第三話 薄雲
いつもお読みいただきありがとうございます。
第三話をお届けします。
今回は薄雲が花魁として頂点へ上り詰めていく一方で、その裏にある孤独や喪失を描いています。
どうぞ最後までお楽しみください。
年が明けた。
仲之町の大路に松飾りが並び、廓の中も正月の装いになった。遊女たちが新しい着物を着て格子の前に座り、客を迎えた。普段より豪華な着物だった。普段より明るい笑い声だった。正月の吉原は外からやって来る者の数も多く、三味線の音が昼間から響いた。
正月といっても、禿や遊女に休みはなかった。
むしろ忙しくなった。客が増えるぶん、仕事も増えた。それでも正月の空気は、廓の中にもわずかに流れ込んできた。普段は出されない餅が出た。女中の言葉も、いつもより少し柔らかかった。
綾乃は十三になっていた。
禿を卒え、新造として店に出る齢になっていた。三味線の腕は師匠が認め、舞の型も固まり、読み書きは廓の誰よりも達者だった。善兵衛が言っていた「賢い子は花魁になれる」という言葉が、現実味を帯び始めていた。仏の善兵衛の目は、嘘をつかなかった。
新造に上がる時、善兵衛が名前をくれた。
「薄乃と名乗りなさい。薄いに乃の字だ」
雫から、薄乃へ。朝霧がつけた禿名を、善兵衛が次の段へ引き上げた。綾乃にはその意味の重さがまだわからなかった。ただ、おとっさんがくれた名前だと思った。それだけで嬉しかった。
その年の春、薄乃として初めて座敷に出た。
座敷に上がる前夜、善兵衛が言った。
「お前は吉原一の花魁になれる。私はそう思っている」
薄乃は黙って聞いていた。
「だから焦るな。急がなくていい。ただし手を抜くな」
「はい」
「お前の力を出し切れる座敷を用意する。あとはお前次第だ」
翌朝、鏡の前に座った。
白粉を塗る女中の手が、額から頬へと動いた。唇に紅を引いた。髪に簪を挿した。着物を重ねた。帯を締めた。
完成した顔を鏡で見た。
知らない顔だった。
綾乃ではなかった。村から売られてきた少女でもなかった。禿として年月を稽古に費やした子供でもなかった。鏡の中に映っていたのは、薄乃という別の人間だった。
その顔が、少し恐ろしかった。
しかし同時に、これが生き延びるための顔だと思った。この顔をつければ、何があっても綾乃には届かない。薄乃が傷を受けても、綾乃は傷つかない。鎧だった。守るための鎧だった。
初めての座敷は緊張した。
客は五十がらみの商人だった。笑顔の多い男で、薄乃を緊張させないように気を使っていた。三味線を弾いた。客が褒めた。歌を詠んだ。客が目を細めた。廓言葉で話した。客が笑った。
二刻ほどで座敷が終わった。
廊下に出ると、膝が少し震えていた。恐怖ではなかった。体が緊張から解放された震えだった。大きく息を吐いた。やれた、と思った。やれた。
その夜、部屋に戻って白粉を落とすと、鏡の中に綾乃が戻った。
綾乃は泣きそうな顔をしていた。しかし泣かなかった。泣く必要はなかった。やれた。今夜はそれで十分だった。
それから幾度も座敷に出た。
慣れていった。慣れるほど、腕が上がった。腕が上がるほど、客が増えた。
薄乃として座敷に出るようになって、半年ほど経った夜のことだった。
廓が騒がしくなった。下働きの男たちが廊下を走った。怒鳴り声がした。何事かと部屋を出ると、女中が「お糸が逃げた」と言った。
足抜けだった。
お糸は、綾乃と同じ日に売られてきた少女だった。一緒に廓言葉を覚えた。一緒に夜を越えた。あのお糸が、大門を抜けようとした。
捕まったのは、明け方だった。
お糸は塀を越えようとして、落ちた。足を痛めて動けなくなっているところを、見回りの男に見つかった。引きずられるように連れ戻された。
薄乃は廊下の隅から、それを見ていた。
お糸の着物は泥にまみれ、髪は乱れ、片足を引きずっていた。顔には何の表情もなかった。捕まった恐怖も、逃げ損ねた悔しさも、何もなかった。ただ、空っぽの目をしていた。
二人の目が合った。
