽古の後、部屋を出る前にひと言だけ言った。


「明日から、次の段を教える」


小春は廊下に出てから、走りたいのを堪えた。代わりに早足で薄雲の部屋へ向かった。


「ねえさん、師匠が次の段に進めると言いんした」


薄雲は三味線を手に持ったまま、小春を見た。


「そうかえ」


それだけだった。しかし、その顔が笑っていた。座敷で客に向ける笑いとは違う顔だった。目から笑う顔だった。薄雲がこの顔をするのは、本当に嬉しい時だけだった。


「嬉しくないんでありんすか」


「嬉しいでありんす」


「嬉しそうに見えんせん」


「これが、嬉しい顔でありんす」


小春は少し考えてから、笑った。「ねえさんは表情が難しいでありんす」。薄雲も笑った。「よく言われんす」。


二人で笑った。夜の部屋で、二人で笑った。


音が変わった理由を、後に小春は考えた。


何かが変わったわけではなかった。ただ、気持ちが変わったのだと思った。ここで生きていくと決めた、その気持ちが、弦に伝わった。薄雲に教わったことが、少しずつ体に入ってきた。教えてくれた人のことを思いながら弾いた音は、自分のためだけに弾いた音より、何かが違う気がした。


翌年の秋には、舞の師匠も小春に言った。「筋がある」と。たった三文字だった。小春は、その三文字を布団の中で何度も繰り返した。眠れなかった。嬉しすぎて眠れなかった。


薄雲に伝えると、薄雲は「知っておりんした」と言った。


「いつから知っていたんでありんすか」


「最初からでありんす」


「最初から知っていて、なぜ言わなかったんでありんすか」


「自分で気づくほうが、人に言われるより深く根付きんす」


小春は少し悔しかった。しかしその言葉の意味はわかった。師匠に言われた「筋がある」の重さは、薄雲に先に言われていたら、半分になっていたかもしれなかった。


廓でのもう一つの変化は、他の遊女たちとの関係だった。


小春が明るかったからだろう。声をかければ返ってきた。困っていれば聞いた。笑えば笑い返してくれた。時間をかけて、少しずつ、廓の女たちと繋がっていった。


ある日、小春より年上の新造が泣いていた。廊下の端で、声を殺して泣いていた。小春は立ち止まった。どうしたのかを聞いた。客に酷いことを言われたのだという。小春には、何も慰めになることが言えなかった。ただ隣に座った。


薄雲がやった通りのことを、小春もやっていた。


その新造は、後にそのことを言った。「あの時、隣にいてくれた。それだけで、助かった」と。


薄雲が持っていなかったものを、小春は持っていた。


同じ場所に生きながら、人と繋がることができた。薄雲は孤独だった。しかし小春の周りには、少しずつ人が集まった。それを薄雲は遠くから見ていた。羨ましいとは思わなかった。ただ、良かった、と思った。この子は、あちきと違う生き方ができる、と。


その違いが、大事なことだと思っていた。


薄雲のやり方で強くなる必要はなかった。小春には小春のやり方があった。人と繋がることで強くなる。それが小春の道だった。薄雲はその道を、邪魔しなかった。


ある夜、薄雲は言った。


「お前は、あちきより良い花魁になりんす」


小春は驚いた。


「そんなことはありんせん」


「なりんす。あちきにはできないことが、お前にはできるでありんす」


「なんでありんすか」


「人を温めることができる。お前がいると、周りが少し明るくなりんす。それは、あちきにはないものでありんす」


小春は、しばらく黙っていた。


「ねえさんだって、あちきを温めてくれたでありんす」


「それは、お前が子供だったからでありんす」


「関係ありんせん」


二人は、少しの間、黙っていた。


どちらも、言い返す言葉を持っていなかった。ただ、同じことを思っていた。互いがいなければ、今の自分はなかった、と。その思いが、言葉になる前に、部屋の空気に溶けた。


お冬の差配は、形を変えながら続いていた。


露骨な叱責は減った。代わりに、銭のかけ方で差をつけた。稽古の割り当てを絞った。良い師匠の指導は、より値の立つ妓に回した。新しい稽古道具は、まず稼ぐ見込みのある者に与えられ、小春の番はいつも後回しになった。


一つ一つは小さなことだった。しかし積み重なれば、差がついた。


それは、悪意ではなかった。お冬は、限られた銭と人手を、どこに振り向ければ見世がいちばん潤うかを、ただ計算しているだけだった。まだ芽の出ぬ禿は、後回し。それが算盤の答えだった。小春という子供そのものには、お冬は何の関心もなかった。関心がないということが、かえって、容赦のなさを生んでいた。


