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最終話 吉原残月

ここまで『吉原残月 ― 紅、散るまで ―』を読んでくださり、本当にありがとうございます。


雪の夜に出会った二人の少女。


地獄のような檻の中で支え合い、

姉妹となり、

そして同じ空を夢見続けました。


これは花魁の物語ではありません。


価値を失っても人は愛されるのか。


その問いを抱えながら生きた、一人の女と、

その女を最後まで愛し抜いた、もう一人の女の物語です。


どうか最後まで、

綾乃と小春の歩いた道を見届けていただければ幸いです。

住吉屋の別邸での暮らしが、始まった。


海の見える、日当たりの良い屋敷だった。文左衛門は、本邸とは別に、この静かな別邸を、二人のために、用意していた。使用人も、気心の知れた者だけを、置いた。病んだ綾乃が、心安らかに、過ごせるように。


綾乃。


もう、薄雲では、なかった。


大門を出た、その時から、薄雲という名は、要らなくなっていた。薄雲は、客を取るための、廓の名だった。檻の中だけの名だった。檻を出た今、その名を、呼ぶ者は、いなかった。ここでは、綾乃だった。八つで売られる前、故郷の母が、つけてくれた、本当の名。綾乃に、戻っていた。


小春も、同じだった。


春霞でも、小菊でも、なかった。座敷の名も、禿の名も、廓に置いてきた。ここでは、小春だった。雪の夜に、売られてきた、あの少女の名。本当の名に、戻っていた。


二人は、廓の名を、脱ぎ捨てて、本当の自分に、戻っていた。


*


別邸の日々は、穏やかだった。


綾乃は、日当たりの良い座敷で、多くの時を、過ごした。庭が見え、海が見え、空が見える、あの特等席で。布団を敷いて、横になっていることが、多かった。身体は、日に日に、弱っていった。咳は、続いた。食も、細くなった。しかし、その顔は、吉原にいた頃よりも、穏やかだった。


朝、目を覚ますと、障子の向こうが、明るかった。


吉原の局では、朝が来ても、暗かった。小さな格子窓から、わずかな光が、差すだけだった。だが、ここでは、朝の光が、座敷いっぱいに、差し込んできた。綾乃は、その光の中で、目を覚ますのが、好きだった。生きて、また、朝を、迎えられた。その一日が、贈り物のように、思えた。


小春は、ずっと、綾乃のそばに、いた。


もう、座敷に出る必要は、なかった。客を取ることも、なかった。文左衛門が、すべてを、引き受けてくれた。小春は、ただ、綾乃の世話をして、一日を、過ごした。粥を作り、薬を煎じ、身体を拭き、髪を梳いた。そして、二人で、たくさんの話を、した。


食事は、質素だが、温かいものを、心がけた。


綾乃は、もう、多くは、食べられなかった。それでも、小春は、毎日、工夫を、凝らした。柔らかく炊いた粥に、すり下ろした白身魚を、混ぜたり。庭で採れた、青菜を、細かく刻んで、入れたり。少しでも、綾乃が、口にできるように。少しでも、滋養に、なるように。


「小春の作る粥は、おいしいでありんす」


綾乃は、いつも、そう言った。半分も、食べられなくても。


「お前は、料理が、上手になりんしたなあ。昔は、米を、研ぐのも、下手だったのに」

「ねぇさんが、教えてくれんしたから」

小春は、笑った。


吉原では、遊女が、料理をすることは、なかった。下働きの女が、作った。だが、小春は、綾乃のために、料理を、覚えた。文左衛門の屋敷の、料理人に、頭を下げて、教わった。少しでも、綾乃の口に合うものを、作りたくて。


晴れた日には、二人で、海を、眺めた。


障子を開け放つと、庭の向こうに、海が、見えた。日によって、海の色は、変わった。よく晴れた日は、青く。曇った日は、灰色に。夕暮れには、橙色に。綾乃は、その移ろいを、飽きずに、眺めた。吉原では、見られなかった、空と海の、色の変化を。


「海は、生きておりんすなあ」

綾乃は、ある日、そう言った。

「毎日、色が、違いんす。同じ日は、一日も、ありんせん。吉原の空は、いつも、同じ、四角い空でありんした。でも、ここの海と空は、毎日、違いんす。生きておりんす」

小春は、その言葉を、静かに、聞いていた。


ねぇさんは、生きている世界を、見ている、と小春は思った。長いあいだ、檻の中の、変わらぬ景色しか、見られなかったねぇさんが。今、毎日、変わる、生きた世界を、見ている。それだけで、ここへ連れてきて、よかった、と小春は思った。


*


その小春の言葉から、少しずつ、廓詞が、消えていった。


客もいない、檻もない暮らしの中で、小春の言葉は、ゆっくりと、素のことばに、戻っていった。


「ありんす」が、抜けていった。「でありんす」が、「です」に、変わっていった。本人も、気づかぬうちに。廓で身につけた言葉が、外の暮らしの中で、少しずつ、溶けていくようだった。