お糸は薄乃を見た。しかし何も言わなかった。誰だかわからないような目だった。あるいは、わかっていて、何も言うことがなかったのかもしれなかった。
足抜けの罰は重かった。
お糸はしばらく蔵に入れられた。出てきた時には、別人のようになっていた。痩せて、口数が減って、笑わなくなった。やがて借金の都合で、別の妓楼へ移された。会うことは、もうなかった。
薄乃は、お糸の最後の目を忘れられなかった。
あの空っぽの目に、なってはいけないと思った。逃げて、捕まって、心を失う。そうなる前に、逃げなくてもいい場所まで、自分の力で上がる。それしかなかった。逃げ場のないこの檻の中で、ただ上を目指すこと。それだけが、お糸のようにならない道だった。
その冬、花扇が落ちた。
長年、扇松楼で幅を利かせてきた花扇だったが、近頃は客が離れ始めていた。歳のこともあった。気の強さが嫌われたこともあった。馴染みの客が次々と若い遊女に移っていった。
ある日、最後まで残っていた上客が、別の見世の花魁に鞍替えした。
花扇の格は、そこで落ちた。
呼出しから座敷持ちへ、座敷持ちから、さらに下へ。お冬は容赦しなかった。稼がない遊女に良い部屋を与える理由はなかった。花扇は階下の狭い部屋へ移された。
薄乃は、花扇とすれ違った。
かつて自分をいじめ、物置に閉じ込めた女だった。その花扇が、荷物を抱えて階段を降りていく。薄乃を見た。睨むかと思った。しかし花扇は、目をそらした。睨む気力もないようだった。
薄乃は何も言わなかった。
恨みはあった。しかし、落ちていく者を蹴る趣味はなかった。ただ、見ていた。吉原が人をどう扱うかを、また一つ、目に焼き付けた。売れれば上がり、売れなければ落ちる。それだけの場所だった。
花扇の転落を見て、お冬が動いた。
ある夕暮れ、薄乃はお冬に呼ばれた。
部屋に入ると、お冬が帳面を前に座っていた。しばらく薄乃を見ていた。値踏みする目だった。しかし以前の、まだ値打ちの見えない禿を見る目とは違った。何かを認める目だった。
「お前、今日から薄雲と名乗りな」
薄乃は顔を上げた。
「薄雲、でありんすか」
「そうだ。由緒ある名跡だよ。昔、この見世にいた名妓が名乗った名だ。雲の名は、認められた者しか継げない」
お冬はそれだけ言った。なぜ自分にその名を与えるのか、説明しなかった。ただ、名前を与えた。それだけだった。
薄乃は——薄雲は、頭を下げた。
「ありがたく頂きんす」
部屋を出て、廊下を歩いた。
薄雲。空に浮かぶ、薄い雲。その名が、今日から自分のものになった。
お冬が認めた、ということだった。あの、算盤でしか人を測らない女が。感情を見せない女が。名前を与えることで、薄乃の値打ちを認めた。お冬は決してそう口にしなかった。ただ名前をつけた。それだけだった。しかし薄雲には、それがわかった。
窓の外に、夕暮れが見えた。灯籠に火が入り始めていた。
雫から、薄乃へ。薄乃から、薄雲へ。
三つの名前を経て、綾乃は吉原の花魁への道を歩き始めた。
慣れるほど、腕が上がった。腕が上がるほど、客が増えた。客が増えるほど、孤独が深くなった。
年月が流れた。桜が散り、蝉が鳴き、枯葉が舞い、また雪が降った。薄雲は座敷に出続け、客を増やし続けた。十三で薄乃になった少女は、いつしか扇松楼で名の知れた花魁になっていた。
その秋、薄雲は十九になっていた。
秋の吉原は菊の花が仲之町に飾られ、客が増える季節だった。月見の宴、紅葉の宴、名目はどうでも良かった。男たちが来て、女たちが座敷に出た。繰り返しだった。
夜ごとに三味線を弾いた。
弦を弾くたびに、その音が以前と少し違うと感じた。文人が言った通りだった。悲しい音になっていた。何十回弾いても、悲しい音が出た。消そうとしても消えなかった。
それでいいと思った。
悲しい音が出るということは、まだ自分の中に何かが残っているということだった。感じることのできる何かが、まだあるということだった。お糸のように空っぽになっていなかった。それだけで十分だった。