薄雲はそれに気づいていた。


気づいた上で、夜の稽古で補った。昼に回ってこなかった分を、夜に教えた。自分が知っていること、身につけてきたことを、惜しみなく小春に渡した。


ある夜、お冬が廊下で薄雲を呼び止めた。


「あの子に稽古を付けているようだね」


「座敷の準備でありんす」


「過分に手をかけているように見えるけどね」


「贔屓ではありんせん。あの子に才があるだけでありんす」


お冬は少し目を細めた。


「才ね」


「はい」


お冬は何も言わなかった。しかし去り際に、一言添えた。


「才があるなら、見世も銭をかける。芽が出れば、こちらから手をかける。それまでは、こちらは動かないよ。それが筋というものだろう」


脅しではなかった。値踏みだった。小春が金になると見えるまでは、見世は一切肩入れしない——そういう、商売の宣告だった。


薄雲はそれを聞き、平静な顔のままでいた。廊下を歩きながら、考えていた。


お冬に小春を認めさせるには、小春自身が強くなるしかなかった。誰にも文句を言わせないほど上手くなれば、お冬の算盤のほうが、小春を守る側に回る。価値が上がれば、廓が守る。逆説だが、それが吉原の論理だった。お冬という女は、敵にすれば冷たいが、価値を認めれば、同じ冷たさで守りに回る。薄雲は、それを誰よりも知っていた。


その夜、小春に言った。


「お前を一番にするために、教えておりんす」


小春は目を丸くした。


「一番、でありんすか」


「吉原で誰よりも稼げる花魁にしんす。そうすれば、誰もお前に手を出せなくなりんす」


小春は黙って、薄雲の目を見た。


「それだけでありんすか」


薄雲は少し考えた。


「それだけではありんせん。お前が良い花魁になるのを、見たいのでありんす。あちきが教えたことで、お前がどこまで行けるのかを」


小春は、その言葉を受け取った。守るためだけではない。薄雲が本当に、自分の成長を楽しみにしていた。それが、小春には何よりも嬉しかった。


「必ず一番になりんす」


小春は言った。その言葉に、揺るぎない芯があった。薄雲は、それを聞いて、確信した。この子は本当になれる、と。


お冬と薄雲の冷戦は、その後も続いた。


しかしある時から、お冬の態度が少し変わった。小春があまりにも上達していくので、無視できなくなってきたのだった。小春の邪魔をし続ければ、その評判が上がった時に自分が足を引っ張っていたという事実が帳面に残る。商売の話になれば、お冬は計算をする。


完全に矛を収めたわけではなかった。しかし、露骨な妨害は減っていった。


小春は、そのことを薄雲に話した。


「最近、お冬さんがあまり何も言わなくなりんした」


「そうかえ」


「なぜでありんしょうか」


「お前が強くなったからでありんす」


小春は、その答えを静かに受け取った。強くなることが、守られることになる。それが吉原の論理だった。薄雲がずっと教えてきたことの、意味がそこにあった。


もう一つ、小春は気づいていた。


薄雲も、変わっていた。


三年前の薄雲と、今の薄雲は、何かが違った。笑う回数が増えた。座敷が終わった後の顔が、以前より穏やかだった。一人でいる時の目が、以前より柔らかかった。孤独の深さが、少し浅くなっていた。


それは小春のせいだと、小春は思っていた。


薄雲はそれを認めなかった。しかし小春は、確かめなかった。確かめなくてもわかっていた。ねえさんは変わった。あちきのせいで、良い方に変わった。それだけで十分だった。


小春が十二になった年の秋、善兵衛が言った。


「そろそろ新造として座敷に出る準備をしろ」


小春は頷いた。お冬は黙っていた。その沈黙の中に、様々なものが詰まっていた。承認でも、祝福でも、もちろんなかった。ただ、反対できなかった。それだけだった。


善兵衛は小春の成長を見ていた。


廊下ですれ違うたびに、善兵衛は小春を観察していた。所作が変わっていった。目が変わっていった。廓の子供らしくない落ち着きが、少しずつ備わっていった。仏の善兵衛の目は、遊女の素質を見抜くことに長けていた。薄雲を見出したのも善兵衛だった。その同じ目が、小春を捉えていた。


