第十三話 命の掛け合い
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
第十三話は、これまで積み重ねてきた薄雲と春霞の絆が、大きく動く回となりました。
吉原という場所では、金が人の運命を決めることもあります。
けれど、それ以上に人の心が運命を変えることもあります。
誰かのために自分の幸せを捨てること。
そして、その想いが巡り巡って誰かを救うこと。
今回はそんな物語です。
最後まで見届けていただければ幸いです。
文左衛門が、扇松楼を訪れたのは、よく晴れた、春の昼下がりだった。
夜の妓楼しか知らぬ者には、昼の見世は、別の場所に見えた。灯籠の灯も、三味線の音も、客のざわめきも、なかった。格子の奥は、しんと静まり、掃除を終えた廊下に、春の日差しが、斜めに、差し込んでいた。夜ごと夢を売る場所も、昼間は、ただの古い建物だった。
文左衛門は、奥の座敷に、通された。
応対したのは、楼主の善兵衛だった。
仏の善兵衛、と呼ばれる男。遊女を人として扱う、稀有な楼主。その善兵衛が、上座に、文左衛門を迎えた。傍らには、女将のお冬が、控えていた。算盤を弾く女。商品価値で、人を測る女。二人が、並んで、文左衛門と、向かい合った。
茶が、出された。
文左衛門は、その茶を、ひと口、含んでから、口を、開いた。
「単刀直入に、申し上げます」
文左衛門の声は、静かだった。だが、その奥に、揺るぎのない決意が、あった。
「春霞さんを、身請けしたい。身代金は、五千両。それで、お話を、進めていただきたい」
お冬の目が、わずかに、光った。
五千両。聞いてはいたが、改めて、その口から聞くと、重みが、違った。お冬の頭の中で、算盤が、弾かれた。これ以上の話は、なかった。看板を一つ失う痛手など、五千両の前では、些細なことだった。
「ありがたい、お話で、ございます」
お冬が、答えようとした。
その時。
「お待ちを」
善兵衛が、口を、挟んだ。
お冬が、善兵衛を、見た。なぜ、止めるのか、という目だった。
「文左衛門さま。お話は、ありがたく存じます。されど、こればかりは、わたくしどもが、決めることでは、ございません」
善兵衛は、静かに、言った。
「身請けは、何より、本人の心が、肝心。春霞が、首を縦に振らねば、いくら金を積まれても、話は、進みませぬ。それが、この見世の、決まりでございます」
文左衛門は、頷いた。
「承知しております。春霞さんに、直に、お聞きしたい。お取り次ぎ、願えますか」
「春霞を、これへ」
善兵衛が、女中に、命じた。
*
しばらくして、春霞が、座敷に、現れた。
昼間の春霞は、夜の華やかさとは、違っていた。素顔に近い、淡い化粧。地味な、しかし品のある、小袖。それでも、その美しさは、隠れなかった。文左衛門は、その姿を見て、改めて、心を、決めた。
春霞は、文左衛門の前に、座った。
そして、三つ指をついて、頭を、下げた。
「春霞でありんす。本日は、わざわざのお運び、ありがとうござりんす」
「春霞さん」
文左衛門は、まっすぐに、春霞を、見た。
「あんたに、来てもらったのは、ほかでもない。あんたを、身請けしたいのです。住吉屋へ、迎えたい。あんたに、苦界の暮らしを、これ以上、させたくない」
春霞は、顔を、上げた。
文左衛門の目を、見た。そこには、嘘も、打算も、なかった。本気だった。この人は、本気で、自分を、想ってくれている。それが、わかった。
「わたしは、妻を、若くして、亡くしました」
文左衛門は、静かに、続けた。
「それから、ずっと、一人でした。商いに、明け暮れて、心を、凍らせて、生きてきた。もう、誰かを、想うことなど、ないと、思っていた。だが、この見世に通ううち、あんたの座敷で、わたしは、久しぶりに、心が、和むのを、感じた。あんたの明るさが、わたしの、凍えた何かを、溶かしてくれた。だから、あんたと、生きていきたい。残りの人生を、あんたと、共に」
文左衛門の言葉は、飾り気が、なかった。
商人らしい、巧みな口説きでは、なかった。ただ、心のままを、まっすぐに、述べているだけだった。それが、かえって、春霞の胸を、打った。
ありがたい話だった。
多くの女が、夢に見て、ついぞ手の届かぬ話だった。この人になら、嫁いでもいい。心の片隅で、そう思ったことも、あった。広い空の下で、この人と、暮らす。それは、幸せな夢だった。
しかし。
春霞は、もう一度、三つ指をつき、深く、頭を、下げた。
「もったいない、お話でありんす」
