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第四話 雪夜の約束

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第四話は、小春が吉原へ売られてきた日の物語です。


歴史の中には名前も残らず消えていった子供たちが数え切れないほどいました。

家族を守るために売られた子供。

生きるために手放された子供。


この物語は創作ですが、その時代を生きた誰かの涙の上に成り立っています。


どうか小春の最初の夜を見届けていただければ幸いです。


小春は、越後の生まれだった。


雪深い土地だった。冬になると家が雪に埋もれ、戸を開けるのも一苦労だった。屋根まで雪が積もる年もあった。春が来るのが、どこよりも遅い土地だった。雪が解けるのは四月の終わり頃で、それまでは家の中に閉じこもって暮らした。


父は出稼ぎに出たまま、二年前から戻ってこなかった。便りもなかった。生きているのか、死んでいるのかも、わからなかった。母は小春と弟妹を抱えて、田畑を守っていた。しかし女手では限りがあった。畑は荒れ、年貢を納めるのもやっとだった。


小春には弟が一人、妹が一人いた。


弟は五つ、妹は三つだった。小春は長女として、二人の面倒を見た。母が畑に出ている間、小春が弟妹を背負い、家のことをした。飯を炊き、繕い物をし、水を汲んだ。八つの子供にしては、よく働いた。働かなければ、家が回らなかった。


その年も、不作だった。


母は痩せていった。食べる分を子供たちに回していた。自分は汁だけをすすって、米を子供に食べさせた。小春はそれに気づいていた。気づいていたが、何もできなかった。八つの子供にできることは、何もなかった。


冬の初め、男が村に来た。


笑顔の多い男だった。縞の着物に羽織を重ねていた。母と長いこと話していた。小春は何の話かわからなかった。ただ、話が終わった後、母が泣いていた。声を殺して泣いていた。それを見て、小春は何かを察した。何かはわからなかったが、悪いことだと察した。


その夜、母は小春を抱きしめた。


何も言わずに、ただ抱きしめた。小春の背中を、何度も撫でた。母の手が震えていた。小春は、その腕の中で、これが何かの別れなのだと感じた。


三日後、小春は男に連れられて村を出た。


母は門の前に立っていた。小春が振り返ると、母は手を合わせていた。拝むような格好だった。何かを祈っているようだった。あるいは詫びているようだった。


弟と妹も、母の傍に立っていた。


弟が「ねえちゃん」と呼んだ。小春は手を振った。妹はわけがわからない顔で、母の袖を握っていた。


「行ってきます」


小春がそう言うと、母は頷いた。何も言わなかった。言えなかったのだと、後になって小春は思った。


それから長い旅だった。


雪の中を歩き、山を越え、川を渡り、知らない景色の中を進んだ。男は他にも子供を連れていた。小春より小さい子もいた。みんな泣いていた。小春も泣いた。歩きながら泣いた。夜になると、宿で泣いた。涙が涸れるまで泣いた。涸れても、また出てきた。


母の顔を思い出すたびに、涙が出た。


母の手の感触を思い出すたびに、涙が出た。


弟妹の声を思い出すたびに、涙が出た。


旅の途中、小春は一度だけ、逃げようとした。


夜中、宿のみんなが寝静まった頃、そっと起き出した。戸口まで行った。しかし、戸の前に男が寝ていた。逃げ出す子供を見張るために、わざと戸口で寝ているのだった。小春は諦めて、布団に戻った。


逃げても、行く場所がなかった。


家に帰っても、また同じことになる。母は、小春を売らなければならないほど、追い詰められていた。帰れば、母をもっと苦しめるだけだった。それが、八つの子供にも、わかっていた。だから、逃げなかった。逃げる場所が、どこにもなかった。


何日歩いたのか、わからなかった。やがて大きな門に着いた。男が門番と話し、中へ入った。


そこが吉原だった。


提灯が並び、三味線が鳴り、女たちが格子の向こうに座っていた。男の人がたくさん歩いていた。小春には何もわからなかった。ただ、知らない場所だった。怖い場所だった。母のいない場所だった。


雪が降っていた。



連れていかれたのは、暗い小部屋だった。


物置のような部屋だった。荷物が積まれ、隙間風が吹き込んでいた。雪が舞い込んでいた。床が冷たかった。畳もなく、板敷きの床だった。その冷たさが、座っているだけで体の芯まで伝わってきた。