別の見世へ移されたお糸のことを、薄雲は時々思い出した。あの子は今、どんな目をしているだろうかと。あの空っぽの目のままだろうか。それとも、まだ何かを残しているだろうか。わからなかった。確かめる術もなかった。
冬が近づいていた。
空気が冷たくなった。夜明けの廊下が、素足に冷たかった。吉原の冬は長い。冬になると雪が降る。雪が降ると客が増える。雪の吉原は美しいと、外の人間は言う。
薄雲にとって、雪は十年前の記憶だった。
雪の中を歩いた記憶だった。故郷を離れた日の記憶だった。吉原に着いた夜の記憶だった。あの夜から十年が経っていた。しかし雪を見るたびに、あの夜が戻ってきた。
十九を過ぎて、薄雲はさらに上がった。
座敷持ちから呼出しへ。呼出しというのは、花魁の中でも最上位の格だった。茶屋を通じてのみ指名できる、吉原でも選ばれた者だけがなれる位置だった。
呼出しになった日、善兵衛が言った。
「やったな」
それだけだった。しかしその声に、善兵衛が本当に喜んでいることが伝わった。薄雲は頭を下げた。
お冬は何も言わなかった。
その沈黙が、言葉よりも重かった。以前のような締め付けは止んでいた。薄雲が売れれば売れるほど、廓の稼ぎは増えた。お冬も商売人だった。商売の邪魔はしなくなった。しかし薄雲への目は変わらなかった。冷たいまま、遠いままだった。
そのことが薄雲には、かえって楽だった。余計な手を入れられるより、遠くから算盤を弾かれているほうが動きやすかった。
その日の夜、廊下で朝霧とすれ違った。
朝霧は、薄雲が禿だった頃から変わらなかった。相変わらず、人に目を向けなかった。挨拶しても返さなかった。才のある者だけが見える目で、廓を歩いていた。薄雲が呼出しになっても、何も言わないだろうと思っていた。
しかしその夜、朝霧は立ち止まった。
薄雲も立ち止まった。二人は廊下で向かい合った。かつて、雫という名を授けた女と、その名から始まって最上位まで上がった女が、向かい合った。
朝霧はしばらく薄雲を見ていた。それから、低い声で言った。
「いい音を出すようになった」
それだけだった。
薄雲は、その言葉の意味を、すぐには受け止めきれなかった。朝霧が、人を認める言葉を口にした。あの朝霧が。誰にも目を向けない朝霧が。薄雲を見て、いい音を出すようになった、と言った。
「ねえさんに、教えていただいたおかげでありんす」
薄雲は頭を下げた。ねえさんと呼んだのは、その時が初めてだった。
朝霧は、それには答えなかった。ただ、ほんの少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれなかった。あるいは、何でもなかったのかもしれなかった。そのまま、廊下を歩いていった。
薄雲は、その背中を見ていた。
長いあいだ、なぜ朝霧が自分にだけ稽古をつけてくれたのか、わからなかった。今もわからなかった。しかし、あの一言だけで、これまでの年月が報われた気がした。
朝霧が授けた雫という名。その名がどこから来たのかも、薄雲はまだ知らなかった。先代薄雲の禿名だったことも、知らなかった。ただ、あの細い背中が、自分をここまで連れてきてくれたのだということだけは、わかっていた。
呼出しになると、花魁道中が義務になった。
客の元へ向かう時は、禿と新造を従えて仲之町を歩いた。三枚歯の高下駄を履き、豪華な打掛を幾枚も重ね、八文字を踏んで進んだ。見物の人垣が割れた。
最初の花魁道中の日、薄雲は下駄の上で一瞬揺れた。
高すぎた。しかし体が覚えていた。稽古で何百回も繰り返した動きが、体の奥から出てきた。一歩ごとに確かめながら歩いた。仲之町を歩きながら、見物の顔が見えた。
息をのんでいる顔だった。見惚れている顔だった。
あの男たちは夢を見ている。
自分はその夢を売っている。
そのことを、頭ではなく体で理解した瞬間だった。夢を売るのが花魁の仕事だった。その夢の質が高ければ高いほど、価値が上がる。価値が上がれば、生き延びられる。
薄雲は正面を向いたまま歩き続けた。
道中が終わると、廓に戻った。