その声は、震えていた。
「されど——わちきは、その、お話を、お受けすることが、できぬのでありんす」
座敷が、静まった。
お冬の眉が、跳ね上がった。五千両の話を、断る。そんなことが、あるのか。お冬には、信じられなかった。
「なぜだい」
お冬が、鋭く、問うた。
「これ以上の話は、ないよ。住吉屋さまほどの、御方からの、身請け話を、断るなんて——お前、正気かい」
春霞は、お冬の問いには、答えなかった。
ただ、文左衛門のほうへ、顔を、向けた。
「文左衛門さま」
春霞の声は、震えながらも、芯が、通っていた。
「わちきには、置いていけない人が、おりんす」
その言葉に。
善兵衛の肩が、かすかに、動いた。
*
置いていけない人が、いりんす——。
善兵衛は、その言葉を、聞いた瞬間、息を、呑んだ。
同じ言葉だった。
かつて、薄雲が、言った言葉だった。何度も身請けを断った、その理由を、ただ一度だけ、善兵衛に漏らした時の、あの言葉。置いていけない者がいりんす、と。あの時の薄雲と、今の春霞が、寸分違わぬ言葉を、口にしていた。
善兵衛は、二人の顔を、重ねて、見た。
薄雲が、小春を、置いていけなかった。だから、すべての身請けを、断った。そして今、その小春が——春霞が、薄雲を、置いていけないと言って、五千両の身請けを、断ろうとしている。
同じ言葉。同じ理由。同じ、心。
血は、繋がっていない。生まれた土地も、違う。それなのに、こんなにも、似ている。善兵衛の胸に、ひとつの思いが、こみ上げた。この二人は、前世から、姉妹だったのではないか、と。何かの縁で、別々に生まれ、別々に売られ、この廓で、巡り合った。そして、互いを、自分の命よりも、大切に思うようになった。そんな二人が、いるものか、と。
善兵衛は、何も、言わなかった。
まだ、言うべき時では、なかった。ただ、煙管を、握る手に、わずかに、力が、こもった。
*
文左衛門は、春霞の言葉を、静かに、聞いていた。
「置いていけない人、とは」
文左衛門が、問うた。
「薄雲、ねぇさんでありんす」
春霞は、答えた。
「わちきの、姉女郎でありんす。雪の夜に、売られてきたわちきを、ただ一人、救うてくれた人。粥を、食べさせて、羽織を、かけて、怖がらなくていいと、言うてくれた人。わちきに、生き方を、教えてくれた人。わちきの、命の、恩人でありんす」
春霞の目に、涙が、滲んだ。
「そのねぇさんが、今、病んで、廓の底の、局に、おりんす。労咳でありんす。もう、長くは、ありんせん。わちきは、毎夜、看病に、通うておりんす。あの人を、一人にしては、おけぬのでありんす」
春霞は、文左衛門を、まっすぐに、見た。
「わちきが、身請けされて、この廓を出れば。ねぇさんは、たった一人で、あの暗い局で、死んでいくことに、なりんす。誰にも、看取られず。誰にも、手を握られず。そんなことは——わちきには、できぬのでありんす」
涙が、春霞の頬を、伝った。
「だから、お受けできぬのでありんす。文左衛門さまの、お気持ちは、嬉しゅうて、ありがたくて、もったいない。されど、わちきは、ねぇさんを、置いては、行けぬのでありんす」
座敷に、沈黙が、降りた。
春霞は、頭を、下げたまま、動かなかった。
文左衛門は、その春霞を、見ていた。長いあいだ、何も、言わなかった。
お冬は、苛立っていた。五千両を、棒に振る。病んだ女のために。お冬には、理解できなかった。理解できないが、口を、挟めなかった。場の空気が、それを、許さなかった。
やがて、文左衛門が、口を、開いた。
「……わかりました」
文左衛門は、静かに、言った。
「今日のところは、引きましょう」
文左衛門は、立ち上がった。怒ってはいなかった。むしろ、何かを、深く、考えている顔だった。
春霞は、頭を、下げたまま、文左衛門を、見送った。
文左衛門が、座敷を出ていく。その背中を、善兵衛が、見ていた。あの薄雲の時と、同じだ、と善兵衛は思った。薄雲も、文左衛門を、断った。そして今、春霞も、文左衛門を、断った。同じ男を、姉妹が、二人とも、断った。それも、同じ理由で。
奇妙な縁だった。
善兵衛は、その縁の糸を、たぐるように、文左衛門の背中を、見送った。
*
文左衛門は、その夜、眠れなかった。
住吉屋の、自分の部屋で、文左衛門は、一人、考えていた。
春霞は、五千両を、断った。病んだ姉女郎を、置いていけない、と。その言葉が、文左衛門の胸に、刺さって、抜けなかった。
障子の外で、波の音が、していた。