女中が「ここにいろ」と言って、戸を閉めた。


小春は一人になった。


膝を抱えて座った。寒かった。怖かった。腹が減っていた。何日もまともに食べていなかった。涙が出た。声を上げて泣いた。


おっかあ、と呼んだ。


誰も来なかった。


おっかあ、おっかあ。


声が枯れるまで呼んだ。それでも誰も来なかった。母はもう、ここにはいない。それはわかっていた。わかっていても、呼ばずにいられなかった。呼べば来てくれる気がした。それが叶わないとわかっていても、呼ぶのをやめられなかった。


戸の向こうで、誰かが「うるさい」と言った。戸が蹴られた。どん、という音がした。小春は身をすくめた。声を殺した。しかし涙は止まらなかった。


弟と妹のことを思った。


今ごろ、二人は何をしているだろう。飯を食べているだろうか。母は元気だろうか。弟は、ねえちゃんを探していないだろうか。妹は、泣いていないだろうか。


考えると、また涙が出た。


もう二度と会えないかもしれない。そう思った。八つの子供が、もう二度と家族に会えないかもしれないと思った。その思いが、寒さよりも、空腹よりも、小春を苦しめた。


体が震えていた。


寒さなのか、恐怖なのか、わからなかった。両方だった。歯がかちかちと鳴った。手も足も冷たかった。指の感覚がなくなっていた。息が白かった。吐く息が、暗がりの中で白く広がった。


このまま死ぬのかもしれないと思った。


八つの子供が、そう思った。母のいない場所で、知らない部屋で、寒さに震えながら、このまま死ぬのかもしれないと。死んだら、母に会えるだろうか。そんなことを考えた。死を願ったわけではなかった。ただ、この寒さと怖さから逃げたかった。逃げる方法が、それしか思いつかなかった。


その時だった。


廊下に足音がした。


小春は息を止めた。また「うるさい」と言われるのかと思った。蹴られるのかと思った。身を縮めた。


しかし足音は、戸の前で止まった。


そして、戸が静かに開いた。



女の人がいた。


豪華な着物を着ていた。たくさんの簪を挿していた。色の白い、美しい人だった。蝋燭の光に照らされて、その人の顔が浮かんでいた。


小春はその人を見上げた。


怖くなかった。なぜか、怖くなかった。


この場所に来てから、小春が見た大人は、みんな怖かった。女衒は怖かった。女中は怖かった。戸を蹴った誰かは怖かった。しかし、この人は違った。怖くなかった。むしろ、見ているだけで、何かが緩んでいくような気がした。


その人は何も言わなかった。


着ていた羽織を一枚脱いで、小春の肩にかけた。柔らかい羽織だった。温かかった。その温かさが、冷えた体に染みた。人の温もりが残った羽織だった。さっきまでこの人が着ていた羽織だった。その温もりが、小春の凍えた肩を包んだ。


それから、その人は一度部屋を出た。


行ってしまうのかと思った。小春の胸が、きゅっと締まった。せっかく来てくれた人が、行ってしまう。また一人になる。そう思った。


しかし、しばらくして、その人は戻ってきた。


手に器を持っていた。湯気が立っていた。粥だった。


その人は小春の前にしゃがんで、器を差し出した。


小春は見た。粥を見て、その人の顔を見て、また粥を見た。本当に食べていいのか、わからなかった。


「おあがり」


低い声だった。柔らかい声だった。


小春は両手で器を受け取った。手が震えていた。粥は温かかった。一口すすった。塩の味がした。温かさが喉を通って、腹に落ちた。


その瞬間、また涙が出た。


止まらなかった。粥を食べながら泣いた。泣きながら食べた。温かいものを口にしたのが、何日ぶりかわからなかった。優しくされたのが、村を出てから初めてだった。それが嬉しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。


母が作ってくれた粥を思い出した。


越後の家で、母が作ってくれた粥。米の少ない、薄い粥だった。それでも、母が作ってくれた粥は温かかった。この粥も、温かかった。味は違った。しかし、その温かさは、同じだった。人が、誰かのために作った食べ物の温かさだった。


その人は隣に座った。


何も言わなかった。ただ、そこにいた。小春が泣いても、急かさなかった。食べ終わるのを、黙って待っていた。その沈黙が、優しかった。何か言われるより、ずっと優しかった。ただ、そこにいてくれること。それが、小春には、何よりありがたかった。


