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第十二話 夜の灯火

いつもお読みいただきありがとうございます。


第十二話「夜の灯火」をお届けいたします。


吉原の春は華やかです。

仲之町には桜が咲き、人々は夢を買い、女たちは笑います。


けれど、その華やかな世界の片隅には、誰にも見えない場所があります。


今回の舞台は、そんな場所です。


病に倒れた薄雲。

そして、そのもとへ通い続ける小菊。


華やかな花魁として頂点へ立ちながらも、夜ごと局へ向かう小菊の姿を書きました。


人は何のために生きるのか。

誰かを想う気持ちは、どこまで人を支えられるのか。


そんなことを考えながら書いた一話です。


どうぞ最後までお楽しみください。

 冬が過ぎ、春が来た。


仲之町に、また、根のない桜が、運ばれてきた。植木屋が、大路の真ん中に、桜を植え込んだ。十日ばかりの、花の盛りのために。客が、その下を、行き交った。賑わいは、去年と、変わらなかった。


しかし、薄雲は、もう、その桜の下を歩くことは、なかった。


局の小さな格子窓から、薄雲は、その桜を、見ることもできなかった。窓の向こうには、隣の建物の、灰色の壁が、あるだけだった。春が来たことを、薄雲は、空気の匂いで、知った。冬の、張りつめた冷たさが、少し、ゆるんだ。それだけが、春の知らせだった。


その春も、小菊は、毎夜、局へ通っていた。


*


小菊の看病は、続いていた。


もう、幾月になるだろうか。薄雲が局へ移ってから、小菊は、一夜も、欠かさなかった。座敷を終えると、化粧を落とす間も惜しんで、局へ向かった。薬を煎じ、粥を運び、薄雲の汗を拭い、夜着を整えた。咳の発作が来れば、背をさすった。薄雲が眠るまで、そばに、いた。


その暮らしは、小菊の身体を、削っていった。


昼は、座敷に出た。夜は、局に通った。眠る時間は、わずかだった。客の前では、変わらず、明るく、艶やかに振る舞った。座敷を一つも、落とさなかった。むしろ、小菊の人気は、上がる一方だった。


しかし、その白い顔の下に、疲れが、溜まっていった。


鏡を見れば、目の下に、隈が、できていた。それを、白粉で、隠した。痩せた頬を、紅で、ごまかした。かつて、薄雲が、病を隠したのと、同じことを、小菊もまた、していた。違うのは、小菊が隠していたのは、病ではなく、疲れだったことだ。看病の疲れ。眠らぬ夜の、疲れ。


時おり、座敷で、ふと、意識が、遠のきそうになった。


客の話を聞きながら、まぶたが、重くなった。三味線を弾く指が、わずかに、もつれた。そのたびに、小菊は、爪を、手のひらに、立てた。痛みで、目を、覚ました。倒れるわけには、いかなかった。倒れれば、看板が、終わる。看板が終われば、薬代も、出せなくなる。何より、夜、局へ、通えなくなる。


だから、小菊は、こらえた。


昼の座敷で、輝くように、笑った。夜の局で、姉の汗を、拭った。その二つを、両方とも、手放さなかった。どちらも、小菊にとって、手放せぬものだった。一つは、生きるため。もう一つは、生きる意味のため。


春霞——座敷での小菊の名は、いまや、吉原の頂きに、あった。


薄雲が病で倒れ、局へ消えた後、その空いた頂きを、春霞が、埋めていた。かつて、薄雲と春霞は、二枚看板と呼ばれた。今は、その片方だけが、残り、廓を、支えていた。客は、春霞を、求めた。何ヶ月も前から、座敷を争った。かつての、薄雲のように。


しかし、誰も、知らなかった。


その春霞が、座敷を終えるたびに、廓の底の、暗い局へ通っていることを。病んだ姉女郎の、汗を拭い、粥を運んでいることを。客の前で、輝くように笑うその女が、夜は、別の顔で、看病をしていることを。


二つの顔を、小菊は、生きていた。


昼の、華やかな春霞。夜の、姉を看取る小菊。その落差を、小菊は、誰にも、見せなかった。薄雲が、かつて、客前と私的な場で、顔を変えたように。小菊もまた、二つの顔を、使い分けていた。いつのまにか、薄雲に、似ていた。