住吉屋は、海の近くに、あった。夜になると、潮騒が、聞こえた。文左衛門は、その音を、聞きながら、薄雲のことを、思った。海の話をすると、薄雲は、いつも、静かに、聞き入った。檻の中で生きる薄雲にとって、海の話は、外の世界を感じる、ただ一つの窓だったのかもしれない。あの女に、本当の海を、見せてやりたかった。この、潮の匂いを、嗅がせてやりたかった。だが、薄雲は、もう、長くない。間に合うだろうか。
あの言葉を、文左衛門は、前にも、聞いたことが、あった。
いや、言葉そのものでは、ない。あの、女の、生き方を。自分よりも、他人を。自分の幸せよりも、誰かのそばにいることを、選ぶ生き方を。文左衛門は、それを、知っていた。
薄雲だった。
文左衛門は、薄雲に、身請けを、断られた夜のことを、思い出した。
あの時、薄雲は、言った。わちきのような、泥に染まった廓の女が、旦那さまの暖簾に、泥を塗るわけにはいかぬ、と。自分を、下げる断り方だった。文左衛門は、その断り方に、引っかかった。薄雲ほどの女が、なぜ、自分を、そこまで、下げるのか。何か、別の理由が、あるのではないか、と。
帰り際、文左衛門は、呟いた。
似ているな、と。
誰に似ているのか、その時は、言わなかった。いや、自分でも、はっきりとは、わからなかった。
ただ、薄雲の、あの自分を犠牲にする生き方が、誰かに、似ている気がした。
今、わかった。
春霞だった。
いや、逆だった。春霞が、薄雲に、似ていたのだ。あの、姉女郎に。自分を犠牲にしてでも、相手を守ろうとする、あの生き方に。春霞は、薄雲に、育てられた。だから、似たのだ。同じ情の深さを、同じ自己犠牲を、受け継いだのだ。
文左衛門は、気づいた。
自分は、薄雲に、惚れた。そして、その薄雲が育てた、春霞にも、惚れた。二人は、姉妹だった。血は繋がらずとも、姉妹だった。同じ情を、同じ心を、分かち合った姉妹だった。
文左衛門の胸に、ひとつの考えが、芽生えた。
まだ、形には、ならなかった。だが、その考えは、夜が更けるほどに、はっきりと、輪郭を、持ち始めた。
*
一方、春霞もまた、その数日、眠れぬ夜を、過ごしていた。
文左衛門の身請けを、断った。ねぇさんを、置いていけない、と。それは、間違っていなかった。
後悔も、なかった。だが、春霞の胸には、ひとつの、苦い思いが、残っていた。
このままでは、ねぇさんは、局で死ぬ。
春霞が、いくら、毎夜通って、看病しても。それは、ねぇさんの、死を、少し、先延ばしにするだけだった。あの、暗い局で、日の差さぬ部屋で、湿った匂いの中で、ねぇさんは、死んでいく。それは、変わらなかった。春霞が、廓に留まろうと、留まるまいと。
ねぇさんに、空を、見せてやりたい。
春霞は、思った。あの、約束した空を。雪の夜に、二人で交わした、あの約束。いつか、二人で、ここを出て、広い空を見よう、と。ねぇさんは、もう、長くない。今を、逃せば、二度と、機会は、来ない。あの暗い局で、四角い空さえ見えぬまま、ねぇさんは、逝ってしまう。
それだけは、嫌だった。
ねぇさんに、広い空を、見せたい。日の当たる場所で、海の風に、あたらせてやりたい。たとえ、それが、最期の、わずかな時間でも。
では、どうすれば。
春霞は、考えた。考えて、考えて、そして、ひとつの考えに、行き着いた。
文左衛門さまに、頼むしか、ない。
ねぇさんも、一緒に、引き取ってほしい、と。そんな、虫のいい話が、通るとは、思えなかった。身請けとは、女を、買うことだった。病んで、金を生まぬ女を、引き取る道理は、どこにもなかった。
文左衛門が、断っても、当然だった。むしろ、断られて、当たり前だった。
それでも。
春霞は、頼もうと、決めた。
断られても、いい。何度でも、頼む。土下座でも、何でも、する。文左衛門の気が、変わるまで。
ねぇさんを、連れていけるなら、自分の誇りなど、いくらでも、捨てられた。
春霞は、決意を、固めた。
次に文左衛門が来たら、頼もう、と。ねぇさんも、一緒に、連れていってほしい、と。
*
数日後、文左衛門は、再び、扇松楼を、訪れた。
同じ座敷に、善兵衛と、お冬が、迎えた。そして、春霞が、呼ばれた。
春霞は、また、断る覚悟で、座敷に、入った。何度、来られても、答えは、同じだった。ねぇさんを、置いては、行けない。それは、変わらなかった。
しかし、その日の春霞は、前とは、違っていた。
断るために、来たのでは、なかった。頼むために、来たのだった。
文左衛門が、口を開く前に、春霞は、両手を、畳について、頭を、下げた。