後ろを歩いていた禿の一人が、石畳に躓いて転んだ。膝を打った。泣きそうな顔をした。しかし泣けなかった。道中の途中で泣くことは許されなかった。
薄雲は立ち止まった。
禿の手を引いた。
「大丈夫でありんすか」
禿は驚いた顔をした。花魁が自分に声をかけるとは思っていなかった。
「はい、大丈夫です」
「痛かったでありんしょう。よく泣かなかった」
それだけ言って、また歩いた。
廓の中で情けをかけることが、薄雲には生き方の一部になっていた。意識してやっているわけではなかった。ただやっていた。弱い者が目に入ると、体が動いた。それだけだった。
別のある日、若い遊女が高熱を出した。
座敷に出なければならない夜だった。しかし熱が高く、立っているのがやっとだった。女中は「気合いで出ろ」と言った。
薄雲が通りかかった。
「熱が出ているのに座敷に出すのか」
「商売ですから」
「善兵衛に話す」
善兵衛に話すと、善兵衛はその夜の座敷を断った。遊女は一夜休んだ。熱が下がった翌日、遊女が薄雲に礼を言いに来た。
「ありがとうございます」
「次は私が具合が悪い時に助けてもらいんす」
そんなことを言いながら、薄雲は思っていた。自分が具合の悪い時に誰かが助けてくれるとは、思っていなかった。ただ言葉としてそう言っただけだった。
しかしその遊女は翌年、局へ送られた。また一人いなくなった。また一人を、薄雲だけが覚えていた。
十七を過ぎた頃から、客の質が変わった。
大店の旦那衆、諸藩の藩士、文人墨客。江戸中の評判を取る客たちが、次々と薄雲を指名した。茶屋を通じた指名の数は、吉原の他の花魁を大きく引き離した。扇松楼の看板は、いつしか薄雲ひとりが背負うようになっていた。見世の名を聞けば薄雲を思い、薄雲の名を聞けば扇松楼を思う。そういう花魁になっていた。
善兵衛が言った。
「一週間先まで埋まっている」
「そうでありんすか」
「江戸で薄雲を知らない者はいないと言われ始めている」
薄雲は黙って聞いていた。嬉しくなかった。嬉しくない自分に、少し驚いた。売れれば嬉しいはずだった。しかし嬉しいという感情の代わりに、別の何かがあった。重いものが、胸の奥に沈んでいた。
江戸で薄雲を知らない者はいない。しかし綾乃を知る者は、もうほとんどいない。
どちらが本当の自分か。
もうわからなかった。
座敷での薄雲は完璧だった。
客に合わせて話を変えた。商人には商いの話を混ぜ、武士には剣の話を聞き、文人には詩の話をした。どの客も「自分のことをわかってくれる」と感じた。実際にわかろうとしていた。理解しようとすることが、最大の礼だと思っていた。
ある夜、常連の豪商が言った。
「薄雲は他の花魁と違う。客の話を聞く」
「皆さん、おもしろいお話をなさりんす」
「そうは思っていないだろう」
薄雲は少し笑った。
「半分は本当でありんす」
客も笑った。その笑いが本物だと、薄雲にはわかった。作り笑いではなかった。自分でも少し驚いた。座敷の笑いに本物が混じることが、まだあった。
それが嬉しかった。
別の夜、文人が言った。
「お前の三味線は、他の遊女のとは違う」
「どう違いんすか」
「悲しい音がする」
薄雲は答えなかった。
「悲しいというのは、けなしているのではない。深い音がするということだ。人生を知っている音だ」
薄雲はその言葉を、座敷を出た後も引きずった。
人生を知っている音。
禿に入ってすぐの頃から、三味線を握り続けてきた。指先が切れ、皮が張り、何年も弾き続けてきた。しかし音が変わったのはいつだろうかと思った。稽古の量ではなかった。何かが変わった瞬間があったはずだった。それがいつかはわからなかった。しかし確かに変わっていた。
悲しい音がする、と言われたことが、薄雲には誉め言葉に聞こえた。
悲しくない音よりも、悲しい音のほうが、誠実だと思った。
善兵衛が言った。
「繁盛している。ありがとう」
「ありがとうと言われることでありんすか」
「稼いでくれているということだ。お前がいなければ、この廓はもっと苦しかった」
