第十四話 大門の外
皆さま、いつもお読みいただきありがとうございます。
第十四話をお届けいたします。
八つで売られ、吉原で生きてきた一人の少女がおりました。
雫と呼ばれ、薄乃と呼ばれ、やがて薄雲と呼ばれたその女は、二十年近くを吉原の中で過ごしました。
華やかな栄華もありました。
苦しい別れもありました。
愛した人との出会いもありました。
そして病に倒れ、静かに命の終わりを待つ日々もありました。
本来なら、不浄門から名もなく運び出されるはずだった命。
しかし今日、その運命が変わります。
これは、一人の花魁が生きて大門を出る物語。
長い檻の中の人生に訪れた、最初で最後の春の物語です。
どうぞ最後までお付き合いください。
その日は、よく晴れていた。
春の終わりの、暖かな日だった。仲之町の桜は、とうに散り、根のない桜は、引き抜かれて、運び去られた後だった。大路には、若葉の季節が、訪れていた。柳の葉が、青々と、風に揺れていた。
扇松楼の前に、二挺の籠が、着けられた。
薄雲と、春霞を、住吉屋へ運ぶための籠だった。
身請けの日だった。
吉原で、身請けは、めでたいことだった。とりわけ、住吉屋ほどの大店による、五千両の身請けは、近年、例のない、大きな話だった。廓中が、その噂で、もちきりだった。あの薄雲と春霞が、二人まとめて、身請けされる。それも、病んだ薄雲まで、引き取られる。前代未聞の話だった。
しかし、見世の前に集まった者たちの顔は、めでたさだけでは、なかった。
病んで、もう長くない薄雲を、見送る別れでも、あった。生きて廓を出るとはいえ、薄雲の命が、尽きかけていることを、皆、知っていた。喜びと、悲しみが、入り混じった、奇妙な見送りだった。それでも、皆、薄雲が、大門から、籠で出ていくことを、心のどこかで、祝っていた。投げ込み寺へ、ではなく。日の当たる場所へ、行くことを。
*
薄雲は、籠に乗る前に、見世の者たちに、見送られた。
局を出た薄雲は、お冬の差配で、きれいに、身支度を、整えられていた。痩せ衰えてはいたが、髪を結い、薄く化粧を施し、上等な小袖を着せられていた。病んでから、ずっと木綿の小袖で過ごしてきた薄雲にとって、久しぶりの、絹の感触だった。
もう、客を取るための装いでは、なかった。
これは、廓を出ていく女のための、はなむけの装いだった。お冬が、見世の蔵から、出させたものだった。誰の指図でもない、お冬が、自分の判断で、用意させたものだった。なぜ、お冬がそうしたのか、薄雲には、わからなかった。ただ、絹の小袖は、暖かかった。
見世の前に、人が、集まっていた。
番頭の宗助。小番頭の喜八。若い衆の市松。下働きの女たち。そして、幇間の扇次郎と、福松。皆が、薄雲を、見送りに、出ていた。病がうつるからと、皆が遠ざかっていた、その薄雲を、最後に、見送るために。
「太夫」
市松が、駆け寄った。まだ若い、嘘の下手な男。目に、涙を、いっぱいに、ためていた。
「太夫、お達者で……。あっしは、太夫のこと、ずっと……ずっと、忘れません」
「市松」
薄雲は、微笑んだ。痩せた顔で、それでも、優しく。
「世話に、なりんした。お前は、いい男に、なりんすえ。宗助さんの言うことを、よく聞いて、立派な、若い衆に、おなりなんし」
市松は、袖で、目を、拭った。何度も、何度も、頷いた。
宗助が、進み出た。冷静沈着な番頭。滅多に、感情を、表に出さぬ男。その宗助が、薄雲の前で、深く、頭を、下げた。
「薄雲さん。長い間、この見世を、支えてくださり、ありがとうございました」
それだけ言うと、宗助は、口を、つぐんだ。それ以上は、言葉に、ならぬようだった。ただ、頭を、下げ続けた。薄雲を、娘のように、見てきた男の、精一杯の、別れだった。
喜八が、その隣で、肩を、すくめた。
「薄雲さん。あんたがいなくなると、この見世も、寂しくなりまさあ」
いつもの、軽い口調だった。しかし、その声は、わずかに、震えていた。
「住吉屋さんで、ゆっくり、なすってくだせえ。海の見える、いいお屋敷だそうで。羨ましい限りで」
「喜八さん」
薄雲は、笑った。
「あちきのことより、市松を、頼みんす。あの子は、まだ、危なっかしいから」
「へえ、承知で」