「文左衛門さま。先日は、せっかくのお話を、お断りして、申し訳ござりんせんでした。本日は、わちきのほうから、お願いが、ござりんす」
文左衛門の眉が、わずかに、動いた。
「お願い、とは」
「身請けの、お話。あらためて、お受けしとうござりんす」
お冬の顔が、ぱっと、明るくなった。やはり、考え直したか。五千両を、棒に振るほど、馬鹿では、なかったか。
「ただし」
春霞は、顔を、上げた。その目には、覚悟が、宿っていた。
「ひとつ、お願いが、ござりんす。わちき一人では、なく——薄雲ねぇさんも、一緒に、引き取っては、いただけぬでしょうか」
座敷が、静まった。
お冬の表情が、凍りついた。
「お前、何を——」
「お願い、いたしんす」
春霞は、再び、頭を、下げた。
「薄雲ねぇさんは、病んで、もう、長くありんせん。されど、だからこそ、最期に、この廓の外を、見せてやりとうござりんす。日の当たる場所を。広い空を。海を。あの暗い局で、死なせとうは、ありんせん。わちきは、ねぇさんと、二人で、お屋敷へ、参りとうござりんす」
「馬鹿なことを、お言いでないよ」
お冬が、遮った。
「身請けというのはね、女を、買うことだ。病んで、金にもならない女を、誰が、引き取るものかね。
文左衛門さまに、なんと失礼な——」
「お冬」
善兵衛が、静かに、制した。
お冬は、口を、つぐんだ。が、その目は、なお、苛立っていた。
文左衛門は、しばらく、春霞を、見ていた。
春霞は、頭を、下げたまま、文左衛門の、言葉を、待った。断られるかもしれない。いや、断られて、当然だった。それでも、何度でも、頼むつもりだった。
やがて、文左衛門が、口を、開いた。
「薄雲さんは、病人だ」
その声は、低く、突き放すようだった。
「労咳で、もう、長くないと聞く。引き取っても、座敷に出せるわけではない。金を、生むわけではない。ただ、看取るために、引き取るだけだ。それでも、あんたは、薄雲さんを、連れていきたいか」
春霞は、文左衛門の意図を、測りかねた。
なぜ、そんなことを、聞くのか。突き放すような、その言葉。断る、ということだろうか。それとも——。
しかし、春霞は、答えた。迷いなく。
「連れていきとうござりんす」
その声に、揺るぎは、なかった。
「ねぇさんが、座敷に出られずとも。金を生まずとも。たとえ、明日、死ぬとしても。わちきは、ねぇさんを、連れていきとうござりんす。一日でも、一刻でも、ねぇさんを、広い空の下で、過ごさせてやりたい。あの、暗い局ではなく、日の当たる場所で。それが、わちきの、たった一つの、願いでありんす」
文左衛門は、まだ、頷かなかった。
「五千両は、あんた一人の、身代金だ。薄雲さんを、加えれば、金は、さらにかかる。住吉屋の身代が、傾くかもしれん。それでも、連れていけと、言うのか」
文左衛門の言葉は、厳しかった。
お冬は、固唾を呑んで、見ていた。これは、駆け引きだ、とお冬は思った。文左衛門は、春霞の覚悟を、試している。どこまで、本気か。どこまで、譲らないか。それを、測っている。
そして、お冬には、もう一つ、わかっていた。
この交渉で、最後に、鍵を握るのは、金ではない。春霞の、心だった。どれほど文左衛門が金を積もうと、春霞が首を縦に振らねば、身請けは、成立しない。それが、廓の決まりだった。最高位の花魁は、客が認めねば、指一本、触れさせぬ。寝るも寝ぬも、廓を出るも出ぬも、すべては、花魁の心ひとつ。春霞は、その権を、握っていた。だからこそ、春霞は、引かぬ限り、負けなかった。
条件を、出せた。薄雲も一緒に、と。それは、わがままではなく、最高位の花魁にだけ許された、交渉だった。
お冬は、それを、知っていた。知っていて、止められなかった。
春霞は、引かなかった。
「お金のことは、わちきには、わかりんせん。されど」
春霞は、畳に、両手をついた。そして、深く、深く、頭を、下げた。額が、畳に、つくほどに。
「お願い、いたしんす。ねぇさんを、連れていってくんなんし。わちきは、どんなことでも、いたしんす。一生かけて、ご恩を、お返ししんす。住吉屋のために、身を粉にして、働きんす。ですから、どうか——どうか、ねぇさんを」
春霞は、頭を、下げ続けた。
文左衛門の前で、吉原の頂きに立つ花魁が、土下座を、していた。病んだ姉女郎のために。自分の誇りも、体面も、すべて、投げ捨てて。
*
その時。
善兵衛が、口を、開いた。
「文左衛門さま」
それまで、黙って見ていた善兵衛が、初めて、声を、発した。
「一つ、お聞かせ、したいことが、ございます」
