第十一話 局
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
第十一話「局」です。
花魁として頂点に立った薄雲が、ついに廓の底へ落ちていきます。
豪華な打掛も、簪も、名声も、客も――。
これまで薄雲を飾っていたものが、一つずつ剥がれ落ちていきます。
ですが、人が本当に失ってはならないものは何なのか。
今話では、それが静かに描かれます。
誰も来ない局。
長い昼。
病に蝕まれる身体。
そんな薄雲を支えるのは、かつて雪の夜に救った妹分・小菊でした。
与えた情けが巡り巡って自分へ返ってくる。
吉原という過酷な世界の中で、それでも消えなかった人の情。
そして朝霧から受け継いだ
「一日でも長く生きろ」
という言葉。
物語はいよいよ終幕へ向かいます。
どうぞ最後までお付き合いください。
――『吉原残月 ― 紅、散るまで ―』
第十一話「局」
薄雲は、局へ移された。
宴で倒れてから、幾日も経たぬうちだった。
医者は、労咳だと言った。胸を病む、治らぬ病だった。日の差さぬ場所で、身体を削って生きる者が、罹りやすい病。一度患えば、もう、元には戻らぬ病だった。咳とともに血を吐き、痩せ衰え、やがて——。医者は、最後まで、言わなかった。言わずとも、誰もが、知っていた。
病が、知れ渡った。
吉原一の花魁、薄雲が、労咳を患った。その噂は、医者が言ったとおり、一日で、廓中に広まった。そして、客が、離れた。
潮が引くように、客は、いなくなった。
あれほど、何ヶ月も前から座敷を争った客たちが、ぱたりと、来なくなった。労咳は、うつる病だと言われていた。病んだ女を抱けば、自分も病む。誰も、命を懸けてまで、花魁を買おうとはしなかった。薄雲の名は、つい先頃まで、吉原で最も高く売れる名だった。それが今は、誰も触れたがらぬ名に、変わっていた。
花魁とは、そういうものだった。
咲いているうちは、もてはやされる。男たちは、競って、その花を、求める。だが、花が病めば、傷めば、色褪せれば、男たちは、潮が引くように、去っていく。花そのものを、愛していたわけでは、なかったのだ。咲き誇る、その盛りを、買っていただけだった。薄雲という人間ではなく、薄雲という、花の盛りを。
薄雲は、それを、恨まなかった。
恨んでも、仕方が、なかった。それが、廓だった。それが、客というものだった。わかっていた。
ずっと、わかっていた。自分が売っていたのは、夢だった。男たちが買っていたのも、夢だった。
夢が覚めれば、誰も、いなくなる。当たり前のことだった。
ただ一人、文左衛門だけは、違うかもしれない、と、ふと、思った。
だが、その考えを、薄雲は、打ち消した。期待しては、いけない。あの人も、いつか、来なくなる。
皆と、同じように。期待すれば、裏切られた時に、苦しい。だから、期待しないことにした。
お冬の差配は、早かった。
商品価値を失った花魁を、上等な座敷に置いておく理由は、なかった。薄雲は、見世のいちばん奥にある、局へと移された。
局は、暗かった。
窓は小さく、格子が嵌まり、日はほとんど差さなかった。畳は古び、隅に湿った匂いが溜まっていた。かつて、花扇が落ちた部屋だった。お梅が消えた部屋だった。廓の底だった。咲いていた花が、散った後に、行き着く場所だった。
薄雲は、その部屋に、座っていた。
*
着物が、剝がれていった。
局へ移る時、薄雲は、それまで着ていた豪華な打掛を、すべて、取り上げられた。金糸銀糸の打掛も、京から取り寄せた帯も、薄雲の稼ぎで誂えたはずのものが、見世のものだ、と言われた。借金の形だ、と。残されたのは、色のあせた、木綿の小袖が、数枚きりだった。
簪も、櫛も、奪われた。
鼈甲の櫛。珊瑚の簪。べっこうの笄。花魁の頭を飾った、数えきれぬほどの装身具が、一つ残らず、持ち去られた。それらも、見世のものだ、と言われた。薄雲の黒髪から、簪が、一本ずつ、抜かれていった。最後に、髪を結い上げる元結も解かれ、薄雲の髪は、ただ、背に流れた。