それが善兵衛の言い方だった。感謝を損得の言葉で包んで伝えた。しかし薄雲にはわかった。善兵衛が言いたいのは損得だけではなかった。それでも損得の言葉しか使えない男だった。それでいいと思っていた。
座敷が終わると、薄雲は白粉を落とした。
鏡の中に綾乃が戻った。
その繰り返しだった。座敷の中では薄雲だった。部屋に戻ると綾乃だった。どちらが本当の自分かは、もうわからなかった。長く生きていると、二つの顔の境界が薄れてくる。薄雲の顔をした綾乃が、廊下を歩いていた。
しかし座敷の外では、薄雲は別の人間だった。
廊下で若い禿と会えば、立ち止まって話しかけた。悩んでいる新造がいれば、さりげなく話を聞いた。具合の悪い遊女がいれば、善兵衛に伝えた。それが評判になった。
吉原一の花魁が、誰よりも情け深い。
廓の中の女たちは、薄雲のその姿を見ていた。見て、覚えていた。
あの評判が自分を守るとは、薄雲は思っていなかった。ただやるべきことをやっているだけだった。弱い者を見捨てることが、自分にはできなかった。それだけだった。
ある夜、座敷の後で廊下を歩いていると、物音がした。物置の方向だった。
立ち止まって耳をすませると、鼻をすする音がした。戸を開けると、暗がりの中に禿が一人いた。膝を抱えて座っていた。頬が赤く腫れていた。
「誰にやられた」
禿は答えなかった。
「女中か」
禿はわずかに頷いた。
薄雲は黙ってそこに座った。何も言わなかった。ただ隣にいた。しばらくして、禿は少し体を緩めた。
「名前は」
「おこよ、と申します」
「いつ来た」
「先月でありんす」
まだ一ヶ月だった。薄雲は何も言わなかった。言えることがなかった。慣れれば楽になると言うことはできた。しかしそれが本当かどうか、わからなかった。慣れることで、何かを失った。慣れることは、傷つかなくなることではなく、傷を感じなくなることだった。
それを教える必要はなかった。いずれ自分でわかる。
おこよは次第に泣き止んだ。やがて立ち上がり、「お休みなさいませ」と言った。薄雲は頷いた。おこよが廊下へ出ていった。その背中が、小さかった。
しかし一つのことが、薄雲の中で育っていた。
孤独だった。
客は多かった。指名は途切れなかった。座敷では笑っていた。しかし座敷が終わり、白粉を落とし、一人になると、どこへも行き場のない静けさが降りてきた。その静けさは重かった。
誰かに本音を言えなかった。
善兵衛には感謝していたが、善兵衛は商売人だった。薄雲が売れるから育てた。その事実は変わらなかった。お冬は遠かった。他の遊女たちは仲間だったが、商売敵でもあった。誰に何を話せばいいのか、わからなかった。
吉原の中で生まれた友情というものを、薄雲は信じてはいなかった。
信じたかった。しかし信じる前に、その人間がいなくなった。売れなくなった遊女が局へ送られた。年季が明けた遊女が廓を出た。体を壊した遊女が消えた。吉原では、関係は長続きしなかった。続けようとしても、制度が壊した。
だから一人でいるのが、最も安全だった。最も楽だった。最も孤独だった。
孤独というのは、誰もいないことではなかった。
座敷には毎夜客がいた。廊下には遊女や禿がいた。廓には人が溢れていた。しかし誰も薄雲の本名を知らなかった。綾乃という名前を呼ぶ者がいなかった。この世界で薄雲は有名だった。しかし綾乃は誰も知らなかった。
それが孤独の正体だった。
誰かに話したかった。
ただ話したかった。廓言葉を使わずに。薄雲の顔をせずに。ただ綾乃として、誰かと話したかった。
しかしそんな相手がいなかった。
吉原にいる限り、そんな相手ができるとも思えなかった。
ひとりになった夜、薄雲は時々自分の名前を呟いた。
綾乃、と。
誰にも聞こえないほどの声で。村で呼ばれていた名前だった。幸太郎がうまく言えなかった名前だった。その名前だけが、今でも薄雲を綾乃に戻してくれた。
父のことを考えた。母のことを考えた。幸太郎のことを考えた。
村へ仕送りは続けていた。善兵衛が取り次いでくれた。金が届いているかどうかは確かめられなかった。届いていれば、幸太郎は今ごろ十二になっているはずだった。元気かどうか、わからなかった。知る術がなかった。