ある日、善兵衛が廊下で小春を呼び止めた。


「三味線の腕が上がったな」


「ありがとうございんす」


「教えてくれる人がいるのか」


「はい」


「その人に感謝しなさい」


善兵衛はそれだけ言って、歩いていった。薄雲の名を口にしなかった。しかしわかっていて言っている目だった。それが、小春には伝わった。


座敷に出る前夜、薄雲は小春を部屋に呼んだ。


「怖いかえ」


「少し、でありんす」


「それでよいでありんす。怖くなくなったら、客をなめておりんす。少し怖いくらいが、ちょうどいいでありんす」


「ねえさんも、初めての座敷は怖かったでありんすか」


「怖かったでありんす。膝が震えんした。廊下に出てから、気づきんした」


「え、座敷の中では気づかなかったんでありんすか」


「中にいるあいだは、薄雲でありんす。怖いのは、綾乃のほうでありんす。薄雲は、怖くないのでありんす」


小春は、その言葉の意味を静かに受け取った。


座敷では小菊になる。怖いのは小春で、小菊は怖くない。そういうことだ、と思った。まだ全部はわからなかった。しかし、その言葉は、明日の自分を支える何かになった。


「ねえさん」


「何でありんす」


「小菊という名前、おとっさんがつけてくれたでありんすが……あちき、この名前が好きでありんす」


薄雲は少し意外な顔をした。


「なぜでありんす」


「菊は冬でも枯れないでありんすえ。寒さにも負けない。禿の間、ずっとそれを思っておりんした。どんなに辛くても、枯れずにいようと。小菊という名前が、あちきをそうさせてくれんした」


薄雲はしばらく、小春を見ていた。


八つで売られてきた越後の子供が、今ここに座って、禿名の意味を語っていた。あの物置の暗がりで震えていた子供が。粥椀を抱えて眠っていた子供が。四年の間に、こんなにも変わっていた。いや、変わったのではなかった。もともとこういう子だった。それが、少しずつ表に出てきただけだった。


「小菊」


薄雲は言った。試すように。


名前を呼ぶと、目の前の子供がすっと背筋を伸ばした。その名前に、もう反応していた。


「良い禿名をもらいんしたな」


初座敷が終わった夜、善兵衛が廊下で待っていた。


初めての座敷は、秋の夜だった。


客は四十がらみの商人で、気のいい男だった。座敷に入る前、廊下を歩きながら、心の中で繰り返した。怖いのは小春で、小菊は怖くない。怖いのは小春で、小菊は怖くない。


座敷の戸を開けた瞬間、何かが切り替わった。


緊張が消えたわけではなかった。しかし、緊張を小春に預けて、小菊として入った。廓言葉で挨拶した。三味線を弾いた。客の顔を見て、話題を選んだ。薄雲に教わった通りにした。


客は商いの話をした。小菊は聞いた。相槌を打った。ここは続けて聞くべき話か、切り替えるべきかを考えた。続けた。客の目が和らいだ。


薄雲が教えた通りだった。客の目を見れば、今何が必要かがわかる。


座敷が終わった。


廊下に出ると、廊下が廊下だった。自分が確かにその場にいて、座敷をやり遂げたという実感があった。


三味線の指が、一か所だけ滑った。廓言葉が少し早口になった箇所があった。しかし、全体として、うまくやれた。


廊下の曲がり角で、薄雲が立っていた。


珍しいことだった。薄雲が人を廊下で待っているのを、春霞はほとんど見たことがなかった。


「どうでありんした」


「三味線で一か所、失敗しんした。廓言葉も少し早くなりんした」


「それだけかえ」


「それだけでありんす」


薄雲は頷いた。


「良かったでありんす」


それだけだった。しかし、その言葉が、十分だった。ねえさんが「良かった」と言った。それだけで、今夜の全部が報われた気がした。


その後、善兵衛が廊下に現れた。


「よくやった」


それだけ言って、善兵衛は少し間を置いた。


「花魁名をつける。春霞と名乗りなさい」


春霞。


霞の名だった。空の名だった。薄雲のねえさんと、同じ空の名前だった。


「春霞……でありんすか」


「霞は春の空に溶ける。柔らかく、広がる。お前に似合う名だ」


善兵衛はそれだけ言って、行った。


小春は——春霞は、廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。


春霞。その名が、今日から自分のものになった。


「あと、これを」


薄雲が、手に持っていたものを差し出した。


簪だった。


細い銀の簪に、小さな梅の花があしらってあった。薄雲が普段使っている簪だった。豪華な花魁道中で飾る簪ではなく、座敷が終わった後、部屋でひとりでいる時に挿す、質素だが品のある簪だった。梅の花が、銀の細い枝に一輪だけ、静かに咲いていた。