ある日、綾乃が、それに、気づいた。

「小春」

「はい、ねぇさん」

「お前、廓詞が、抜けてきんしたなあ」

小春は、はっと、して、口元を、押さえた。

「あ……ほんに。気づきんせんかった」

綾乃は、微笑んだ。

「いいことでありんす。お前は、もう、花魁では、ありんせん。小春でありんす。素のことばで、話せばいい。お前は、これから、外の世界で、生きていくのでありんすから」

小春は、複雑な顔を、した。


嬉しいような、寂しいような、顔だった。廓詞が抜けていくことは、廓を出た証だった。自由になった証だった。だが、それは同時に、ねぇさんと、自分が、別々の方向へ、歩き始めていることでも、あった。自分は、外の世界の言葉を、覚えていく。ねぇさんは——。


小春は、その先を、考えないように、した。


*


綾乃の廓詞は、抜けなかった。


二十年近く、廓で生きた綾乃の言葉は、もう、身体の一部に、なっていた。今さら、変わるものでは、なかった。いや、変える時間が、もう、なかった。綾乃は、最期まで、廓詞のまま、だろう。それは、二人とも、口には出さねど、わかっていた。


二人の言葉が、別々の方向へ、分かれていく。


小春の言葉は、廓を出て、外の世界へ。素のことばへ。これから生きていく者の、言葉へ。


綾乃の言葉は、廓のまま。廓詞のまま。もうすぐ、逝く者の、言葉のまま。


同じ檻を、出たのに。一人は、未来へ。一人は、終わりへ。


その別れを、二人は、まだ、口にしなかった。ただ、一日、一日を、大切に、過ごした。


*


文左衛門は、時おり、別邸を、訪れた。


本業の、廻船の商いが、忙しかった。それでも、暇を見つけては、別邸に、顔を出した。来ると、綾乃の座敷で、海の話を、した。


「今日は、沖が、荒れていた」

文左衛門は、縁側に、腰を下ろして、言った。

「秋の海は、気まぐれでしてな。穏やかだったのが、急に、牙をむく。船頭たちが、難儀しておりました」

「文左衛門さまの、海の話は、いつ聞いても、面白うありんすなあ」

綾乃は、布団の上から、微笑んだ。

「あちきは、ここへ来て、本物の海を、見られんした。文左衛門さまの話の中の海が、毎日、目の前に、ありんす。こんな、果報なことは、ありんせん」

文左衛門は、海を、見ていた。


夕暮れの、海だった。波が、穏やかに、寄せては、返していた。


「綾乃さん」

文左衛門は、海を見たまま、言った。

「わたしは、あんたを、身請けできて、よかったと思っている。間に合って、よかった。あんたに、本物の海を、見せられた。それだけで、住吉屋の身代を、傾ける値打ちが、あった」

「文左衛門さま……」

「礼は、言わんでくれ」

文左衛門は、綾乃を、見て、微笑んだ。

「わたしが、そうしたかった。それだけだ。あんたと、小春さんが、ここで、穏やかに過ごしてくれる。それが、わたしの、何よりの、喜びだ」


綾乃は、文左衛門の、その言葉を、静かに、聞いていた。


この人は、何も、求めなかった。


身請けした女に、男なら、当然、何かを、求めるものだった。だが、文左衛門は、綾乃に、何も、求めなかった。床を、共にすることも、なかった。ただ、綾乃が、穏やかに過ごすことだけを、願っていた。看取ること。それだけを、自分の役目として、引き受けていた。


なぜ、この人は、ここまで、してくれるのか。


綾乃には、わかっていた。この人は、亡くした妻を、自分に、重ねている。妻を看取れなかった悔いを、自分を看取ることで、晴らそうとしている。あるいは、それだけでは、ないのかもしれない。ただ、綾乃という人間を、まっすぐに、想ってくれている。見返りを、求めずに。


ありがたい、と綾乃は思った。


吉原で、たくさんの男を、見てきた。金で、女を買う男。情を、もてあそぶ男。夢を、買いに来る男。だが、文左衛門のような男は、いなかった。何も求めず、ただ、与える男。こんな男に、最期に、巡り合えた。それも、また、果報だった。


綾乃には、もう一つ、見えていることが、あった。


文左衛門と、小春のことだった。


文左衛門が、別邸に来ると、小春は、甲斐甲斐しく、世話を焼いた。茶を出し、海の話に、相槌を打ち、時に、軽口を、叩いた。文左衛門も、小春には、心を、開いているようだった。二人が、話していると、そこに、温かい空気が、流れた。綾乃には、それが、見えた。


この二人は、似合いだ、と綾乃は思った。


自分が、いなくなった後。小春は、一人に、なる。だが、文左衛門が、いれば。あの誠実な男が、そばに、いれば。小春は、一人では、ない。あの二人なら、きっと、寄り添って、生きていける。綾乃は、そう、思った。それは、綾乃にとって、何よりの、安心だった。