やがて粥が尽きた。


小春は空になった器を、両手で抱えたままでいた。


「もう怖がらなくていいでありんす」


その人が、低い声で言った。


「ここは怖いところでありんす。それは本当でありんす。でも、お前はもう一人じゃありんせん」


小春はその人を見た。


その言葉が、胸の奥まで届いた。一人じゃない。村を出てから、ずっと一人だった。旅の間も、この部屋に入れられてからも、ずっと一人だった。その一人が、終わった。誰かが、隣にいてくれる。それだけで、世界が変わったように感じた。


「あちきも、昔ここへ来たでありんす。お前と同じ齢の頃に。雪の降る日でありんした。泣いて、泣いて、それでも誰も来なかった」


その人の目が、遠くを見るようだった。


「一晩中、泣いておりんした。誰も来てくれなかった。寒くて、怖くて、お腹が空いて。あの夜のことは、今でも忘れられないでありんす」


小春は、その人を見つめた。この美しい人にも、自分と同じ夜があったのだと知った。同じように泣いた夜が。同じように震えた夜が。


「だから、わかりんす。今のお前の気持ちが、わかりんす」


小春は何も言えなかった。ただ、その人を見ていた。胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。代わりに、また涙が溢れた。しかしその涙は、もう、悲しいだけの涙ではなかった。


「名前は」


「……小春、と申します」


「小春か」


その人は少し笑った。優しい笑い方だった。


「いい名だ。春が小さいと書くのかえ」


「はい。おっかあが、つけてくれた名でありんす」


そう言った途端、また涙が溢れた。母のことを口にしただけで、涙が出た。母が、この名前をつけてくれた。小春が生まれた時、まだ家が貧しくなる前、母は喜んでこの名前をつけてくれたのだと、後に聞いた。


「おっかあが」


薄雲は、小春の言葉を繰り返した。その声が、少し沈んだ。


「いい名でありんす。大事にしなんし。名前は、おっかさんがくれた、最初の贈り物でありんす」


薄雲の目が、遠くを見るようだった。自分の母のことを思い出しているのかもしれなかった。綾乃という名前を、薄雲の母もつけてくれたのだろう。今はもう、誰も呼ばない名前を。


「春は、必ず来りんす。どんなに寒い冬でも、必ず春は来りんす。お前の名前は、そういう名前でありんす」


小春は頷いた。涙がまた落ちた。しかし今度は、さっきとは違う涙だった。



その夜、二人は長いこと、その小部屋にいた。


その人は、いろいろなことを話した。


吉原がどういう場所か。これからどんな日々が始まるか。何が辛くて、何に気をつければいいか。優しく、わかりやすく、話してくれた。小春には全部はわからなかった。しかし、その人が自分のために話してくれているということだけは、わかった。


「あちきの名は、薄雲という」


その人が言った。


「うすぐも、でありんすか」


「薄い雲と書きんす。空に浮かぶ、薄い雲でありんす」


薄雲、と小春は心の中で繰り返した。きれいな名前だと思った。


「ねえさんは、ここで偉い人なのでありんすか」


小春がそう聞くと、薄雲は少し笑った。


「偉くはありんせん。ただ、長くいるだけでありんす。お前より、ずっと前からここにおりんす」


「ずっと前から」


「ああ。だから、ここのことは何でも知っておりんす。困ったことがあれば、あちきに言いなんし。できることは、してやりんす」


その言葉が、小春の胸に温かく落ちた。困ったことがあれば言いなさい。そう言ってくれる人が、この知らない場所に、一人いる。それだけで、心細さが少し和らいだ。


「いつか」


薄雲が、ふと言った。


「いつか、二人で空を見よう」


「空、でありんすか」


「ああ。ここの空は狭いでありんす。塀に囲まれて、四角く切り取られた空でありんす。でも、外には広い空がありんす。どこまでも続く空が」


薄雲は、格子のはまった小さな窓を見た。


「あちきは、もうずっと、広い空を見ておりんせん。村にいた頃に見たきりでありんす。どんな色だったかも、もう思い出せないでありんす」


小春も、窓を見た。


雪が降っていた。窓の向こうに、暗い空があった。四角い空だった。狭い空だった。越後の家から見ていた空は、もっと広かった。雪が降る空でも、果てがなかった。ここの空には、果てがあった。塀があった。