*


お冬は、それに、気づいていた。


春霞が、夜ごと、局へ通っていることを。稼ぎ頭が、病んだ女のために、身を削っていることを。


お冬の目を、欺けるものは、なかった。


ある日、お冬が、廊下で、春霞を、呼び止めた。


「春霞」

春霞は、足を、止めた。

「お前、夜ごと、局へ通っているそうだね」


お冬の声は、平らだった。咎める響きは、なかった。ただ、事実を、確かめる声だった。


「はい」


春霞は、隠さなかった。隠しても、無駄だと、知っていた。


「身体を、壊すよ」

お冬は、言った。

「お前は、今、この見世の、看板だ。お前が倒れれば、扇松楼は、終わる。病んだ女のために、看板が倒れては、元も子もない。わかっているね」

「わかっておりんす」

春霞は、お冬の目を、まっすぐに、見た。

「でも、あちきは、通いんす。座敷は、一つも、落としんせん。お約束しんす。ですから、夜のことは、どうか、見逃してくんなんし」

お冬は、しばらく、春霞を、見ていた。


この娘は、退かない。お冬には、わかった。叱っても、脅しても、この娘は、通うのをやめないだろう。かつての、薄雲のようだった。いや、薄雲よりも、なお、強情だった。薄雲は、情を、隠した。


だが、この娘は、情を、隠さない。隠さずに、貫こうとする。


厄介な娘だ、と、お冬は思った。


だが、同時に、お冬は、計算もしていた。春霞が、座敷を落とさないなら、夜に何をしようと、見世の損には、ならない。むしろ、春霞の人気は、上がっている。看板として、申し分ない。ならば、夜のことは、目を、つぶってもいい。それが、お冬の、算盤だった。


「座敷を、一つでも落としたら、その時は、許さないよ」

お冬は、それだけ言って、背を、向けた。

「それから——」


お冬は、立ち去りかけて、ふと、足を止めた。背を向けたまま、言った。


「薬代は、見世から、出しておく。お前の稼ぎから、引いておくれと言いたいところだが……まあ、いい。看板の、心づけだ」

春霞は、はっと、して、お冬の背を、見た。


お冬は、振り向かなかった。そのまま、廊下を、去っていった。算盤の音が、聞こえるような、足取りで。


春霞は、その背中に、深く、頭を下げた。


お冬という人は、わからない人だった。冷たいのか、温かいのか。薄雲を局へ追いやったのも、お冬だった。それなのに、薬代を、見世から出すと言う。看板の心づけだ、と。きっと、それも、計算なのだろう。情ではなく、算盤なのだろう。だが、その算盤の、どこかに、ほんの少しだけ、別のものが、混じっている気が、春霞には、した。


*


ごくたまに、座敷が、どうしても、長引く夜が、あった。


大口の客に、引き止められ、夜明け近くまで、座を、離れられぬ夜。そういう夜は、局へ、通えなかった。薄雲を、一人にしてしまう夜だった。


そんな夜のために、小菊は、文を、書くようになった。


通えぬ夜は、市松に頼んで、文を、局へ、届けてもらった。短い文だった。今夜は行けぬこと。


明日は必ず行くこと。身体を大事にすること。たわいない、短い言葉だった。それでも、小菊は、一字一字、心を込めて、書いた。薄雲が、誰も来ない夜を、少しでも、寂しくなく、過ごせるように。


薄雲は、その文を、大切にした。


届いた文を、何度も、読み返した。そして、捨てずに、枕の下に、しまった。通えぬ夜、薄雲は、その文を、枕の下から、取り出して、読んだ。小菊の字を、指で、なぞった。すると、あの子が、そばにいるような、気がした。文の向こうに、あの子の声が、聞こえるような、気がした。


短い文が、一通、また一通と、枕の下に、溜まっていった。


それは、小菊から薄雲への、夜の灯火だった。通えぬ夜に、薄雲を照らす、小さな灯だった。


*


その夜も、小菊は、局へ来た。


薄雲は、いくらか、落ち着いていた。咳は、相変わらず、出たが、その夜は、熱が、引いていた。


粥も、いつもより、食べた。

「今日は、お加減が、良いようでありんすな」

小菊が、言うと、薄雲は、微笑んだ。

「お前が、来てくれるからでありんす」

二人は、しばらく、昔話を、した。


雪の夜の、出会いのこと。物置の、寒さのこと。初めて、粥を食べた時のこと。稽古の、日々のこと。小菊の、初めての座敷のこと。簪を、贈った夜のこと。思い出は、尽きなかった。話しているうちに、二人とも、笑った。暗い局の中で、二人の笑い声が、小さく、漏れた。