自分が、逝った後の、小春の幸せ。それが、見えること。それが、綾乃を、安らかに、していた。


*


秋が、深まっていった。


庭の楓が、紅葉した。赤く、燃えるように、色づいた。綾乃は、その紅葉を、座敷から、眺めた。


やがて、葉が、散り始めた。一枚、また一枚と、風に乗って、舞い落ちた。


吉原の桜を、綾乃は、思い出した。


あの、根のない桜。咲くためだけに運ばれ、散れば捨てられる桜。自分も、あの桜のようだった、と綾乃は思った。咲いている間は、もてはやされ、散れば、忘れられる。だが、今、綾乃は、根のない桜では、なかった。この庭の楓は、根を、張っていた。毎年、紅葉し、散り、また、芽吹く。


来年も、再来年も。


自分は、来年の春を、見られないだろう。


綾乃には、わかっていた。この秋が、最後の秋だ、と。冬を、越えられるかどうか。いや、越えられまい。身体が、それを、告げていた。


しかし、綾乃は、怖くなかった。


不思議と、怖くなかった。死は、すぐそこに、あった。だが、恐怖は、なかった。むしろ、安らかだった。やるべきことは、すべて、やった。小春を、一人前に、育てた。あの子は、もう、一人でも、生きていける。文左衛門という、頼れる人も、できた。自分が、いなくなっても、あの子は、大丈夫だ。


それに——。


綾乃は、思った。自分は、もう、十分に、生きた。八つで売られて、辛い目にも、遭った。だが、それだけでは、なかった。朝霧という、師に、出会った。善兵衛という、親のような人に、出会った。


扇次郎や、福松のような、温かい者たちに、囲まれた。文左衛門という、誠実な人に、巡り合った。そして、何より——小春に、出会った。


雪の夜に、震えていた、あの少女。


あの子に、出会えたことが、綾乃の人生の、いちばんの、宝だった。


*


ある夜、綾乃は、小春に、頼んだ。

「小春。あの簪を、見せておくれ」

「簪……?」

「お前に、あげた、銀の梅の簪でありんす」

小春は、髪から、その簪を、抜いた。


銀の枝に、梅の花が、一輪、咲いた簪。綾乃が、小春の初めての座敷の夜に、贈ったもの。小春が、ずっと、大切にしてきたもの。局へ通う夜も、いつも、挿していた、あの簪。


綾乃は、それを、手に取った。


痩せた指で、そっと、撫でた。銀の梅の花を。

「この簪を、贈った夜のことを、覚えておりんすか」

「覚えておりんす」

小春は、頷いた。

「ねぇさんが、初めての座敷の前に、くれんした。これは、あちきのものだ、と。ねぇさんが、あちきにくれた、たった一つの、あちきのものだ、と」

「ああ」

綾乃は、微笑んだ。

「あの夜、お前は、春霞という名を、もらいんした。そして、あちきは、お前に、この簪を、贈った。

お前の門出を、祝って」


綾乃は、簪を、小春の手に、返した。

「この簪を、ずっと、持っていておくれ。あちきが、いなくなっても。これは、あちきと、お前を、繋ぐ、糸でありんす。この梅の花を、見るたびに、あちきのことを、思い出しておくれ。それだけで、あちきは、お前の中で、生き続けられんす」

小春の目に、涙が、滲んだ。

「ねぇさん。そんな……いなくなるだなんて」

「小春」

綾乃は、小春の手を、握った。

「人は、いつか、死にんす。あちきも、お前も。それは、避けられぬことでありんす。だから、悲しむことは、ありんせん。あちきは、お前の中で、生き続けるのでありんすから。この簪と、一緒に」

小春は、簪を、握りしめた。


そして、頷いた。涙を、こらえて。

「……はい、ねぇさん。ずっと、ずっと、持っておりんす。一生、大切にしんす」


また、廓詞が、出た。綾乃と話す時、小春の言葉は、まだ、廓詞に、戻った。素のことばが、抜けてきても、ねぇさんと話す時だけは、廓詞が、出た。それは、二人だけの、言葉だった。廓で、二人が、分かち合った、言葉だった。


*


ある日、小春は、綾乃の枕元を、片付けていて、古い紙の束を、見つけた。


綾乃が、大切そうに、布に包んで、枕元に、置いていたものだった。小春が、それを、開くと——文だった。何通もの、短い文。


小春が、書いたものだった。


吉原の局にいた頃。座敷が長引いて、看病に通えぬ夜に、小春が、市松に頼んで、届けた文。


今夜は行けぬこと。明日は必ず行くこと。身体を大事にすること。たわいない、短い文。それを、綾乃は、一通も、捨てずに、取っておいたのだった。廓を出る時も、この文の束だけは、持ってきたのだった。


「ねぇさん……これを、ずっと」

小春は、その文の束を、見て、涙ぐんだ。


綾乃は、布団の上から、微笑んだ。

「お前の、文でありんす。通えぬ夜に、お前が、くれた文。あれが、あちきの、灯火でありんした。


誰も来ない夜、あの文を、読み返すと……お前が、そばに、いるような、気がしんした。だから、捨てられんかった。一通も」


小春は、文の束を、胸に、抱いた。


たわいない、短い文だった。気の利いた言葉も、何も、書いていない。ただ、今夜は行けぬ、明日は行く、身体を大事に、と。それだけの文。それを、ねぇさんは、宝物のように、取っておいてくれた。廓を出る時も、手放さずに。