「いつか、二人でここを出て、広い空を見ましょう。約束でありんす」


その人が、小春を見て言った。


小春は、その言葉の意味を、半分も理解していなかった。ここを出るということが、どれほど難しいことか、まだ知らなかった。広い空がどれほど遠いものか、まだ知らなかった。


しかし、その言葉は、小春の胸の奥に深く刻まれた。


いつか、二人で、空を見よう。


その約束が、これから始まる長い年月の中で、小春を支え続けることになる。しかしこの夜の小春は、まだそれを知らなかった。ただ、温かい羽織にくるまり、空になった粥椀を抱えて、その人の言葉を聞いていた。


「約束、でありんす」


小春は、そう言った。指切りをするように、小さな小指を差し出した。


薄雲は、その小指に自分の小指を絡めた。


「約束でありんす」


二つの小指が、暗い小部屋の中で、繋がった。



いつの間にか、小春は眠っていた。


粥椀を両手で抱えたまま、羽織にくるまって、眠っていた。


泣き疲れていた。歩き疲れていた。しかし眠れたのは、疲れのせいだけではなかった。隣に誰かがいたからだった。一人ではなかったからだった。あの温かい羽織と、あの優しい声が、小春を眠らせた。


薄雲は、その寝顔をしばらく見ていた。


蝋燭の光が揺れるたびに、小春の頬に影が動いた。小さな寝顔だった。涙の跡が頬に残っていた。しかし、その表情は穏やかだった。眠りの中で、母の夢でも見ているのかもしれなかった。あるいは、越後の家の夢を。弟や妹の夢を。


薄雲は、起こさないように、粥椀をそっと小春の手から取った。


小春は目を覚まさなかった。深い眠りだった。安心しきった眠りだった。


薄雲は何も考えていなかった。


ただ見ていた。


外で雪が降っていた。どこかで三味線が鳴っていた。廓の夜が更けていった。


しばらくして、薄雲は立ち上がった。


小春を起こさないように、そっと部屋を出た。戸を静かに閉めた。廊下を歩いた。自分の部屋へ戻った。


部屋に入り、白粉を落とした。


鏡の中に、綾乃の顔が戻ってきた。


綾乃は、長いあいだ忘れていた何かを思い出していた。あの夜のことだった。十年前の、自分が売られてきた夜のことだった。あの夜、誰も来なかった。誰も助けてくれなかった。一人で震えながら、夜を越えた。


もし、あの夜、誰かが来てくれていたら。


もし、あの夜、誰かが粥を食べさせてくれていたら。


もし、あの夜、誰かが「怖がらなくていい」と言ってくれていたら。


きっと、自分はもっと楽だった。


その「もし」を、小春に与えたのだと思った。自分が受け取れなかったものを、小春に渡したのだと思った。それで、何かが少しだけ報われた気がした。十年前の自分が、少しだけ救われた気がした。


不思議だった。


誰かに優しくすることが、こんなに自分を温めるとは思わなかった。情をかけることは、これまで、消耗でしかなかった。情をかければ、相手がいなくなった時に苦しむ。だから、深入りしないようにしてきた。


しかし、小春は違った。


小春に何かをするたびに、自分の中の冷えた場所が、少しずつ温まっていった。十年間、凍ったままだった場所だった。誰にも触れさせなかった場所だった。それが、あの小さな子供によって、溶かされていった。


窓の外で、雪が降り続けていた。


四角い空が、白かった。


その空を見ながら、薄雲は思った。いつか、あの子と二人で、本当の空を見たい。狭い空ではなく、果てのない空を。約束は、口から出まかせではなかった。本気だった。どうやって叶えるのか、まだわからなかった。しかし、本気でそう願っていた。


それは、十年ぶりに薄雲が抱いた、未来への願いだった。



翌朝から、小春の仕込みが始まった。


禿としての日々だった。掃除、洗い物、使い走り、芸事の稽古。小春は越後の生まれで、言葉に訛りがあった。廓言葉はなかなか身につかなかった。間違えるたびに、女中に叱られた。


朝は夜明け前から始まった。


布団を剥がされ、台所へ連れていかれた。米を研ぎ、飯を炊いた。冷たい水に手を浸すと、すぐに感覚がなくなった。越後の冬の水も冷たかったが、ここの水は別の冷たさだった。