花魁の頭が、ただの女の頭に、戻った。
ただ一つ、薄雲が、手元に残したものがあった。
いや、薄雲のものではなかった。それは、すでに、小菊に贈ったものだった。あの、銀の梅の簪。座敷が終わった後、部屋でひとりでいる時に挿していた、質素な簪。あれだけは、小菊の手元にあったから、奪われずに済んだ。薄雲は、それを、思った。あの簪だけは、無事だ、と。あの子の髪に、今も、挿さっている、と。それが、せめてもの、慰めだった。
すべてを、剝がれて。
薄雲は、木綿の小袖一枚で、暗い局に、座っていた。
吉原一の花魁だった女が。江戸中の男が、その名を知っていた女が。今は、何も持たぬ、ただの病んだ女として、廓の底に、いた。
*
ただ、薄雲を、見捨てなかった者たちも、いた。
見世の、若い衆だった。
薄雲が宴で倒れた夜、誰よりも先に動いたのは、番頭の宗助だった。客たちがざわめく中で、宗助は、黙って、医者を呼びにやらせた。小番頭の喜八は、薄雲に入っていた先々の座敷の約束を、すべて、断って回った。難しい客には、頭を下げ、軽口で和らげ、角を立てずに、収めた。
そして、若い衆の市松は、一晩中、薬を煎じた。慣れぬ手つきで、火加減を間違えそうになりながら、それでも、夜通し、薬罐の前に、座っていた。
局へ移されてからも、その三人だけは、変わらなかった。
宗助は、表向き、何も言わなかった。だが、薄雲の局に、いい炭が、欠かさず、届くようになった。寒い局で、薄雲が凍えぬように。誰がやったとは、言わなかった。ただ、炭が、絶えなかった。
喜八は、廊下で薄雲のことが噂になると、さりげなく、話を逸らした。病がうつるだの、もう長くないだのと、心ない噂が立つたびに、喜八は、「へえ、そいつぁ、誰が言ったんで」と、笑いながら、噂の出どころを、封じて回った。
市松は、こらえきれなかった。
まだ若い、嘘の下手な男だった。ある日、薬を届けに来た市松は、戸口で、薄雲の痩せた姿を見て、立ち尽くした。目に、涙が、盛り上がった。
「太夫……」
市松の声が、掠れた。
「うるさいよ、市松」
薄雲は、薄く、笑った。痩せた顔で、それでも、いつもの調子で。
「男が、めそめそするものでは、ありんせん。お行き」
市松は、袖で、目を拭った。そして、深く、頭を下げて、出ていった。その背中を見送って、薄雲は、小さく、息を吐いた。
あの子たちがいる、と薄雲は思った。
客は、離れた。病を恐れて、皆、去った。だが、あの三人だけは、変わらなかった。金にもならぬ、病んだ女のために、炭を届け、噂を封じ、涙を流す。それが、薄雲には、ありがたかった。吉原は、薄情な場所だった。だが、その薄情の中にも、こうした情が、ないわけでは、なかった。
*
昼は、長かった。
局には、誰も来なかった。
かつて、薄雲のまわりには、いつも人がいた。客がいた。禿がいた。下働きの女がいた。幇間がいた。薄雲が呼べば、誰かが来た。何も言わずとも、人が、集まった。それが、当たり前だった。
それが今は、誰も来なかった。
病がうつることを、皆が、恐れた。世話をする下働きの女さえ、薬と粥を、戸口に置くだけで、すぐに、去っていった。薄雲の顔を、見ようとしなかった。言葉も、交わさなかった。まるで、薄雲が、もう、いない者であるかのように。
薄雲は、その扱いに、慣れようとした。
驚きは、なかった。これが、吉原だと、知っていた。花扇に、こうした。お梅に、こうした。落ちていく者に、廓は、こうするのだった。今度は、自分の番が、来ただけだった。
それでも、長い昼の時間は、こたえた。
咳をして、横になって、また咳をして。窓の小さな格子から、わずかに差す光を、見ていた。その光が、少しずつ、傾いていくのを、見ていた。一日が、ゆっくりと、暮れていくのを、ただ、見ていた。
局の中は、いつも、底冷えがした。