「ねぇさん。あちきも……ねぇさんに、もらった簪を、宝物にしておりんす。ねぇさんは、あちきの文を。あちきは、ねぇさんの簪を。おあいこ、でありんすなあ」

綾乃は、笑った。

「ああ。おあいこ、でありんす」


二人は、笑い合った。暗くなりかけた、別邸の座敷で。文の束と、銀の簪。互いが、互いに、残したもの。それが、二人を、繋いでいた。


*


冬が、来た。


別邸の庭にも、雪が、降った。


綾乃は、座敷から、雪を、眺めていた。庭の楓は、葉を落とし、裸の枝に、雪が、積もっていった。海は、灰色に、沈んでいた。空も、灰色だった。


雪を見ると、綾乃は、いつも、あの夜を、思い出した。


小春が、売られてきた、雪の夜。物置で、震えていた、小さな少女。あの夜、綾乃は、粥を、運んだ。羽織を、かけた。怖がらなくていい、と言った。あれが、すべての始まりだった。あの、雪の夜が。


「小春」

綾乃は、雪を見ながら、言った。

「お前と、出会ったのも、雪の夜でありんした」

「はい」

小春は、綾乃の隣に、座った。

「あちきが、物置で、震えていた時。ねぇさんが、来てくれんした。粥を、持って。羽織を、かけて。


怖がらなくていい、と言うてくれんした。あちきは、あの夜のことを、一生、忘れんせん」


「あの時のお前は、ちいさかった」

綾乃は、微笑んだ。

「ちいさくて、痩せていて、泣いてばかり、いんした。それが、今は、こんなに、立派になって。吉原一の、花魁にまで、なって。あちきは、お前の成長を、見られて、幸せでありんした」

二人は、しばらく、黙って、雪を、見ていた。


雪は、静かに、降り続けた。音もなく。庭を、海を、世界を、白く、染めていった。


「ねぇさん」

小春が、口を、開いた。

「あちきたち、約束しんしたなあ。雪の夜に。いつか、二人で、空を見よう、と」

「ああ」

「その約束、叶いんしたなあ」

「叶いんした」

綾乃は、頷いた。

「お前のおかげで、あちきは、廓の外の空を、見られんした。本物の空を。広い空を。あの約束が、叶うとは、思うていなかった。檻の中で、結んだ、儚い約束でありんした。それが、叶うた。お前のおかげで」

綾乃の目に、涙が、滲んだ。


雪明かりが、その涙を、淡く、照らした。


*


年が、明けた。


綾乃は、冬を、越えた。


誰もが、越えられまいと、思った冬を、綾乃は、越えた。小春の、献身的な看病のおかげだった。そして、綾乃自身の、生きようとする力のおかげだった。一日でも長く、一刻でも長く——朝霧の遺した言葉が、綾乃を、生かしていた。


しかし、春が近づくにつれ、綾乃の身体は、目に見えて、衰えていった。


もう、起き上がることも、難しくなった。食べることも、できなくなった。咳をするたびに、血が、混じった。それを、綾乃は、隠さなくなった。隠す力も、もう、なかった。


小春は、覚悟を、決めていた。


その日が、近いことを、知っていた。だが、取り乱さなかった。ただ、綾乃のそばに、いた。一刻でも長く、そばに、いた。眠る時も、綾乃の手を、握って、眠った。


そして——春が、来た。


別邸の庭に、桜が、咲いた。


吉原の、根のない桜とは、違った。この桜は、根を、張っていた。庭に、しっかりと、根を下ろした、一本の桜の木。毎年、春になると、花を、咲かせる桜。今年も、満開に、咲いた。


綾乃は、その桜を、見たいと、言った。


*


よく晴れた、春の日だった。


小春は、文左衛門と、相談して、綾乃を、縁側まで、運んだ。布団を、縁側に敷き、綾乃を、寝かせた。そこからは、庭の桜が、よく見えた。満開の桜が。そして、その向こうに、春の海が。空が。


綾乃は、小春の膝を、枕にして、横になっていた。


小春の膝枕で、綾乃は、桜を、見ていた。痩せ細った身体だった。顔も、やつれていた。だが、その目だけは、澄んでいた。桜を映して、静かに、澄んでいた。


桜の花びらが、風に乗って、舞った。


縁側にも、一枚、また一枚と、花びらが、舞い込んできた。綾乃の、夜着の上にも。小春の、膝の上にも。


「きれいでありんすなあ」

綾乃は、呟いた。

「桜が、こんなに、近くで、見られんす。吉原の桜は、いつも、道中の時に、遠くから、見るだけでありんした。こんなに、近くで、ゆっくり、見たことは、なかった」

「ねぇさん」

小春は、綾乃の髪を、そっと、撫でた。

「桜、きれいですね」

素の、ことばだった。


廓詞では、なかった。小春の言葉から、廓詞は、ほとんど、消えていた。「きれいですね」と、小春は、素のことばで、言った。


綾乃は、それに、気づいた。そして、微笑んだ。


「お前、すっかり、素のことばに、なりんしたなあ」

「あ……」

小春は、慌てた。

「すみんせん、つい」

「いいのでありんす」

綾乃は、微笑んだ。優しく。

「それで、いいのでありんす。お前は、もう、廓の人間では、ありんせん。小春でありんす。素のことばが、お前の、本当のことばでありんす。あちきは、それを、聞けて、嬉しい」