そのことが、時々無性に苦しかった。
一度だけ、善兵衛に頼んだことがあった。
「故郷への手紙を届けてもらえますか」
善兵衛は少し考えてから言った。
「難しい」
「なぜでありんすか」
「遊女が廓の外と手紙をやりとりすることは、原則として認められていない。混乱を防ぐためだ」
「家族への手紙でも」
「例外は作れない。そういう決まりだ」
善兵衛の声は申し訳なさそうだった。しかし覆せなかった。それが吉原の決まりだった。
薄雲は何も言わなかった。頭を下げて、部屋に戻った。
その夜、窓から空を見た。どこかに幸太郎がいる。同じ空の下にいる。しかし届かない。声も届かない。手紙も届かない。金だけが届く。それが今の自分にできることの全てだった。
大門の外へ出てみたいと思ったことは、数えきれないほどあった。
ここから出て、江戸の街を歩いてみたい。川を見たい。市の喧騒を聞きたい。空が広いところに立ちたい。
しかしそれは許されなかった。
吉原の外へ出られる機会は、観音様への参詣と火災の避難だけだった。病で死んでも、大門からは出られなかった。不浄門と呼ばれる裏口から、密かに棺桶が出ていく。それが吉原を出る最後の方法だった。
薄雲は窓の外を見た。
格子越しに、空が見えた。四角い空だった。塀と塀の間に切り取られた、狭い空だった。ここからはいつもこの空しか見えなかった。広い空を、薄雲は覚えていなかった。村にいた頃の空を、もう思い出せなかった。
あの頃の空はどんな色だったのだろう。
どこまでも続く空だったはずだった。しかしもうわからなかった。
外に出る道が、ひとつだけあった。
身請けだった。客が金を積み、証文を買い取り、女を廓から連れ出す。年季の明けない女が大門の外へ出られる、ただひとつの道だった。薄雲ほどの花魁になれば、その話は幾度も持ち上がった。大店の主が、藩の重役が、それとなく身請けの意を匂わせた。広い空の下へ連れ出してやる、と。
しかし薄雲は、そのたびに、やんわりと話を逸らした。
外へ出たい。広い空を見たい。あれほど願っているのに、いざ手が届きそうになると、薄雲の足は動かなかった。誰かに連れ出された外の世界に、自分の居場所があるとは思えなかった。檻の鳥が、籠の戸が開いても飛び立てないのと、似ていたのかもしれない。あるいは、まだここに、置いていけない何かが残っている気がしたのかもしれない。それが何なのか、この頃の薄雲には、まだわからなかった。
廓の遊女で、局に送られた女がいた。
名をお梅といった。三十がらみの女で、かつては座敷持ちだった。客が途切れ始めた頃から、体の具合が悪くなっていった。咳が続いた。頬が削げた。それでも座敷に出た。出続けた。
局へ移ったのは、ある春の朝のことだった。
薄雲が廊下を歩いていると、お梅の部屋の前に荷物が積まれていた。女中が運び出していた。部屋の戸が開いていて、お梅が中で座っていた。薄雲と目が合った。お梅は何も言わなかった。薄雲も何も言えなかった。
その日の夕方、お梅はいなくなっていた。
それから半年後、お梅の名前を口にする者はいなくなった。
吉原はそういう場所だった。いつまでも同じ場所にいられない。売れている間だけ居場所があり、売れなくなれば消えていく。消えた者の名前は、すぐに忘れられた。
忘れてはいけないと思った。薄雲はそう思い続けていた。消えていった者たちの顔を、名前を、忘れてはいけないと思った。自分だけは覚えておく。それが、ここで生きていく者にできる唯一のことだった。
十九の冬のことだった。
雪が降った。
吉原は雪の夜でも動いていた。客が来た。三味線が鳴った。灯籠の灯が、降り続ける雪を照らした。仲之町の大路は白く埋まり始めていたが、それでも男たちが歩いていた。雪の吉原は風情があると言われ、かえって客が増えることもあった。
薄雲はその夜、大座敷で三時間の宴をやり終えた。