掃除の仕方も、村とは違った。


廊下の拭き方、座敷の整え方、遊女の部屋への入り方。一つ一つに決まりがあった。決まりを破ると叱られた。小春は覚えるのに苦労した。何度も間違えた。何度も叱られた。


芸事の稽古は、もっと辛かった。


三味線は指が痛かった。弦を押さえるたびに、指先が切れた。舞は体が覚えなかった。型がなかなか身につかなかった。廓言葉は、訛りが抜けなかった。「ありんす」がうまく言えなかった。「ありゅんす」になった。そのたびに、頭を叩かれた。


小春は、何度も泣きそうになった。


しかし、泣かなかった。泣けば、薄雲に心配をかける。あの優しい人に、心配をかけたくなかった。だから、歯を食いしばって、稽古を続けた。


薄雲は、それを遠くから見ていた。


声をかけることはできなかった。花魁が一人の禿だけを特別扱いすれば、目立つ。目立てば、奥さんに目をつけられる。奥さんに目をつけられれば、小春が苦しむことになる。それを薄雲は知っていた。


だから、表向きは何もしなかった。


廊下ですれ違っても、目を合わせるだけだった。しかし、その目だけで、二人は通じ合っていた。頑張れ、と薄雲の目が言った。はい、と小春の目が答えた。それだけのやりとりが、毎日、廊下で交わされた。


しかし、夜になると違った。


人目のない夜、薄雲は小春を呼んだ。自分の部屋に入れて、廓言葉を教えた。掃除の仕方を教えた。叱られないための立ち回りを教えた。母が子に教えるように、姉が妹に教えるように、丁寧に教えた。


「ありんす、と言ってごらん」


「ありゅんす」


「違う。ありんす。舌をもっと前に」


「ありんす」


「そうだ。今のは良かった」


そんなふうに、夜ごとに教えた。


小春は覚えが早かった。


教えたことを、すぐに身につけた。次の日には、それができるようになっていた。薄雲はそれを見て、嬉しかった。自分が教えたことが、この子の役に立っている。それが嬉しかった。


ひと月もすると、小春は廓言葉をほぼ完璧に話せるようになっていた。


訛りも抜けた。女中に叱られる回数も減った。掃除も、洗い物も、人並みにできるようになった。芸事も、少しずつ上達した。


「ねえさん」


小春は、薄雲をそう呼ぶようになった。


最初は、何と呼べばいいのかわからなかった。薄雲さま、と呼ぶべきかと思った。花魁は、禿にとって雲の上の存在だった。気軽に呼べる相手ではなかった。しかし、ある夜、薄雲のほうから言った。「ねえさんでよいでありんす」と。だから、小春はそう呼んだ。


「ねえさん、ありがとう」


そう言われるたびに、薄雲の胸に温かいものが流れた。長いあいだ、薄雲は誰のためでもなく生きてきた。生き延びることだけを考えてきた。しかし今、誰かのために何かをしていた。誰かが自分を必要としていた。


それが、こんなに温かいものだとは、知らなかった。


孤独だった夜が、少しずつ変わっていった。


ひとりで自分の名前を呟く夜が、減っていった。代わりに、小春のことを考える夜が増えた。あの子は今日、うまくやれただろうか。叱られなかっただろうか。ちゃんと食べただろうか。眠れているだろうか。


そんなことを考えながら眠るようになった。


血の繋がりはなかった。生まれた土地も違った。しかし、薄雲にとって小春は、いつの間にか、ただの禿ではなくなっていた。


妹のような存在になっていた。



廓には、花扇という遊女がいた。


小春が来た頃には、花扇はもう盛りを過ぎていた。かつては扇松楼で幅を利かせた女だったと、廓の女中が話していた。客が離れ、格が落ち、今は階下の狭い部屋に移されていた。小春はその名前を、ひそひそ声の中で何度か聞いた。


ある日、小春は廊下で初めて花扇を見た。


化粧の濃い、痩せた女だった。かつては美しかったのだろうとわかる顔立ちだった。しかし目元に疲れが滲み、着物も以前ほど上等ではなかった。落ちていく途中の女の顔をしていた。