綾乃は、目を、細めた。

「あちきは、最期まで、廓詞が、抜けんせんなあ。もう、廓を出たのに。おかしなものでありんす」

「ねぇさん……」

「いいのでありんす。これが、あちきの、ことばでありんすから。あちきは、薄雲として、長く、生きんした。その薄雲のことばが、あちきには、染みついておりんす。それで、いい。お前は、小春のことばで。あちきは、薄雲のことばで。それぞれの、ことばで、いい」

風が、吹いた。


桜の花びらが、いっせいに、舞った。空を、桜色に、染めて。


*


時が、ゆっくりと、流れた。


綾乃は、小春の膝枕で、桜を、眺め続けた。陽が、少しずつ、傾いていった。春の、長い午後だった。穏やかな、時間だった。


ふと、綾乃が、言った。

「小春。三味線を、弾いておくれ」

「三味線を……?」

「ねぇさんの、形見の三味線でありんす。朝霧、ねぇさんの。あの、雪を」

小春は、その三味線を、取りに行った。


朝霧の形見の三味線。綾乃が、譲り受け、病んで弾けなくなってからは、布に包んで、大切に、しまっていたもの。綾乃が、もう弾けなくなった、あの三味線。今は、小春が、受け継いでいた。綾乃が、弾けなくなった後、小春に、教えたのだった。これを、お前が、弾けるように、なっておくれ、と。


小春は、三味線を、構えた。


そして、弾き始めた。「雪」を。


朝霧が、綾乃に、いちばん最初に教えた曲。八雲が、よく弾いていた曲。朝霧から、綾乃へ。綾乃から、小春へ。受け継がれてきた、音。降る雪の夜に、捨ててきた浮世を思う、女の歌。


小春の音は、まだ、拙かった。


綾乃ほどでは、なかった。ましてや、朝霧には、遠く及ばなかった。だが、その音には、心が、こもっていた。ねぇさんのために。最期に、ねぇさんに、聴かせるために。小春は、一音、一音、心を込めて、弾いた。


綾乃は、目を、閉じて、その音を、聴いていた。


膝枕の上で。桜の中で。小春の弾く、「雪」を。


ああ、と綾乃は思った。受け継がれている、と。朝霧、ねぇさんの音が。あちきを通って、小春へ。あちきが、いなくなっても、この音は、消えない。小春が、生きているかぎり。そして、いつか、小春が、また、誰かに、教えるかもしれない。そうして、この音は、巡っていく。雪が、降って、溶けて、また、降るように。


曲が、終わった。


最後の一音が、春の空に、溶けて、消えた。

「上手に、なりんしたなあ」

綾乃は、目を、開けて、微笑んだ。

「朝霧、ねぇさんも……あの世で、聴いて、おりんしょう。お前の、雪を」


小春は、三味線を、置いた。そして、また、綾乃の頭を、膝に、乗せた。


文左衛門は、少し離れた場所から、二人を、見守っていた。


邪魔を、しなかった。これは、二人の、時間だった。姉と妹の、最期の、時間だった。文左衛門は、ただ、静かに、見守った。


*


綾乃の息が、少しずつ、浅くなっていった。


小春は、それに、気づいていた。気づいて、いて、何も言わなかった。ただ、綾乃の髪を、撫で続けた。綾乃の手を、握り続けた。一刻でも長く。一瞬でも長く。


「小春」

綾乃が、小さな声で、言った。

「はい、ねぇさん」

「お前に、会えて……よかった」

綾乃の声は、かすれていた。

「あの、雪の夜に。お前に、会えて……あちきの人生は……幸せでありんした。お前が、いてくれたから……あちきは……価値を失っても……愛される、ということを……知りんした」


小春の目から、涙が、こぼれた。膝の上の、綾乃の頬に、落ちた。


「ねぇさん……。あちきこそ……ねぇさんに、会えて……」


小春の声は、震えていた。もう、廓詞も、素のことばも、なかった。ただ、嗚咽だけが、あった。


綾乃は、微笑んだ。


そして、桜のほうへ、目を、向けた。だが、その目は、もう、桜を、はっきりとは、捉えていないようだった。視界が、霞んでいた。死が、すぐそこまで、来ていた。


綾乃は、最後の力を、振り絞って、口を、開いた。


*


「小春」

「はい」

「外は……どんな色で、ありんすか」

綾乃は、聞いた。


もう、目が、よく見えなかった。桜も、海も、空も、霞んで、見えなかった。だから、聞いた。最期に、外の色を、知りたかった。長いあいだ、四角い空しか、見られなかった綾乃が。やっと、出られた、外の世界の、色を。