その笑い声は、かつて、稽古の夜に、二人で笑った、あの笑い声と、同じだった。


病んでも、落ちても、二人の間にあるものは、変わらなかった。


ふと、薄雲が、言った。

「小菊」

「はい」

「お前に、頼みが、ありんす」

「何でありんすか」

薄雲は、少し、ためらってから、言った。

「あちきが、いなくなった後のことを、頼みたいのでありんす」

小菊の顔が、こわばった。

「ねぇさん、そんなことを——」

「聞いておくれ」

薄雲は、静かに、続けた。

「人は、いつか、死にんす。あちきも、お前も。それは、避けられぬことでありんす。だから、あちきは、お前に、言っておきたい。あちきが、いなくなっても、お前は、生きなんし。あちきのことで、自分の道を、曲げてはいけんせん。良い人がいれば、身請けされなんし。この廓を、出なんし。広い空の下で、生きなんし」

小菊は、首を、振った。

「あちきは、ねぇさんを、置いて、出たりは、しんせん」

「小菊」

「しんせん」

小菊は、薄雲の手を、握った。

「ねぇさんがいなければ、あちきは、今、ここにいんせん。あの雪の夜に、死んでいんした。ねぇさんが、あちきの、命でありんす。その命を、置いて、自分だけ、幸せになることなど、できんせん」

薄雲は、小菊の顔を、見た。


その目に、揺るぎは、なかった。この子は、本気だ。薄雲には、わかった。だから、それ以上、言えなかった。言っても、無駄だと、知っていた。この子は、自分のために、自分を、犠牲にしようとしている。かつて、自分が、この子のために、身請けを断り続けたように。


二人は、よく、似ていた。


恩のために、自分を、壊そうとするところまで、似ていた。


薄雲は、それ以上、何も、言わなかった。ただ、小菊の手を、握り返した。


*


その頃、見世に、一つの話が、持ち上がっていた。


住吉屋の文左衛門が、春霞の身請けを、望んでいる、という話だった。


文左衛門は、薄雲が倒れた後も、扇松楼に、通い続けていた。薄雲のいなくなった座敷に、文左衛門は、来た。そして、春霞の座敷に、つくようになった。最初は、薄雲のことを、案じてのことだった。春霞から、薄雲の様子を、聞きたかったのだ。


しかし、通ううちに、文左衛門は、春霞という女を、見るようになった。


春霞は、明るかった。薄雲が、孤独な月だとすれば、春霞は、人を温める、春の陽だった。客の心を、ほぐすのが、巧みだった。文左衛門は、その春霞の座敷で、久しぶりに、心が、和むのを感じた。妻を亡くしてから、ずっと、凍えていた何かが、春霞のそばで、少し、溶けるようだった。


文左衛門は、海の話を、した。


薄雲に、いつも、していた、あの海の話を。沖の漁火。嵐の夜。遠い異国の品々。春霞は、その話を、薄雲とは、違うふうに、聞いた。薄雲が、静かに、聞き入ったのに対し、春霞は、目を輝かせて、問い返した。海を見たことがあるか、と。波の音は、どんな音か、と。春霞の問いに、文左衛門は、一つ一つ、答えた。話していて、楽しかった。妻を亡くして以来、誰かと話していて、楽しいと、感じたことは、なかった。


そして、文左衛門は、知った。


その春霞が、夜ごと、病んだ姉女郎のために、身を削っていることを。座敷で輝くように笑う女が、人知れず、廓の底へ通い、看病を続けていることを。文左衛門は、それを知って、春霞という女に、ますます、惹かれた。