宴に出ていた客は五人だった。大店の旦那、藩士二人、文人一人、それから初めての客が一人。初めての客は三十がらみの若い商人で、緊張していた。薄雲は意識してその客に話しかけた。緊張が解けると、男は笑った。素直な笑い方だった。
宴が終わり、薄雲は廊下を歩いていた。
豪華な打掛を着たままだった。座敷から出た直後はまだ薄雲だった。部屋に戻って白粉を落とすまで、薄雲であり続けた。
廓は深夜の音をしていた。どこかで笑い声がした。遠くで三味線が鳴っていた。雪が屋根を打つ音がした。
玄関の方向から、声がした。
大人の男の声と、子供の泣き声だった。
薄雲は足を止めた。
泣き声の質を知っていた。故郷から売られてきた子供が吉原に着いた夜の泣き声だった。十年前の自分の声に似ていた。声が出なかった代わりに、誰かがあの声を出してくれていたとしたら、こんな声だっただろうと思うような泣き声だった。
廊下の端から玄関の方向を見た。
女衒がいた。自分を売った男とは違ったが、同じ種類の男だった。旅塵で汚れた着物を着て、帳面を持っていた。顔は丸く、笑うと目が細くなった。商売の笑い方をする男だった。
その後ろに、小さな体があった。
少女だった。
着の身着のままで、雪に濡れていた。泣いていた。声を上げて泣いていた。肩が細かった。薄雲より遥かに小さかった。十にもなっていないだろうと思った。七、八といったところか。
女中が近づいた。少女を連れていこうとした。
少女は抵抗した。女中の手を振りほどこうとした。しかし子供の力では抵抗にならなかった。引きずられるように廊下を連れていかれた。
泣き声が遠くなった。
薄雲はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
あの子は今夜、あの暗い部屋に押し込められる。食べ物もなく、薄い布団一枚で震えながら夜を過ごす。自分があの夜に感じた恐怖を、あの子も今夜感じる。
やめろと言えなかった。
言える立場ではなかった。吉原に売られてくる子供を止める術が、薄雲にはなかった。どれだけ稼いでいても、善兵衛が何をするかに口を出せる立場ではなかった。
雪が降り続けていた。
廊下の端の窓から、雪が見えた。白い雪が、灯籠の光の中を落ちていた。
あの子の名前は何というのだろう。
どこから来たのだろう。親はいるのか。
薄雲はそれを知る術がなかった。知ったところで、何もできなかった。
ただ、あの泣き声が頭から離れなかった。
自分の泣き声だと思った。十年前の夜、声が出なかった代わりに、あの子が泣いていた気がした。
薄雲は自分の部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、あの子が連れていかれた方向を、一度だけ振り返った。廊下の奥だった。暗かった。声はもう聞こえなかった。
部屋に入り、白粉を落とした。
鏡の中に、綾乃の顔が戻ってきた。
薄雲は少しの間、その顔を見ていた。
あの子は今夜を越えられるだろうか。来月を越えられるだろうか。来年を越えられるだろうか。わからなかった。わからないまま、窓から外を見た。雪が降り続けていた。四角い空が白かった。
その時、廊下を歩く足音がした。
小さな足音だった。女中が少女を連れていく音だった。近づいてきた。部屋の前を通った。
足音が止まった。
薄雲は部屋の戸を細く開けた。
廊下に少女がいた。
女中に連れられていく途中だった。女中が少し前を歩いていた。少女は立ち止まって、顔を上げていた。
薄雲と目が合った。
少女の目が赤かった。泣き腫らした目だった。頬に涙の跡があった。濡れた着物から水が滴っていた。寒そうだった。怖そうだった。肩が小刻みに震えていた。
しかしその目が、薄雲をまっすぐ見た。
子犬のような目だった。助けを求めているのか、ただ人の顔を探しているのか、わからなかった。しかし目が合った瞬間、少女の泣き声が小さくなった。
女中が振り返った。「早く来い」と言った。
少女はもう一度薄雲を見た。それから女中の後についていった。
薄雲は戸を閉めた。