喜八は、おどけて、頭を、下げた。だが、その目も、潤んでいた。
*
扇次郎と、福松が、進み出た。
二人の幇間は、薄雲の前に、並んで、立った。
「薄雲さん」
扇次郎が、口を、開いた。いつもの、べらんめえ調が、その時ばかりは、なりを、ひそめていた。
「あっしは、初めてあんたの三味線を聴いた時から、言い続けてきやした。この人は、必ず、大きくなる、と。その通りに、なりやした。あんたは、吉原一の、花魁に、なった。あっしの、見立ては、間違っちゃ、いなかった」
扇次郎の声が、震えた。
「あんたの座敷で、太鼓を叩けたことは、あっしの、誇りでさあ。生涯の、誇りでさあ」
「扇次郎さん」
薄雲は、深く、頷いた。
「お前さんの、太鼓が、あったから、あちきの座敷は、いつも、温かかった。お前さんは、廓一の、幇間でありんす。それは、あちきが、保証しんす」
扇次郎は、深く、頭を、下げた。粋を身上とする男が、その時、人目もはばからず、洟を、すすった。
福松は、穏やかに、微笑んでいた。
「薄雲さん。あたしは、長いこと、この廓で、たくさんの女子を、見送ってまいりました」
老いた幇間の声は、静かだった。
「その、ほとんどは、悲しい、見送りでございました。病で、消えていく女子。投げ込み寺へ、運ばれていく女子。けれど、今日は、違います。あんたは、生きて、大門から、出ていく。日の当たる場所へ、行く。こんな、嬉しい見送りは、めったに、ございません。長生きは、するものでございますな。こんな日に、立ち会えるとは」
福松は、目を、細めた。風雪に耐えた、老松のような、深い皺が、その目尻に、刻まれていた。
「どうぞ、お達者で。残りの日々を、心安らかに」
薄雲は、福松に、深く、頭を、下げた。
言葉は、交わさなかった。だが、長年、この廓の空気を、共に吸ってきた者同士の、無言の何かが、二人の間に、流れた。
*
善兵衛と、お冬が、最後に、立っていた。
善兵衛は、何も、言わなかった。あの日、背を向けて泣いた後、善兵衛は、薄雲の前では、もう、泣くまいと、決めているようだった。ただ、薄雲を、じっと、見ていた。雫と呼ばれた、八つの禿の頃から、見てきた女を。
「おとっさん」
薄雲が、呼んだ。
「長い間、お世話に、なりんした。おとっさんが、いてくださったから……あちきは、ここで、人として、生きてこられんした」
善兵衛の唇が、わずかに、震えた。だが、善兵衛は、こらえた。そして、ただ、一言。
「達者で、な、薄乃」
薄乃。
雫から、新造に上がった時、善兵衛が、つけた名だった。薄雲でも、雫でもなく、善兵衛は、薄乃と、呼んだ。それは、善兵衛にとって、いちばん、愛しい名だったのかもしれなかった。
薄雲の目に、涙が、滲んだ。
「……はい、おとっさん」
お冬は、その隣に、立っていた。
お冬は、薄雲を、局へ送った女だった。長年、薄雲を、自分の管理下に置きたいと思いながら、決して手の届かなかった女。冷たく、薄雲を、見続けてきた女。そのお冬が、今、薄雲の前に、立っていた。
お冬は、何も、言わなかった。
ただ、薄雲を、見ていた。その目には、いつもの、算盤を弾く冷たさが、あった。しかし、その奥に、ほんの少しだけ、別のものが、宿っていた。薄雲には、それが、何なのか、わからなかった。
「おかっさん」
薄雲が、呼んだ。
「この、お着物……ありがとう、ござりんす」
お冬は、ふん、と、鼻を、鳴らした。
「礼には、及ばないよ。見世の、蔵で、眠っていた、古いものだ。捨てるくらいなら、着せたほうが、まし、というだけだ」
冷たい言葉だった。いつもの、お冬だった。
しかし、薄雲は、知っていた。蔵で眠っていた古いもの、ではなかった。それは、上等な、絹の小袖だった。お冬が、わざわざ、選んだものだった。お冬は、それを、認めない。認めれば、お冬は、お冬で、なくなる。情を見せれば、廓では、死ぬ。それが、お冬の、生き方だった。
だから、薄雲も、それ以上は、言わなかった。
ただ、深く、頭を、下げた。お冬も、わずかに、顎を、引いた。それが、二人の、別れだった。言葉にならぬ、何かを、交わした、別れだった。
*
薄雲は、籠に、乗った。
春霞も、もう一挺の籠に、乗った。
籠が、持ち上げられた。そして、ゆっくりと、進み始めた。仲之町の大路を。大門へ、向かって。