小春は、涙を、こらえた。


ねぇさんに、外の色を、教えてあげなければ。最期に。きれいな、外の色を。


小春は、空を、見た。


よく晴れた、春の空だった。どこまでも、青い空だった。塀も、格子もない、果てのない空。雲ひとつ、なかった。ただ、青が、どこまでも、広がっていた。


小春の言葉から、廓詞は、もう、ほとんど、消えていた。


外の世界で、生きていく小春の言葉は、素のことばに、戻っていた。「青い空です」と、素のことばで、答えることも、できた。だが、小春は、そうしなかった。


最期は、ねぇさんの、ことばで。


ねぇさんは、最期まで、廓詞のままだった。薄雲という名と、廓詞を、身体に染みつかせたまま、逝こうとしていた。ならば、その最期を、見送る言葉も、ねぇさんの世界の、ことばであるべきだ、と小春は思った。二人が、廓で、分かち合った、あの言葉で。二人だけの、あの言葉で。


そして、小春は、答えた。


廓詞で。ねぇさんの、ことばで。最期に、ねぇさんの世界の、ことばで、見送るために。


「……どこまでも、青い空で、ありんす」

綾乃の唇が、わずかに、動いた。


微笑んだ、ようだった。


その顔は、安らかだった。長いあいだ、見たかった空。雪の夜に、約束した空。檻の中で、夢見た、果てのない空。それを、最期に、小春の言葉で、知ることが、できた。たとえ、目には、見えなくとも。小春の声が、その青を、綾乃の心に、届けた。


「……綺麗で、ありんすねえ」

それが、綾乃の、最後の、ことばだった。


*


綾乃の息が、止まった。


静かだった。苦しむ様子も、なかった。ただ、すっと、息が、止まった。眠るように。桜を、見ながら。小春の膝の上で。


風が、吹いた。


桜の花びらが、舞った。綾乃の、安らかな顔の上に、一枚、花びらが、落ちた。


小春は、動かなかった。


しばらく、動けなかった。綾乃の顔を、見つめたまま。膝の上の、その重みを、感じたまま。涙が、止めどなく、流れた。声を、上げなかった。ただ、涙だけが、流れ続けた。


ねぇさん、と心の中で、呼んだ。返事は、ない。わかっていた。もう、返事は、ないことを。だが、それでも、呼ばずには、いられなかった。


雪の夜のことを、小春は、思い出していた。


あの夜、物置で、震えていた自分に、ねぇさんは、来てくれた。粥を、持って。羽織を、かけて。


怖がらなくていい、と言ってくれた。あの夜から、ねぇさんは、ずっと、自分のそばに、いてくれた。


育ててくれた。守ってくれた。生き方を、教えてくれた。自分のために、身請けを、断り続けてくれた。何も、言わずに。


その、ねぇさんが、今、自分の膝の上で、逝った。


もう、二度と、あの声を、聞けない。あの微笑みを、見られない。あの手の温もりを、感じられない。明日からは、ねぇさんの、いない朝が、来る。ねぇさんの、いない夜が、来る。そのことが、小春には、信じられなかった。信じたく、なかった。


それでも——。


小春は、思った。ねぇさんは、幸せそうだった、と。最期の顔は、安らかだった。苦しまずに、逝った。桜を見て、青い空を聞いて、自分の膝の上で。望みうる、すべてを、得て。これ以上の、最期は、なかった。だから、泣いては、いけない。いや、泣いても、いい。でも、それは、悲しみの涙だけでは、なかった。ねぇさんが、安らかに、逝けたことへの——安堵の涙でも、あった。


綾乃は、微笑んでいた。


死に顔とは、思えぬほど、安らかな、微笑みだった。最期に、青い空を、見て。桜を、見て。小春の膝の上で。望みうる、すべてを、得て。綾乃は、逝った。


「ねぇさん」

小春は、呼んだ。


返事は、なかった。

「ねぇさん……」

もう一度、呼んだ。


やはり、返事は、なかった。


桜の花びらが、二人の上に、降り続けた。風に乗って。いつまでも。空は、どこまでも、青かった。綾乃が、最期に見た——いや、見られなかったけれど、小春が、教えてあげた、青い空だった。塀も、格子もない、果てのない、春の空だった。


文左衛門が、静かに、近づいてきた。


そして、綾乃の、安らかな死に顔を、見て、深く、頭を、垂れた。何も、言わなかった。ただ、その目から、涙が、一筋、伝った。妻を看取れなかった男が、今、一人の女を、看取った。間に合った。本物の空の下で、桜の中で、看取ることが、できた。


小春は、綾乃の頬に、流れた自分の涙を、そっと、拭った。


そして、綾乃の髪に、あの簪を——銀の梅の簪を、挿した。


冬を越えて咲く梅。寒さに負けない梅。綾乃が、自分に、託してくれた、姉妹の絆の、しるし。それを、最期に、綾乃の髪に、挿した。せめて、あの世へは、この簪と、一緒に。


いや——小春は、思い直した。


簪を、抜いた。


これは、ねぇさんが、自分に、くれたもの。自分が、持っていろと、言ったもの。この梅の花を見るたびに、自分のことを思い出してくれ、と。それが、ねぇさんと、自分を繋ぐ糸だ、と。