文左衛門が、善兵衛を、見た。
善兵衛は、煙管を、置いた。そして、静かに、語り始めた。
「実は——薄雲も、同じことを、申しておりました」
座敷が、しんと、静まった。
「えっ」
春霞が、頭を、上げた。
「ねぇさんが……何を、でありんすか」
善兵衛は、春霞を、見た。それから、文左衛門を、見た。
「薄雲には、これまで、何度も、身請けの話が、ございました。武家から、商人から、文化人から。
そして、文左衛門さま、あなたさまからも。良い話ばかりでございました。どれも、薄雲が、廓を出て、幸せになれる話で、ございました」
善兵衛の声は、静かだった。
「されど、薄雲は、その、すべてを、断りました。一つ残らず。誰にも、理由を、言わずに」
文左衛門の眉が、動いた。
「ただ一度だけ、薄雲は、わたくしに、その理由を、漏らしたことが、ございます。あれは、いつでしたか。座敷の帰りに、ふと、こう、申しました」
善兵衛は、目を、閉じた。あの日の、薄雲の声を、思い出すように。
「置いていけない者が、いりんす——と」
春霞の身体が、震えた。
「薄雲が、置いていけなかったのは、あなたでございますよ、春霞」
善兵衛は、春霞を、見て、言った。
「雪の夜に拾った、妹分。あなたを、置いて、自分だけ、廓を出ることが、薄雲には、できなかった。あなたが、一人前になるまで。あなたが、自分を、必要としなくなるまで。それまでは、そばに、いてやりたい。そう思って、薄雲は、すべての身請けを、断ったのでございます。自分の、幸せよりも、あなたの、そばにいることを、選んだのでございます」
春霞の目から、涙が、溢れた。
知らなかった。
ねぇさんが、自分のために、身請けを、断り続けていたなんて。何度も、良い話が、来ていたなんて。それを、すべて、断っていたなんて。自分を、置いていけないという、ただ、その理由で。
ねぇさんは、何も、言わなかった。
一度も。言えば、自分が、ねぇさんを、縛ることになる。自分のために、ねぇさんが、幸せを、捨てたと、知れば、自分が、苦しむ。それを、わかっていたから、ねぇさんは、言わなかった。黙って、自分の幸せを、捨てて、それを、おくびにも、出さずに、笑っていた。
春霞の脳裏に、いくつもの場面が、よみがえった。
あの、桜の夜。文左衛門が、初めて、薄雲に、身請けを申し込んだ夜。薄雲は、客を断った後、いつもなら、すぐに消えるはずの表情が、その夜だけ、消えなかった。座敷で、一人、止まったまま、動かなかった。あの時、次の間から、それを見ていた春霞は、意味が、わからなかった。なぜ、ねぇさんは、止まっているのか、と。
今、わかった。
あれは、ねぇさんが、文左衛門の身請けを、断った夜だった。廓を出られる話を、自分のために、断った夜だった。だから、ねぇさんは、止まっていた。揺れていたのだ。出ていきたい気持ちと、自分を置いていけない気持ちの、はざまで。それでも、ねぇさんは、自分を、選んでくれた。
あの、たくさんの身請け話。武家。商人。文化人。一つ一つ、ねぇさんは、鮮やかに、断っていた。座敷を出た後の顔には、何もなかった。春霞は、ねぇさんを、誰のものにもならない、気高い人だと、思っていた。檻の中でいちばん高いところに咲いた花だ、と。
違った。
ねぇさんは、気高さのために、断っていたのでは、なかった。自分を、置いていけなかったから、断っていたのだ。あの、鮮やかな断り方の裏に、ずっと、自分への、情があった。それに、春霞は、何年も、気づかなかった。
春霞は、自分が、許せなかった。
ねぇさんが、自分のために、何を、犠牲にしてきたのか。それも知らずに、ただ、守られて、育って。今になって、知って。涙が、止まらなかった。
「ねぇさん……」
春霞は、嗚咽した。
畳に、突っ伏して、泣いた。声を、上げて、泣いた。吉原の頂きに立つ花魁が、人目も、はばからず、子供のように、泣いた。
*
文左衛門は、その告白を、聞いていた。
全身が、震えるような、感覚だった。
薄雲が、自分の身請けを、断ったのは——名誉に泥を塗るから、ではなかった。泥に染まった廓の女だから、ではなかった。あれは、嘘だった。本当の理由は、春霞を、置いていけなかったからだった。
文左衛門は、思い出した。
あの夜、薄雲は、自分を、下げる断り方を、した。ほかの男には、決して、使わなかった言葉を。
武家には、親孝行を理由に。商人には、神仏の卦を理由に。文化人には、楼主を悪者にして。そして、自分にだけは、自分を、泥だと、言った。