その花扇が、廊下で薄雲とすれ違った。


小春は薄雲の後ろを歩いていた。花扇は薄雲を見ると、足を止めた。そして、薄く笑った。


「ずいぶんと出世なさったねえ、薄雲さん」


声に棘があった。


「昔は物置で震えていた子が、今や呼出しだ。たいしたものさ。人の運なんてわからないものだねえ」


薄雲は立ち止まった。しかし顔色を変えなかった。


「花扇さんには、世話になりんした」


「世話だって」


花扇の口の端が歪んだ。


「よく言うよ。さんざん目障りだと思っていたくせに」


「思っておりんせん」


薄雲は静かに言った。


「あちきが禿の頃、花扇さんは廓で一番の売れっ妓でありんした。あの背中を見て、あちきは廓の歩き方を覚えんした。本当でありんす」


花扇は一瞬、言葉を失った。


何か言い返そうとして、口を開いた。しかし言葉が出なかった。皮肉を返すつもりが、相手が皮肉で受けてこなかった。拍子抜けしたような顔をして、花扇は目をそらした。


「……綺麗事を言うようになったね」


それだけ言って、花扇は廊下を歩いていった。痩せた背中が、階段の方へ消えた。


小春は、その一部始終を見ていた。


あの花扇という人は、ねえさんに嫌味を言った。明らかに、ねえさんを嫌っていた。昔いじめていたという話も、小春は聞いていた。物置に閉じ込めたのも、あの人だと。


それなのに、ねえさんは言い返さなかった。


蔑みもしなかった。むしろ、花扇を立てる言葉を返した。「あの背中を見て歩き方を覚えた」と。それが嘘か本当か、小春にはわからなかった。しかし、ねえさんの声に嘘はないように聞こえた。


「ねえさん」


二人きりになってから、小春は聞いた。


「どうして、あんなことを言われて、言い返さないんでありんすか」


薄雲はしばらく歩いてから、答えた。


「言い返して、何になりんす」


「でも、あの人はねえさんをいじめていたと」


「いじめられた。それは本当でありんす」


薄雲は廊下の窓の外を見た。


「でもな、小春。あの人も、昔は誰かの憧れだったんでありんす。今は落ちていく。落ちていく人を、もう一度蹴る必要はありんせん。吉原は、放っておいても人を落とす。あちきが手を貸すことはありんせん」


小春には、その言葉が、すぐには全部わからなかった。


しかし、何かが胸に残った。ねえさんは、自分をいじめた人すら、蔑まない。落ちていく人を、見下さない。それがどういうことなのか、まだ言葉にはできなかった。しかし、小春の中で、薄雲という人がまた少し、大きくなった。


それから、花扇は少しずつ廓から姿を見せなくなっていった。


座敷に呼ばれる数が減り、部屋から出てこなくなり、やがて見かけることもなくなった。落ちていく女の姿を、小春は遠くから見ていた。そして、その落ちていく女に最後まで冷たい目を向けなかったねえさんのことを、忘れなかった。



奥さんのお冬が、薄雲と小春のことに気づいたのは、しばらく経ってからだった。


お冬は賢い女だった。賢いから、薄雲が一人の禿に目をかけていることに、すぐに気づいた。薄雲が小春を見る目が、他の禿を見る目と違うことに、気づいた。


「あの越後の子、薄雲が可愛がっているそうだね」


お冬が女中にそう言っているのを、小春は廊下で聞いた。


「気をつけて見ておくんだよ」


その声の冷たさに、小春は身をすくめた。何かが始まる予感がした。悪いことが始まる予感がした。


お冬の差配が、小春に向いた。


小春の仕事が増えた。他の禿より多くの雑用を回された。同じことをしても、小春だけが叱られた。値打ちが見えるまでは余計なコストをかけない——かつて薄雲が経験したのと同じ、お冬のやり方だった。


それは、薄雲が小春に目をかけていることへの牽制でもあった。


稼ぎ頭が一人の禿に肩入れしすぎれば、見世の采配が乱れる。薄雲の情が深くなりすぎる前に、その子を特別扱いさせない。それがお冬の算盤だった。憎しみではなかった。商売の整理だった。お冬は薄雲に直接手を出さなかった。薄雲は稼ぎ頭だった。手を出せば商売に響く。だから、その采配は常に小春の側に向いた。