ほんの数日前、ねぇさんは、言った。あちきが、いなくなっても、この簪と一緒なら、あちきは、お前の中で、生き続けられる、と。あれは、遺言だった。ねぇさんの、最期の願いだった。簪を、棺に入れてしまえば、その願いに、背くことになる。


ならば、持っていよう。


小春は、その簪を、自分の髪に、挿し直した。


冬を越えて咲く梅。小春という人間の、象徴。そして、ねぇさんが、自分に遺した、ただ一つの、形見。これを、髪に挿しているかぎり、ねぇさんは、自分の、すぐそばに、いる。


ねぇさんは、簪の中に、いる。自分が、生きているかぎり、ねぇさんは、自分の中で、生き続ける。だから、持っていよう。一生。この簪を。死ぬまで。そして、死んだら、その時こそ、一緒に、あの世へ。ねぇさんの、待つ場所へ。


桜が、舞っていた。


空は、青かった。


長い、長い、物語が、終わった。


*


綾乃は、海の見える丘に、葬られた。


文左衛門が、用意した、墓だった。簡素な墓だった。豪華な、花魁の墓では、なかった。だが、日当たりが良く、海が見え、空が見える、いちばん良い場所だった。


墓には、二つの名が、刻まれた。


綾乃。


そして、その隣に、小春。


まだ生きている、小春の名も、並んで、刻まれた。いつか、小春が、逝った時、この隣に、葬られるように。二人が、同じ墓で、眠れるように。それが、小春の、望みだった。文左衛門は、その望みを、叶えた。


遊女の名は、刻まれなかった。


薄雲も、春霞も、刻まれなかった。ただ、綾乃と、小春。二人の、本当の名前だけが、並んで、刻まれた。廓の名では、なかった。生まれた時に、親から、もらった名前。本当の、二人の名前だった。


薄雲という名は、吉原に、置いてきた。


あれは、客に、夢を売るための名だった。檻の中で、生きるための名だった。綾乃は、その名で、二十年近く、生きた。栄華も、転落も、すべて、薄雲という名で、引き受けた。だが、それは、本当の自分では、なかった。本当の綾乃は、薄雲という名の、奥に、ずっと、隠れていた。夜ごと、一人になると、小さく呟いた、あの名。綾乃。


その、本当の名が、最期に、墓に、刻まれた。


薄雲は、消えた。だが、綾乃は、残った。墓石に、刻まれて。小春の、記憶の中に。そして、二人を繋ぐ、簪の中に。薄雲という花魁は、吉原とともに、忘れられていくだろう。だが、綾乃という女が、確かに、生きたことは——小春が、覚えている。この墓が、覚えている。


*


月日が、流れた。


吉原は、何事もなかったように、回り続けた。


薄雲という花魁がいたことも、春霞という花魁がいたことも、やがて、忘れられていった。新しい花魁が、現れ、新しい客が、訪れ、同じ廓詞で、夢が、売られ続けた。世界は、何事もなかったように、続いていった。一人の女が逝こうと、二人の姉妹が檻を出ようと、吉原は、変わらず、灯を、燃やし続けた。


それが、吉原という場所だった。


誰かが、咲き、誰かが、散る。誰かが、来て、誰かが、消える。その繰り返しの中で、廓は、何百年も、回り続けてきた。一人ひとりの女の、喜びも、悲しみも、すべて、呑み込んで。何事もなかったように。それが、この場所の、無常だった。残酷で、そして、それゆえに、一人ひとりの生が、いっそう、愛おしかった。


善兵衛は、その後も、扇松楼の楼主を、続けた。


仏の善兵衛と、呼ばれ続けた。遊女を、人として扱う、稀有な楼主として。だが、その胸には、いつも、薄雲のことが、あった。雫と呼んだ、八つの禿。薄乃と名付けた、新造。誰よりも、情の深かった、花魁。あの子が、生きて、廓を出られたこと。それだけが、善兵衛の、晩年の、慰めだった。


お冬も、変わらず、女将を、続けた。


算盤を、弾き続けた。情を、見せずに。冷たく。だが、時おり、ふと、手を止めて、遠くを、見ることが、あった。何を、見ているのか、誰も、知らなかった。お冬自身も、語らなかった。ただ、薄雲が出ていった、あの春の日のことを、思い出しているのかも、しれなかった。


扇次郎と、福松は、薄雲のことを、語り草に、した。


あの、吉原一の花魁。生きて、大門から、出ていった、稀有な女。座敷で、あの女の三味線を聴けたこと。あの女の舞を見られたこと。それを、二人の幇間は、誇りとして、語り続けた。薄雲という名が、廓から、消えていっても。二人だけは、覚えていた。


*


小春は、別邸で、暮らし続けた。


文左衛門の、世話になりながら。やがて、文左衛門と、小春は、夫婦のように、寄り添って、生きるように、なった。だが、それは、また、別の物語だった。


毎年、春になると。


桜が咲くと、小春は、海の見える丘の墓を、訪れた。


綾乃の眠る墓を。自分の名も、隣に刻まれた墓を。墓前に、花を、供え、手を合わせた。そして、墓に向かって、その年にあったことを、話した。たわいないことを。まるで、綾乃が、まだ、生きているかのように。