薄雲は、籠の中から、外を、見ていた。
簾の隙間から、見慣れた廓の景色が、流れていった。茶屋。妓楼。格子。柳。何年も、何十年も、見てきた景色。この、狭い世界が、薄雲の、すべてだった。八つで、売られてきて。雫と呼ばれ、薄乃と呼ばれ、薄雲と呼ばれて。ここで、生きてきた。ここで、泣いて、笑って、愛して、看取って。すべてが、この、狭い廓の中の、出来事だった。
その景色が、今、後ろへ、流れていく。
籠は、大門へ、近づいていった。
*
大門。
吉原に、ただ一つの、出入り口。
四方を塀と堀で囲まれた、巨大な檻の、唯一の門。ここを、くぐれば、外だった。ここを、くぐった女は、ほとんど、いなかった。年季が明けるか、身請けされるか、死ぬか。生きて、この門を、出られる女は、ひと握りだった。
病んだ遊女は、本来、この門からは、出られなかった。
病で死んだ女は、不浄門と呼ばれる、裏口から、こっそりと、棺桶で、運び出された。投げ込み寺へ。名もなく、弔いもなく。それが、病んで死んだ遊女の、定めだった。薄雲も、本来なら、その道を、辿るはずだった。あの暗い局で、息を引き取り、不浄門から、運び出される。そういう、定めだった。
しかし。
薄雲は、生きて、大門を、くぐろうとしていた。
正面の、大門を。籠に乗って。胸を張って。日の当たる、外の世界へ。
籠が、大門に、差しかかった。
薄雲は、簾を、そっと、上げた。
光が、差し込んできた。
まばゆい、春の光だった。大門の向こうに、外の世界が、広がっていた。日本堤。見返り柳。その向こうに、田畑が、広がり、空が、どこまでも、続いていた。
四角くない、空だった。
塀に、切り取られていない、空だった。
薄雲は、その空を、見た。
長いあいだ、薄雲は、四角い空しか、知らなかった。格子の向こうの、塀と塀の間に、切り取られた、狭い空。それしか、知らなかった。村にいた頃の、広い空を、もう、思い出せなくなっていた。
その、広い空が、今、目の前に、あった。
薄雲の目から、涙が、こぼれた。
空が、広かった。ただ、それだけのことが、薄雲の胸を、締めつけた。こんなにも、広かったのか。空は。世界は。自分は、こんなにも、狭い場所に、閉じ込められて、生きてきたのか。
籠は、大門を、くぐった。
吉原を、出た。
二十年近く、薄雲を、閉じ込めてきた檻から、薄雲は、出た。生きて。
*
ふと、薄雲は、あの日のことを、思い出した。
初めて、この大門を、くぐった日。八つの、雫だった頃。女衒に、手を引かれて、この門を、くぐった。あの日、大門をくぐった時、薄雲は、檻の中へ、入った。今日、大門をくぐって、薄雲は、檻の外へ、出る。
同じ門を、二度、くぐった。一度目は、人生の所有権を、失うために。二度目は、それを、取り戻すために。あいだに、二十年近い、歳月が、あった。その歳月の、すべてが、この門の、内側に、あった。喜びも、悲しみも、栄華も、転落も。すべて。
もう、戻ることは、ないだろう、と薄雲は思った。それは、寂しいことでは、なかった。むしろ、安らかな、思いだった。長い、長い、勤めが、終わった。薄雲は、檻を出て、ひとりの人間に、戻るのだった。綾乃、という、本当の名前を持つ、一人の女に。
お守りのことを、薄雲は、思い出していた。
籠に揺られながら、薄雲は、懐に、手を、入れた。そこには、小さな、お守りが、あった。色あせて、糸の、ほつれた、古いお守り。八つで、売られてくる時、故郷の母が、薄雲の手に、握らせたものだった。
売られていく朝のことを、薄雲は、今も、覚えていた。雪の、降る朝だった。母は、何も、持たせてやれなかった。貧しい家だった。飢饉の、年だった。その母が、最後に、薄雲の手に、握らせたのが、このお守りだった。自分の母から、譲られたものだ、と母は言った。せめて、これを、と。
達者で、と母は言った。それきり、母とは、会えなかった。
薄雲は、そのお守りを、ずっと、持っていた。打掛も、簪も、すべて奪われた局でも、このお守りだけは、手放さなかった。古い、小さな、何の値打ちもない、お守り。質草にも、ならぬような、布きれ。だが、薄雲にとって、それは、故郷と、母と、自分を繋ぐ、ただ一つの糸だった。どんなに辛い時も、これがあったから、薄雲は、自分の本当の名を、忘れずに済んだ。綾乃、という名を。母が、つけてくれた、名を。