胸の中に何かが残った。
あの目だ、と思った。十年前の自分の目だった。怖くて、寒くて、それでも誰かを探している目だった。
そして、あの目を見て泣き声が小さくなった瞬間のことが、頭から離れなかった。人の顔を見て、少し安心したような目だった。あんな目で見られたのは、初めてだった。客は薄雲を見る。しかし薄雲を見ているのではなく、薄雲という花魁を見ていた。あの少女は違った。花魁を見ていなかった。ただ、人を見ていた。一人の人間を、探すように見ていた。
それが、薄雲の中の何かを動かした。
あの目の子を、一人にしておくことができなかった。
薄雲は少し考えた。それから部屋を出た。台所へ向かった。
深夜の台所は暗かった。蝋燭を一本持ってきていた。その光で残り物を探した。粥の鍋があった。火が消えていたが、まだ温かかった。鍋を火にかけた。温め直した。器に移した。
なぜこんなことをしているのか、薄雲自身もわからなかった。
吉原に売られてくる子供は、毎年何人もいた。その全員を助けることはできなかった。今までも助けてこなかった。泣いている子がいても、自分にできることは限られていた。だから深く関わらないようにしてきた。関われば情が湧く。情が湧けば苦しくなる。苦しくなれば、自分が保てなくなる。
それでも今夜は、体が動いていた。
あの目のせいだった。廊下で目が合った、あの子の目のせいだった。十年前の自分の目だった。あの目を見てしまったら、もう放っておけなかった。
それから廊下を歩いた。少女が連れていかれた方向へ。
廊下の端に、使われていない小部屋があった。禿を押し込めておく部屋だった。自分が最初の夜に入れられたのと同じような部屋だった。扉の前に立った。
中から音がした。
息をのむような音だった。泣いていたのを、薄雲の足音を聞いて止めようとしている音だった。
「怖がらなくていい」
扉越しに、低い声で言った。
しばらく間があった。それから扉が細く開いた。
少女の目が見えた。暗がりの中で、目だけが光っていた。赤かった。
「おいで」
扉を少し広く開けると、少女は一歩踏み出した。着物がまだ湿っていた。小さく震えていた。
薄雲は器を差し出した。少女は見た。しばらく見てから、両手で受け取った。粥を食べた。食べながら、また泣き始めた。しかし声は上げなかった。静かに泣きながら食べた。
薄雲は隣に座った。何も言わなかった。ただいた。ただそこにいた。
この子の名前も、まだ知らなかった。
しかし、もう放っておけなかった。
少女が粥を食べ終えると、薄雲は空いた器を受け取った。少女はまだ震えていた。寒さなのか、恐怖なのか、両方なのか、わからなかった。薄雲は着ていた羽織を脱いで、少女の肩にかけた。豪華な羽織だった。座敷で着るための羽織だった。それを、雪に濡れた小さな子供の肩にかけた。
少女が薄雲を見た。
何か言いたそうな顔をした。しかし言葉にならなかった。代わりに、また涙が落ちた。今度は静かな涙だった。怖くて流す涙ではなく、何か温かいものに触れた時の涙だった。
薄雲はその涙を見た。
胸の奥が、少し痛んだ。痛みの正体はわからなかった。しかし悪い痛みではなかった。長いあいだ忘れていた何かが、戻ってこようとしている痛みだった。
雪が降り続けていた。窓の外で、白い雪が、音もなく積もっていた。
その夜、薄雲は久しぶりに、一人ではなかった。
―第三話 了―
第三話をお読みいただき、ありがとうございました。
この話では、薄雲が吉原でも指折りの花魁へと成長していく姿を描きました。
しかし、多くの人に求められるようになればなるほど、彼女自身は孤独になっていきます。
誰もが「薄雲」を知っていても、「綾乃」を知る者はいない。
今回描きたかったのは、そんな成功の裏側でした。
そして物語の終盤、薄雲は一人の少女と出会います。
その少女との出会いが、これから先の物語を大きく動かしていくことになります。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