なぜ、自分にだけ、そんな断り方を、したのか。
今、わかった。
薄雲は、ほかの男には、外に責任を、預けて、断った。相手も、自分も、傷つけずに。だが、文左衛門にだけは、それが、できなかった。文左衛門が、本気だと、わかっていたから。本気の相手を、嘘の理由で、断ることが、できなかった。だから、せめて、自分を、下げることで、断った。自分が泥をかぶることで、文左衛門の気持ちを、収めようとした。
それほどまでに、薄雲は、文左衛門を——。
いや、と文左衛門は思った。
それほどまでに、薄雲は、春霞を、守りたかったのだ。文左衛門の身請けを受ければ、廓を出られる。幸せになれる。だが、それは、春霞を、置いていくことだった。だから、薄雲は、断った。自分を、泥だと言ってまで。
文左衛門の頬を、涙が、伝った。
商売で、鍛えた男だった。めったなことでは、心を、動かさぬ男だった。妻を亡くした時でさえ、人前では、泣かなかった男だった。その文左衛門が、泣いていた。
あの夜、自分は、似ているな、と呟いた。
あの時、文左衛門の胸に、浮かんでいたのは、亡き妻の顔だった。文左衛門の妻もまた、自分よりも、人を思う女だった。病に倒れた時、自分の苦しみより、残される文左衛門のことを、案じた。死の床で、妻は言った。あなたは、一人にしないでくださいね、と。自分のことではなく、文左衛門の、行く末を、案じて。
薄雲の、自分を犠牲にする生き方が、その妻に、似ていた。だから、文左衛門は、呟いたのだ。
似ているな、と。誰に、とは言わなかった。言えば、亡き妻のことに、触れねばならなかった。それは、薄雲にも、誰にも、語ったことの、ない傷だった。
そして今、わかった。
似ていたのは、薄雲だけでは、なかった。春霞も、同じだった。三人とも——亡き妻も、薄雲も、春霞も、同じ心を、持っていた。自分よりも、誰かを思う心。自分を犠牲にしてでも、相手を守ろうとする心。文左衛門は、その心に、二度、惚れたのだ。一度目は、妻に。二度目は、この姉妹に。
あれは、間違いだった。いや、間違いでは、なかった。似ているのは、本当だった。だが、薄雲と春霞は、似ているだけでは、なかった。二人は——同じ心を、持った、姉妹だった。一つの情が、
二人に、宿っていた。自分を犠牲にしてでも、相手を守る。その心が、姉から妹へ、妹から姉へ、巡っていた。
文左衛門は、決めた。
いや、もう、決まっていた。この座敷に来る前から、決まっていた。ただ、春霞の覚悟を、薄雲の真実を、この目で、この耳で、確かめたかった。確かめて、なお、揺るがぬ自分を、確かめたかった。
文左衛門は、涙を、拭った。そして、顔を、上げた。
*
「春霞さん」
文左衛門は、泣き伏す春霞に、声を、かけた。
「顔を、上げてくれ」
春霞は、涙に濡れた顔を、上げた。
文左衛門は、その春霞を、まっすぐに、見て、言った。
「二人とも、引き取る」
はっきりと、迷いなく、文左衛門は、言った。
「薄雲さんも、あんたも、二人まとめて、住吉屋へ、迎える。金のことは、心配いらん。住吉屋の身代が、傾こうと、構わん。金は、また、稼げばいい。人は、二度と、戻らん。それを、わたしは、知っている」
文左衛門の声は、確信に、満ちていた。
「わたしは、薄雲さんに、惚れた。そして、その薄雲さんが育てた、あんたにも、惚れた。二人とも、わたしの、家族として、迎えたい。薄雲さんを、看取る。それも、わたしの役目だ。あの人を、日の当たる座敷で、海の見える部屋で、安らかに、過ごさせてやりたい。それが、わたしの、願いだ」
春霞は、言葉を、失った。
ただ、涙を、流しながら、文左衛門を、見ていた。
「ありがとう……ござりんす」
ようやく、春霞は、それだけ、言った。
「ありがとう、ござりんす。文左衛門さま。ありがとう……」
春霞は、また、頭を、下げた。何度も、何度も、頭を、下げた。畳に、涙が、落ちた。
文左衛門は、その春霞を、静かに、見ていた。
*
身請けの話は、決まった。
お冬は、何も、言えなかった。
五千両に加えて、病んだ薄雲まで、引き取る。それも、薄雲の分の金まで、文左衛門は、出すと言った。お冬の算盤では、計りきれぬ話だった。商品価値を失った女に、金を払う。看取るためだけに、引き取る。そんな道理は、お冬の知る、吉原の道理には、なかった。
だが、お冬は、反対しなかった。
いや、反対できなかった。文左衛門の決意の前に、春霞の覚悟の前に、善兵衛の語った真実の前に、お冬の算盤は、沈黙した。
お冬は、思った。