おっかさん、と薄雲は、心の中で、呼んだ。
あちきは、生きて、廓を、出んした。
母は、もう、この世にいないかもしれなかった。会えないまま、別れて、何十年も、経っていた。
それでも、薄雲は、母に、報告したかった。あちきは、売られて、辛い目にも、遭うたけれど。それでも、生きて、ここまで、来んした。一人の妹分に、看取られて、廓の外へ、出られんした。だから、おっかさん、心配は、いりんせん。あちきは、幸せでありんす、と。
薄雲は、お守りを、握りしめた。
色あせたお守りが、薄雲の手の中で、温まっていった。
*
籠は、しばらく、進んだ。
やがて、潮の匂いが、してきた。
住吉屋は、海の近くに、あった。江戸の海の、入り江を、望む場所に、大きな屋敷が、建っていた。廻船問屋として、海とともに生きてきた、文左衛門の、家だった。
籠が、屋敷の門を、くぐった。
文左衛門が、自ら、出迎えに、立っていた。
「よく、来てくれました」
文左衛門は、籠から降りる薄雲に、手を、貸した。
薄雲は、文左衛門の手を、借りて、籠を、降りた。地面に、足を、つけた。よその土地の、地面だった。廓ではない、土地。生まれて初めて、薄雲は、廓の外の、地面に、立っていた。
「文左衛門さま」
薄雲は、文左衛門を、見上げた。
「このような、病んだ身を、引き取ってくださり……何と、お礼を、申し上げてよいか」
「礼など、いりません」
文左衛門は、首を、振った。
「あんたを、迎えられて、わたしは、嬉しい。それだけです。さあ、中へ。座敷を、用意してあります。日当たりの、良い座敷です。庭も、海も、見える。あんたが、ゆっくり、過ごせるように」
文左衛門は、薄雲を、屋敷の奥へ、案内した。
春霞が、その後ろに、続いた。
*
座敷は、日当たりが、良かった。
南向きの、広い座敷だった。障子を開け放つと、手入れの行き届いた庭が、見えた。青葉の楓。咲き残った、つつじ。小さな池。そして、庭の向こうに、海が、見えた。
春の海だった。
穏やかな、海だった。日の光を受けて、波が、きらきらと、光っていた。沖には、白い帆を上げた船が、いくつか、浮かんでいた。住吉屋の、廻船かもしれなかった。海鳥が、空を、舞っていた。
薄雲は、その座敷に、座った。
文左衛門が、用意した、特等席だった。庭が見え、海が見え、空が見える、いちばん良い場所。
病んだ薄雲が、寝たままでも、外の景色を、眺められるように、考え抜かれた、場所だった。
薄雲は、しばらく、何も、言わなかった。
ただ、その景色を、見ていた。庭を。海を。空を。光を。長いあいだ、暗い局で、灰色の壁しか、見てこなかった薄雲にとって、それは、あまりにも、まばゆい景色だった。涙が、出そうになるほど、まばゆかった。
「ねぇさん」
春霞が、隣に、座った。
「きれいでありんすなあ」
「ああ……」
薄雲は、頷いた。
「きれいで、ありんす。こんなに、きれいなものが、この世に、あったのでありんすなあ」
二人は、しばらく、並んで、その景色を、見ていた。
吉原の、華やかさとは、違う、美しさだった。三味線も、灯籠も、白粉も、なかった。ただ、自然の、光と、色が、そこに、あった。作り物ではない、本物の、美しさが。
風が、座敷に、吹き込んできた。
潮の香りを含んだ、初夏の風だった。薄雲の、ほつれた髪を、その風が、そっと、揺らした。薄雲は、目を、閉じて、その風を、受けた。吉原の風は、いつも、白粉と、香油と、酒の匂いがした。だが、この風は、違った。海の匂い。土の匂い。青葉の匂い。生きている、世界の、匂いだった。
「ねぇさん、見てくんなんし。鳥が」
春霞が、空を、指さした。
海鳥が、数羽、空を、舞っていた。自由に、風に乗って、高く、低く、旋回していた。籠の中の鳥では、なかった。どこへでも、行ける鳥だった。
薄雲は、その鳥を、目で、追った。
「あの鳥は……どこへでも、行けるのでありんすなあ」
薄雲は、呟いた。羨むでも、悲しむでもない、ただ、静かな、声だった。
「あちきも……生まれ変わったら、あんな鳥に、なりとうありんす。どこへでも、飛んでいける、鳥に」