小春は、それを薄雲に言わなかった。


言えば、薄雲に迷惑がかかる。あの優しい人を、自分のことで困らせたくなかった。だから、一人で耐えた。叱られても、雑用が増えても、黙って耐えた。


しかし、薄雲は気づいた。


小春の顔色が悪いことに気づいた。手に新しいあかぎれが増えていることに気づいた。夜、部屋に来た小春の様子が、いつもと違うことに気づいた。


「何かあったのかえ」


薄雲が聞いた。


小春は首を振った。


「何もありんせん」


「嘘をおつき。あちきにはわかる」


小春は俯いた。しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと言った。


「奥さんが……あちきに、つらく当たりんす」


薄雲は、それを聞いて、しばらく黙っていた。


予想していたことだった。お冬がどう動くか、薄雲にはわかっていた。自分が大切にするものを、お冬は狙う。それが、お冬のやり方だった。かつて自分がされたことだった。そして今、小春が同じ目に遭っていた。


その夜、小春は薄雲にそのことを話した。


薄雲は少し考えてから、言った。


「大丈夫でありんす。あちきがついておりんす」


「でも、ねえさんに迷惑が」


「迷惑じゃありんせん」


薄雲は、小春の頭を撫でた。


「お前はあちきの妹分でありんす。何があっても、あちきが守りんす。だから、心配しなくていいでありんす」


小春は、薄雲を見上げた。


その目が、優しかった。揺るぎない目だった。本気でそう思っている目だった。小春は、その言葉を信じた。何があっても、ねえさんが守ってくれる。そう信じた。


「はい」


小春は頷いた。


翌日、薄雲はお冬のところへ行った。


何を話したのか、小春は知らなかった。しかし、その日からお冬の締め付けが少し緩んだ。完全になくなったわけではなかった。しかし、露骨なものは減った。


後で小春は、薄雲が何をしたのかを知った。


薄雲は、お冬に取引を持ちかけたのだった。小春に手を出さない代わりに、薄雲は新しい上客を一人、見世に引き入れると約束した。住吉屋の文左衛門という男だった。廻船と海運を手広く商う、幕府御用達の豪商だった。その文左衛門を、扇松楼の馴染みにすると。それはお冬にとって、断れない取引だった。住吉屋ほどの大店が付けば、見世の格が上がる。金になる話だった。


薄雲は、自分の価値を使って、小春を守ったのだった。


小春がそれを知ったのは、ずっと後のことだった。知った時、小春は泣いた。ねえさんは、自分のために、そんなことまでしてくれていた。その事実が、小春の胸に深く刻まれた。


その住吉屋文左衛門が、後に小春の運命を大きく変えることになる。しかしそれは、まだ遠い先の話だった。この時の小春は、文左衛門の名前すら知らなかった。ただ、ねえさんが自分を守ってくれたという事実だけが、胸にあった。


その夜から、小春は決めた。


いつか、この恩を返す。ねえさんが自分にしてくれたことを、いつか、必ず返す。今は何もできない。ただの禿で、何の力もない。しかし、いつか力を持ったら、必ず返す。


それは、八つの子供が立てた、小さな誓いだった。


しかしその誓いが、これから始まる長い年月の果てに、どんな形で果たされることになるか――この夜の小春は、まだ知らなかった。


外では、雪が降っていた。


しかし小春は、もう寒くなかった。あの最初の夜のような、凍えるような寒さは、もうなかった。隣に、ねえさんがいた。それだけで、冬の寒さが、和らいでいた。


いつか、二人で空を見よう。


あの約束を、小春は毎晩思い出した。


いつか、ここを出て、広い空を見る。ねえさんと二人で。それがどれほど難しいことか、まだ知らなかった。しかし、その約束があるだけで、明日も生きていける気がした。


二つの小指が絡んだ、あの感触を、小春は覚えていた。


あの感触が、これから何度も、小春を支えることになる。辛い時、苦しい時、あの夜のことを思い出せば、前を向けた。一人ではない。ねえさんがいる。約束がある。


雪が、静かに降り積もっていた。


窓の外の、四角い空に。


その空の向こうに、いつか見るはずの、広い空があった。


まだ見ぬ、本当の空が。



―第四話 了―



第四話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は小春と薄雲の出会いを書きました。


この物語の中で、二人の関係はとても重要な軸になります。


血の繋がりはなくても、人は家族のような存在に出会うことがあります。

絶望しかなかった夜に差し出された一杯の粥。

その温かさが、後の人生を支えることもあります。


「いつか二人で空を見る」


この約束は小春にとって希望になり、同時に薄雲自身を支える願いにもなっていきます。


ここから先、吉原という場所の厳しさはさらに色濃く描かれていきます。

それでも二人がどう生きるのか、見守っていただければ嬉しいです。


次話もよろしくお願いいたします。

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