自分には、できないことだ、と。自分は、情を、捨てて、生きてきた。甘さが、女を殺すと、知っていたから。算盤だけを、信じて、生きてきた。だが、この二人の姉妹は、情を、捨てなかった。自分を犠牲にしてでも、互いを、守った。そして、その情が、一人の男の心を、動かし、五千両を、超える奇跡を、起こした。
お冬には、まぶしかった。
そして、ほんの少し、羨ましかった。自分が、若い頃に、捨ててきたものが、そこに、あった。捨てなければ、生きてこられなかったものが。
お冬も、若い頃は、遊女だった。
夢を、見たこともあった。いい客に、身請けされて、廓を出て、人並みの暮らしをする。そんな夢を。だが、それは、叶わなかった。客は、離れ、年を取り、舞台を、降りた。そして、生き残るために、情を、捨てた。誰かを、本気で思うことを、やめた。思えば、傷つく。傷つけば、この廓では、生きていけない。だから、心を、殺した。算盤を、取った。それが、お冬の、生き方だった。
もし、あの頃の自分に、春霞のような、妹分がいたら。
お冬は、ふと、そう思った。自分を、命がけで、守ってくれる誰かが。自分が、命がけで、守りたい誰かが。いたら、自分も、違う生き方が、できただろうか。情を、捨てずに、済んだだろうか。
わからなかった。
もう、遠い昔のことだった。お冬は、その思いを、振り払った。今さら、詮無いことだった。自分は、もう、情を捨てた女将だった。それで、いい。それで、生きてきた。
お冬は、立ち上がった。そして、女中に、低く、命じた。
「薄雲の、身支度を、整えておやり。住吉屋さまへ、お渡しできるように。きれいに、してやっておくれ」
その声には、いつもの、平らな響きの、奥に。
ほんの、わずかに、別のものが、混じっていた。
お冬自身も、気づかぬほどの、わずかなものが。
*
文左衛門が、帰った後。
春霞は、善兵衛の前に、座っていた。
「おとっさん」
春霞は、善兵衛を、そう、呼んだ。
「ありがとう、ござりんす。おとっさんが、ねぇさんのことを、話してくださったから……文左衛門さまの、心が、動きんした」
善兵衛は、首を、振った。
「わしは、本当のことを、言うただけだ」
善兵衛の声は、優しかった。
「薄雲が、ずっと、隠していたことだ。あれは、お前に、知られたくなかっただろう。だが、わしは、言わずには、おれなかった。お前たち二人が、同じ言葉で、互いを、置いていけないと言うのを、見ていたら……黙って、おれなかった」
善兵衛は、目を、伏せた。
「薄雲は、わしにとっても、娘のような、ものだった。雫と呼ばれていた、禿の頃から、見てきた。あの子が、お前を、どれほど、大切にしていたか。わしは、知っている。だから……お前が、あの子を、連れていってくれるのが、嬉しい。あの子が、最期に、廓の外の空を、見られる。それが……」
善兵衛の声が、詰まった。
善兵衛は、しばらく、黙ってから、ぽつりと、言った。
「わしは……あの子を、局へ送るのを、止められなかった」
その声には、深い、悔いが、にじんでいた。
「仏の善兵衛などと、世間は、わしを呼ぶ。遊女を、人として扱う、稀有な楼主だ、と。だが、所詮、わしも、楼主だ。商品価値を、失った薄雲を、座敷には、置いておけなかった。お冬の言うことに、逆らえなかった。あの子を、暗い局へ、送った。娘のように思いながら、それを、止められなかった。わしは……仏でも、なんでもない。ただの、廓の主だ」
善兵衛の手が、震えていた。
「だから、せめて。せめて、あの子が、廓の外で、最期を迎えられるなら。それが、わしの……わしにできる、たった一つの、罪滅ぼしだ」
春霞は、善兵衛を、見た。
仏の善兵衛、と呼ばれた男。遊女を、人として、扱った男。しかし、その善兵衛も、廓の楼主だった。遊女を、売り、買い、働かせて、生きてきた男だった。どれほど、情をかけても、結局は、制度の中で、生きるしかなかった男だった。薄雲を、娘のように思いながら、その薄雲を、局へ送ることを、止められなかった男だった。
その善兵衛が。
「達者で、な」
善兵衛は、それだけ、言った。
そして、くるりと、背を、向けた。
春霞に、顔を、見られぬように。
善兵衛の肩が、震えていた。
声を、殺して。背を、向けたまま。仏の善兵衛と呼ばれた老人が、肩を、震わせて、泣いていた。長年、見送ってきた、数えきれぬ遊女たち。その中で、たった一人、娘のように思った女が、ようやく、廓の外へ、出られる。生きて、出られる。棺桶に入って、不浄門から、ではなく。大門から、籠に乗って。日の当たる場所へ。