ある夜、文左衛門は、春霞に、聞いた。

「あんた、疲れているのではないか。目の下に、隈がある」


春霞は、はっと、して、扇で、口元を、隠した。


「いいえ。なんでもありんせん」

「無理を、しているのだろう。薄雲さんの、看病で」


春霞は、答えなかった。文左衛門は、それ以上、聞かなかった。ただ、静かに、言った。


「あんたは、いい女だ。薄雲さんが、可愛がるわけだ」


その言葉に、春霞は、なぜか、胸を、突かれた。この客は、薄雲のことを、悪く言わない。病んで、消えた花魁のことを、今も、敬って、話す。そういう客は、もう、ほとんど、いなくなっていた。


皆、薄雲のことを、忘れたがった。病の女のことなど、なかったことに、したがった。だが、この文左衛門だけは、違った。


義に厚い女だった。情の深い女だった。それは、薄雲が持っていたものと、同じだった。いや、薄雲は、情を隠した。だが、春霞は、その情を、まっすぐに、生きていた。


文左衛門は、決めた。


この女を、身請けしよう、と。


身請け金は、五千両。破格の額だった。大店の身代が、一つ、傾くほどの額だった。それを、文左衛門は、惜しまなかった。住吉屋の身代なら、出せる額だった。何より、文左衛門は、本気だった。


その話が、扇松楼に、もたらされた。


*


お冬は、喜んだ。


五千両。それも、住吉屋ほどの大店からの、身請け話だった。これ以上の話は、なかった。春霞という看板を失うのは、痛手だった。だが、五千両という金は、その痛手を、補って、余りあった。


お冬の算盤が、忙しく、弾かれた。


善兵衛は、複雑な顔を、した。


春霞が、身請けされる。良い話だった。あの子が、廓を出て、幸せになる。それは、善兵衛も、望むことだった。しかし、善兵衛の胸には、もう一つ、引っかかるものが、あった。薄雲のことだった。春霞が出ていけば、薄雲は、どうなる。あの、病んだ女は、たった一人、廓の底に、残されることになる。


善兵衛は、知っていた。


薄雲が、かつて、何度も、身請けを断っていたことを。良い話が、いくつも、来ていた。武家からも、商人からも、文化人からも。そして、文左衛門からも。それを、薄雲は、すべて、断った。誰にも、理由を言わなかった。だが、善兵衛にだけは、一度、漏らしたことが、あった。


置いていけない者が、いりんす——と。


薄雲は、そう言った。それきり、二度と、言わなかった。だが、善兵衛は、わかっていた。薄雲が、置いていけなかったのは、小春だった。あの、雪の夜に拾った、妹分だった。薄雲は、小春を、置いて、自分だけ、廓を出ることが、できなかった。だから、すべての身請けを、断った。自分の幸せよりも、妹分のそばに、いることを、選んだ。


その薄雲を、今度は、小春が、置いていけるだろうか。


善兵衛には、わからなかった。だが、なんとなく、予感が、あった。あの二人は、よく、似ている。


薄雲が、小春を置いていけなかったように、小春もまた、薄雲を、置いていけないのではないか。


もし、そうなら。


この身請け話は、すんなりとは、いくまい。


善兵衛は、何も、言わなかった。


ただ、煙管を、ふかしながら、考えていた。あの二人は、前世から、姉妹だったのかもしれない、と。血は、繋がっていない。生まれた土地も、違う。それなのに、こんなにも、似ている。同じ言葉で、同じ理由で、互いを、置いていけない。そんな二人を、善兵衛は、長いあいだ、見てきた。


文左衛門からの話は、まず、春霞に、伝えられることになった。


*


春霞のもとへ、その話が、届いた夜。


文左衛門の使いが、手土産を、持ってきた。身請けの話の、前触れだった。立派な、漆塗りの箱だった。中には、上等な反物が、入っていた。住吉屋の、本気を示す、品だった。


春霞は、その手土産を、受け取った。


使いが帰った後、春霞は、その漆の箱を、しばらく、見ていた。


身請け。


廓を出る。広い空の下で、生きる。それは、すべての遊女が、夢に見て、ついぞ、手の届かぬものだった。それが今、自分の前に、差し出されていた。五千両という、破格の額とともに。


多くの女なら、飛びついただろう。


これ以上の話は、なかった。文左衛門は、人柄も良く、店も、確かだった。身請けされれば、二度と、客を取らずに済む。借金からも、解き放たれる。人並みの暮らしが、待っていた。夢が、叶うのだった。