小春の髪には、いつも、あの簪が、挿してあった。


銀の梅の簪。綾乃が、くれた簪。冬を越えて咲く梅。年月が経っても、その梅の花は、変わらず、銀色に、光っていた。小春が、それを、大切に、磨き続けたからだった。


ある春の日。


小春は、いつものように、墓を、訪れた。桜が、満開だった。墓のまわりに、桜の木が、植えられていた。文左衛門が、植えたものだった。綾乃が、最期に、桜を見て、逝ったから。せめて、墓のまわりにも、桜を、と。


桜の花びらが、舞っていた。


小春は、墓前に、座った。そして、空を、見上げた。


よく晴れた、春の空だった。どこまでも、青い空。あの日、綾乃に、教えてあげた、青い空。塀も、格子もない、果てのない空。


小春は、その空に、向かって、呟いた。

「ねぇさん。今日も、空が、青いです」


もう、素のことばだった。廓詞は、すっかり、消えていた。


しかし、小春は、ふと、微笑んで、言い直した。


「……青い空で、ありんす」

ねぇさんの、ことばで。


二人だけの、ことばで。


風が、吹いた。桜の花びらが、舞い上がった。空へ、向かって。青い、青い、春の空へ。


その空に、薄く、月が、浮かんでいた。


昼の月だった。春の昼に、薄く、儚く、浮かぶ、白い月。残月だった。夜が明けても、消えずに、空に残った月。


吉原の、四角い空に、浮かんでいた月とは、違った。


果てのない、広い空に、浮かぶ、残月だった。


小春は、その月を、見上げた。


残月、と小春は、心の中で、呟いた。


夜が明けて、朝が来ても、消えずに、空に残る月。役目を、終えたはずなのに、まだ、空に、留まっている月。それは、まるで、ねぇさんのようだ、と小春は思った。逝ってしまったのに、まだ、自分の心の中に、留まっている。消えずに。薄く、儚く。でも、確かに、そこに、いる。


ねぇさんは、残月だ。


吉原という、夜の世界で、いちばん明るく、輝いた花魁。その夜が、明けて、ねぇさんは、逝った。だが、消えなかった。小春の中に、残った。簪の中に、ことばの中に、この空の下に。残月のように。


ねぇさんも、あの月を、見ているだろうか。あの、青い空の、どこかで。広い空の、どこかで。生まれ変わったら、鳥になりたいと、ねぇさんは、言った。どこへでも、飛んでいける、鳥に。今ごろ、ねぇさんは、鳥になって、あの空を、自由に、飛んでいるだろうか。あの、残月の、そばを。


桜が、舞った。


空は、青かった。


残月が、静かに、浮かんでいた。


吉原の檻の中で出会った、二人の女。血の繋がらない、姉妹。地獄の底で、互いを支え合い、最後に、空を見た、二人の女。一人は、逝き、一人は、残った。だが、二人は、今も、繋がっていた。簪の中で。ことばの中で。そして、この、青い空の下で。


人は、価値を失った時、本当に、愛されるのか。


綾乃は、病んで、すべてを、失った。花魁としての価値も、美しさも、客も、名声も、すべて。それでも、小春は、綾乃を、愛した。価値を失った綾乃を。いや、価値を失ったからこそ、本当の綾乃が、見えた。薄雲ではない、綾乃が。そして、小春は、その綾乃を、最期まで、愛し抜いた。


価値を失っても、人は、愛される。


最期に、一人でも、愛する者がいれば。それは、救済になる。綾乃は、救われた。小春という、たった一人の、妹分に、愛されて。そして、小春もまた、綾乃を、愛することで、救われた。二人は、互いを、救い合った。この、巨大な檻の中で、出会って。


小春は、立ち上がった。


もう一度、墓に、手を合わせた。そして、空を、見上げた。


来年も、来よう、と思った。再来年も。生きているかぎり、毎年、来よう。ねぇさんに、空の色を、教えに。いつか、自分も、逝く日が、来たら。この、隣に、葬られる。そして、また、二人で、空を、見る。今度は、ずっと、一緒に。


桜の花びらが、小春の髪の、銀の梅の簪に、一枚、舞い落ちた。


まるで、ねぇさんが、そっと、触れたかのように。


空は、どこまでも、青かった。


その青い空に、残月が、いつまでも、静かに、浮かんでいた。


——了


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


『吉原残月 ― 紅、散るまで ―』は、

華やかな花魁の物語ではなく、


名前を奪われ、

人生を奪われ、

それでも人を愛し続けた者たちの物語でした。


綾乃は最期に、

吉原では見ることのできなかった空を知りました。


小春は最期に、

ねぇさんの言葉で空の色を伝えました。


そして二人は、

血の繋がりではなく、

心で結ばれた姉妹として生涯を終えました。


残月とは、

夜が明けてもなお空に残る月。


消えたはずなのに、

心の中から消えないもの。


綾乃もまた、

小春の中で、

簪の中で、

言葉の中で、

そして読者の皆様の記憶の中で、

残月のように生き続けてくれたら嬉しく思います。


長い旅路を共に歩いてくださり、本当にありがとうございました。

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