「いいんでありんすか」


「お前に似合いんす」


「でも、ねえさんの」


「あちきからお前へ。受け取りなんし」


春霞は、両手でそれを受け取った。


冷たかった。銀の冷たさが、指先に伝わった。しかしすぐに、手の温もりが移った。薄雲の手の温もりが残った簪だった。


梅の花は、春霞の象徴だった。冬を越えて咲く梅。寒さに負けない梅。薄雲は、それをわかっていて贈ったのだ、と春霞は思った。あるいは偶然だったかもしれなかった。しかし春霞には、薄雲が選んだ梅に見えた。


「ありがとうございんす、ねえさん」


薄雲は何も言わなかった。


二人は廊下に立っていた。夜の廓の音が、周りから聞こえてきた。三味線、笑い声、下駄の音。しかし二人の間は静かだった。


その静けさが、二人にとって、何よりも心地よかった。


薄雲は、ふと窓の方を見た。


格子越しに空が見えた。秋の夜の空だった。月が出ていた。細い月だった。


「空が見えるかえ」


春霞も窓を見た。


「月が出ていんす」


「吉原の空は狭いでありんす。四角い空でありんす」


「はい」


「しかし、空でありんす。どこかで繋がっておりんす」


春霞は、その言葉の意味を考えた。越後の母も、弟も妹も、同じ空の下にいる。あの狭い格子の空の向こうで、同じ月が出ている。


「いつか、広い空を見ましょう」


春霞が言った。


薄雲は春霞を見た。


「約束でありんす」


二人の間に、あの夜の約束が、また流れた。雪の夜に結んだ約束が、秋の夜に、また生きていた。


四年前、物置の暗がりで小春が受け取った温もりが、今夜は形を変えて春霞の手の中にあった。冷たい銀の簪が、手の温もりで溶けていくような感覚だった。


薄雲は、春霞を育てた四年間を思った。


禿として働かせながら、夜ごと稽古をつけた。お冬と駆け引きをしながら、小春を守った。笑い方を教え、廓言葉を教え、客の読み方を教え、失敗からの立ち直り方を教えた。それは全部、小春に渡したかったものだった。自分が誰にも教えてもらえなかったものを、一人で体得するのに何年もかかったものを、小春には最初から渡したかった。


寄り道させたくなかった。


無駄に傷つけたくなかった。


それが、薄雲にできる唯一の恩返しだった。吉原に生まれたこの縁への。


血の繋がりはなかった。


しかし、この廓の中で、二人は繋がっていた。雪の夜に結んだ縁が、年月をかけて、太くなっていた。お冬に断ち切ろうとされても、断ち切れなかった。吉原の制度に飲み込まれそうになっても、飲み込まれなかった。


姉と妹だった。


それ以上の言葉を、二人は必要としなかった。


その夜から、春霞の修業は新しい段に入った。


新造は、姉女郎の座敷に従う。客の前で酌をし、三味線を添え、座持ちを覚える。そして時には、次の間に控えて、姉の客あしらいを見て学んだ。薄雲がどう客を迎え、どう話を運び、どう間合いを計るか。それを、春霞は襖一枚隔てた暗がりから、息を殺して見つめた。座敷の薄雲は、部屋で見せる薄雲とも、廊下を歩く薄雲とも違った。客の数だけ、薄雲には顔があった。


その顔の使い分けを、春霞はまだ、半分も読めなかった。


ねえさんは、いったい何枚の顔を持っているのだろう。どこまでが薄雲で、どこからが綾乃なのだろう。次の間に座るたびに、春霞はそれを思った。そしていつか、薄雲の最も深いところで使われる顔を、春霞は目の当たりにすることになる。客を断る時の、薄雲の顔を。だが、それはもう少し先のことだった。


簪が、春霞の手の中で、月の光を少し反射した。


梅の花が、細い銀の枝に、静かに光った。


―第五話 了―



第五話をお読みいただき、ありがとうございました。


この回は、物語全体の中でも非常に大切な回です。


雪の日に震えていた八歳の小春が、

四年の歳月を経て「春霞」という名を授かるまでを描きました。


薄雲は小春を育てました。


しかし実際には、小春もまた薄雲を救っていました。


孤独の中で生きてきた薄雲にとって、

小春の存在は凍りついた心を溶かす春そのものだったのだと思います。


そして物語の中で何度も語られる、


「いつか二人で広い空を見る」


という約束。


この約束は、これから先の物語を貫く大切な灯火になります。


春霞の成長と、

薄雲との絆が今後どのような運命を迎えるのか。


引き続き見守っていただければ嬉しく思います。


次回、第六話へ。

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