春霞は、文左衛門のことを、嫌いでは、なかった。


むしろ、好ましく、思っていた。海の話をする、あの静かな男。病んだ薄雲のことを、今も、敬って話す、あの誠実な男。あの人になら、嫁いでもいい、と、心の片隅で、思ったことも、あった。あの人と、広い空の下で、暮らす。それは、悪い夢では、なかった。むしろ、幸せな夢だった。


しかし、春霞は、喜べなかった。


漆の箱を、見つめながら、春霞の胸に、浮かんだのは、文左衛門の顔でも、広い空でも、なかった。


薄雲の顔だった。


あの、暗い局で、痩せ衰えて、それでも、自分を見ると微笑む、ねぇさんの顔。「身請けされなんし」「あちきを置いて、出なんし」と、繰り返す、ねぇさんの声。


あちきが、廓を出れば。


春霞は、思った。あちきが、文左衛門に、身請けされれば。ねぇさんは、どうなる。誰が、夜ごと、局へ通う。誰が、粥を運ぶ。誰が、汗を拭う。誰が、咳の発作の時、背をさする。あちきが、いなくなれば、ねぇさんは——たった一人で、あの暗い局で、死んでいくことになる。


誰にも、看取られずに。誰にも、手を、握られずに。あの、雪の夜の、自分のように。一人で、震えながら。


そんなことは、できなかった。


いくら、夢が叶おうと。広い空が、手に入ろうと。文左衛門が、どれほど、良い人であろうと。ねぇさんを、置いては、行けなかった。


春霞は、漆の箱を、そっと、脇へ、置いた。


そして、立ち上がった。


今夜も、局へ、行く時間だった。粥を、用意して、薬を、煎じて。ねぇさんのもとへ。身請けの話など、まるで、なかったかのように。


春霞は、いつものように、局への廊下を、歩いた。


手土産の反物には、目もくれなかった。


その手には、温かい粥の椀が、あった。


廓の底の、暗い局に、今夜も、小さな灯火が、灯る。


その灯火だけが、薄雲の、夜を照らしていた。


そして、その灯火を、絶やさぬために、春霞は、五千両の夢を、脇へ置いた。


まだ、誰にも、言わずに。


*


局の戸を、開けると、薄雲が、待っていた。

「来んした」

春霞は、微笑んだ。いつものように。

「遅うなって、すまぬことでありんす」

薄雲も、微笑んだ。

「待っておりんした」


二人は、その夜も、いつものように、過ごした。


春霞は、身請けの話を、薄雲には、言わなかった。


言えば、薄雲は、また、「身請けされなんし」と言うだろう。「あちきを置いて、出なんし」と。それを、聞きたくなかった。だから、言わなかった。ただ、粥を、運び、薬を、煎じ、汗を、拭った。いつものように。


暗い局の中で、灯火が、揺れていた。


その灯火が、二人の顔を、淡く、照らしていた。


外では、春の夜が、更けていった。仲之町の桜は、満開だった。客たちが、その下で、酒を飲み、女を買い、夢を見ていた。華やかな、廓の夜だった。


その華やぎから、遠く離れた、廓の底で。


二つの灯火が——一つは薄雲、一つは小菊が、寄り添うように、揺れていた。


どちらかが消えれば、もう一つも、消えてしまいそうな、頼りない灯火だった。


それでも、その夜、灯火は、消えなかった。


——第十二話 了


第十二話「夜の灯火」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


今回のお話は、大きな事件が起こる回ではありません。


ですが、私自身、この物語の中でも特に大切な回になったと思っています。


病に倒れ、すべてを失った薄雲。


そして、その薄雲を決して見捨てず、毎夜局へ通い続ける小菊。


華やかな吉原の世界を書く一方で、私はずっと「人と人との繋がり」を描きたいと思っていました。


お金でもなく。

名声でもなく。

地位でもなく。


最後に人を支えるのは、誰かを想う気持ちなのかもしれません。


今回登場した身請け話は、小菊にとって大きな分岐点になります。


誰もが望む幸せ。


しかし、その幸せの先には、置いていかなければならない人がいる。


小菊は何を選ぶのか。


そして薄雲は何を願うのか。


物語はここからさらに大きく動き始めます。


引き続き『吉原残月 ― 紅、散るまで ―』を見守っていただければ幸いです。


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いつも本当にありがとうございます。

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