その日を、善兵衛は、長いあいだ、待っていたのかもしれなかった。
春霞は、その背中に、深く、頭を、下げた。
何も、言わなかった。言えば、自分も、泣いてしまう。だから、ただ、頭を、下げた。長いあいだ、深く。この見世で、ねぇさんと自分を、人として、扱ってくれた、たった一人の、楼主に。おとっさん、と呼べる、たった一人の、人に。
善兵衛の背中は、いつまでも、震えていた。
春の日差しが、その背中を、淡く、照らしていた。
*
その夜。
春霞は、局へ、向かった。
いつものように。粥を、持って。薬を、持って。だが、その夜だけは、いつもと、違っていた。胸が、高鳴っていた。早く、伝えたかった。ねぇさんに。この、奇跡のような、知らせを。
局の戸を、開けると、薄雲が、待っていた。
「来んした」
薄雲は、いつものように、微笑んだ。痩せた顔で。それでも、春霞を見ると、嬉しそうに。
春霞は、薄雲のそばに、膝をついた。そして、薄雲の、痩せた手を、両手で、握った。
「ねぇさん」
春霞の声は、震えていた。
「ねぇさん、聞いてくんなんし。あちきたち、ここを、出られんす」
薄雲の目が、見開かれた。
「出られる……?」
「文左衛門さまが、二人まとめて、引き取ってくださるのでありんす。ねぇさんも、あちきも、一緒に。住吉屋へ。海の見える、お屋敷へ。日の当たる、座敷で。ねぇさん、あちきたち、広い空の下へ、行けるのでありんす」
薄雲は、しばらく、言葉を、失っていた。
信じられない、という顔だった。病んで、局に落ちて、もう、ここで死ぬのだと、覚悟していた。それが——廓の外へ、出られる。広い空の下へ。あの、約束した空の下へ。
「本当に……?」
「本当でありんす」
春霞は、涙を、流しながら、頷いた。
「ねぇさん。あちきたち、約束しんしたな。いつか、二人で、空を見ようと。雪の夜に。覚えておりんすか」
「……覚えて、おりんす」
「その約束が、叶うのでありんす。やっと。やっと、叶うのでありんす」
薄雲の目から、涙が、こぼれた。
あの、雪の夜の、約束。いつか、二人で、ここを出て、広い空を、見よう。叶うはずも、ないと、思っていた。檻の中で、結んだ、儚い約束。それが、叶う。生きて、廓を、出られる。二人で。
「ありがとう……」
薄雲は、春霞の手を、握り返した。痩せた、力のない手で、それでも、精一杯。
「ありがとう、小菊。お前が……お前が、いてくれたから」
二人は、手を握り合ったまま、泣いた。
薄雲は、思った。
朝霧は、言った。一刻でも長く、生き残れ、と。お前を必要とする、誰かのために、と。あの言葉を、お守りのように、握りしめて、ここまで、生きてきた。咳を、隠し、白粉を、塗り、局の暗さに、耐えて。生きてきた。そして今、その「生きてきた」ことが、報われようとしていた。生きていたから、廓の外へ、出られる。生きていたから、空を、見られる。生きていて、よかった。朝霧の言葉に、従って、よかった。
もし、あの時、投げていたら。生きることを、諦めていたら。この日は、来なかった。
生きることは、こういうことなのか、と薄雲は思った。苦しくても、惨めでも、生きていれば、いつか、光が、差すことがある。すべてを失っても、たった一人、そばにいてくれる者がいれば。その者のために、生きていれば。
暗い局の中で。それでも、その夜の局は、いつもより、明るく、見えた。
外の世界が、二人を、待っていた。
広い空が、待っていた。
長い、長い、檻の中の暮らしが、終わろうとしていた。
——第十三話 了
第十三話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回のテーマは、
「情は巡る」
です。
薄雲は春霞を置いて行けず、何度も身請けを断りました。
そして今度は春霞が、薄雲を置いて行けずに身請けを断ります。
同じ言葉。
同じ想い。
同じ優しさ。
血の繋がりはなくても、二人は確かに姉妹でした。
また今回は文左衛門という男の答えも描きました。
金ではなく人を選ぶ男。
失った者があるからこそ、人の命の重みを知っている男。
彼だからこそ、この奇跡は起こせたのだと思います。
そして善兵衛。
ずっと娘のように見守ってきた薄雲を、生きたまま吉原の外へ送り出せる日が来ました。
この物語を書きながら、何度も胸が熱くなりました。
次回はいよいよ――
長い檻の人生を終えた二人が、大門を越える日です。
ぜひ続きを見届けていただければ嬉しいです。