「ねぇさん」
「でも」
薄雲は、春霞を、見て、微笑んだ。
「今は、これで、十分でありんす。こうして、お前と、本物の空を、見られんした。鳥に、ならずとも、十分でありんす」
春霞は、薄雲の手を、握った。
文左衛門は、二人の様子を、少し離れた場所から、見ていた。
薄雲が、初めて見る景色に、目を、輝かせている。春霞が、その隣で、嬉しそうに、している。その光景を見て、文左衛門は、二人を引き取って、よかった、と思った。傾くかもしれぬ身代など、この光景の前では、何ほどのことも、なかった。失って初めて、何が大事かがわかる。
だが、文左衛門は、今度は、失う前に、わかっていた。この、二人の姉妹の、穏やかな時間こそが、何より、大事なものだ、と。
*
日が、傾いてきた。
午後の光が、少しずつ、色を、変えていった。白い光が、黄金色に、染まり始めた。庭の楓が、海が、空が、夕暮れの色に、染まっていった。
夕焼けだった。
西の空が、橙色に、染まっていった。海が、その色を、映して、燃えるように、輝いた。空には、まだ、薄い月が、昇り始めていた。昼の名残の空に、夕焼けと、淡い月が、同時に、あった。
薄雲は、その夕暮れを、縁側で、眺めていた。
春霞が、薄雲の身体を、支えて、縁側まで、連れてきたのだった。薄雲は、春霞に、もたれかかるようにして、座っていた。痩せた身体に、夕風が、優しく、吹いた。
その時。
薄雲が、ふと、目を、閉じた。
そして、深く、息を、吸った。
「……潮の、匂いが、しんす」
薄雲は、静かに、言った。
目を、閉じたまま。風を、感じるように。
「潮の、匂いでありんす。海の、匂い。文左衛門さまが、いつも、話してくれた、海の、匂い。本当に……本当に、こんな匂いが、するのでありんすなあ」
薄雲の声は、穏やかだった。
長年、薄雲は、文左衛門の海の話を、聞いてきた。沖の漁火。嵐の夜。遠い異国の品々。檻の中で、その話だけが、外の世界を、感じさせてくれた。だが、それは、話の中の、海だった。薄雲は、本物の海を、知らなかった。匂いも、音も、知らなかった。
今、薄雲は、本物の、潮の匂いを、嗅いでいた。
頬に、海から吹く風を、受けていた。耳に、遠い波の音を、聞いていた。文左衛門が、語ってくれた、あの海が、今、目の前に、あった。匂いも、音も、すべて、本物だった。
「ねぇさん」
春霞が、薄雲の肩を、抱いた。
「潮の、匂いでありんす。ねぇさん、海でありんす。本当の、海でありんす」
「ああ……」
薄雲は、目を、開けた。
夕焼けに、染まる海を、見た。橙色に、燃える海を。その上に、浮かぶ、淡い月を。
美しかった。
薄雲が、生涯で、見た、どんな景色よりも、美しかった。花魁道中の、絢爛さよりも。仲之町の、桜よりも。この、ただ、自然のままの、夕暮れの海が、いちばん、美しかった。
薄雲の頬を、涙が、伝った。
夕日が、その涙を、橙色に、染めた。
春霞は、薄雲の肩を、抱いたまま、何も、言わなかった。ただ、薄雲と一緒に、夕焼けを、見ていた。雪の夜に、約束した。いつか、二人で、空を、見よう、と。その約束が、今、叶っていた。檻の外の、本当の空の下で。
二人は、いつまでも、夕焼けを、見ていた。
潮の匂いが、二人を、包んでいた。
風が、優しく、吹いていた。
長い、長い、檻の中の暮らしの果てに、ようやく、辿り着いた、穏やかな、夕暮れだった。
西の空が、ゆっくりと、暮れていった。
淡い月が、少しずつ、その光を、増していった。
——第十四話 了
第十四話をお読みいただきありがとうございました。
今回は、薄雲が吉原を出る物語でした。
八つで売られた少女が、生きて大門をくぐる。
それは吉原という世界において、奇跡に近い出来事です。
本来なら不浄門から運び出されるはずだった命が、多くの人々に見送られながら日の当たる場所へ向かう。
善兵衛、お冬、宗助、市松、扇次郎、福松。
それぞれの想いを胸に、薄雲は初めて本当の空を見ました。
そして初めて見る海。
初めて嗅ぐ潮の香り。
初めて感じる自由。
長い檻の中の人生の果てに辿り着いた、穏やかな夕暮れでした。
次回から物語はいよいよ終幕へ向かいます。
最後まで見届けていただければ幸いです。