宗助の届けてくれる炭が、火鉢の中で、わずかに、赤く燃えていた。それでも、部屋の隅々までは、温まらなかった。畳から、冷たさが、這い上がってきた。壁の向こうから、湿った匂いが、染み出してきた。かつての座敷の、伽羅の香や、白粉の匂いとは、まるで違う匂いだった。病と、湿気と、忘れられた者の匂いだった。
遠くから、音が、聞こえた。
表のほうから、三味線の音が、かすかに、流れてきた。客の笑い声。下駄の音。賑やかな、廓の夜の音。あの音の中に、かつて、自分も、いた。あの華やぎの、真ん中に。それが今は、こうして、底のほうから、その音を、聞いている。同じ廓の中にいて、これほど、遠かった。
薄雲は、考えないようにした。
考えれば、怖かった。これから、自分が、どうなっていくのか。どこまで、痩せて、どこまで、苦しんで、いつ、終わるのか。考えれば、底が、なかった。だから、考えなかった。ただ、光が傾くのを、見ていた。
時おり、咳の発作が、来た。
胸の奥から、込み上げてくるものを、こらえきれず、薄雲は、何度も、咳をした。咳をするたびに、身体の力が、抜けていった。懐紙に、赤いものが、混じった。それを、薄雲は、火鉢の炭に、くべた。紙が、小さく燃えて、灰になった。誰も、見ていなかった。誰にも、見せなかった。
しかし、夕暮れが来ると、薄雲の中で、何かが、動いた。
もうすぐ、夜が来る。
夜が来れば——。
*
夜になると、足音が、した。
廊下の奥から、忍ぶような足音が、近づいてきた。戸の前で、止まった。そっと、戸が、開いた。
小菊だった。
座敷を終えた、その足で、来たのだった。まだ、化粧を落としていなかった。豪華な打掛を着たまま、暗い局に、滑り込んできた。手には、薬包みと、粥の椀を、持っていた。
「ねぇさん」
小菊は、戸を閉めると、薄雲のそばに、膝をついた。
「来んした。遅うなって、すまぬことでありんす。座敷が、長引いて」
薄雲は、身を起こした。
暗がりの中で、小菊の顔が、ぼんやりと、見えた。その姿を見ると、薄雲の胸に、温かいものが、広がった。一日中、誰も来なかった。誰の顔も、見なかった。その長い一日の終わりに、この子が、来てくれた。
「来なくていいと、言うたでありんしょう」
薄雲は、言った。
病がうつる。だから、来てはいけない。来れば、お前も病む。薄雲は、何度も、そう言った。だが、小菊は、聞かなかった。毎晩、来た。
「うつったら、うつったまででありんす」
小菊は、平然と、言った。
「ねぇさんの病が、あちきにうつるなら、それは、ねぇさんと同じものを、もらうということでありんす。怖くなど、ありんせん」
「馬鹿なことを、言うものではありんせん」
薄雲は、眉を寄せた。
「お前には、これからが、ありんす。あちきのことなど、放っておきなんし。お前は、お前の道を——」
「ねぇさん」
小菊が、遮った。
「粥が、冷めんす。先に、召し上がりなんし」
小菊は、それ以上、議論しなかった。ただ、椀を、薄雲の前に、差し出した。
*
薄雲は、その椀を、見た。
湯気の立つ、温かい粥だった。
その椀に、薄雲は、遠い昔を、見た。
雪の夜だった。物置で、震えていた子供がいた。何日も、泣き続けていた子供。薄雲は、その子に、粥を、温めて、運んだ。器を差し出すと、その子は、しばらく見つめてから、両手で、受け取った。そして、粥を食べながら、また、泣いた。薄雲は、隣に座って、何も言わなかった。ただ、いた。ただ、そこに、いた。
怖がらなくていい、と、あの夜、薄雲は、言った。
あれが、すべての、始まりだった。あの一杯の粥が、あの夜の言葉が、二人を、姉妹にした。
あれから、何年が、経ったのだろう。
あの時、粥を受け取った子供が、今、薄雲に、粥を、差し出している。立場が、すっかり、逆になっていた。あの時、薄雲が、小春に、してやったことを、今、小菊が、薄雲に、してくれていた。
粥を温め、運び、そばに、いてくれる。あの夜の、薄雲のように。
情けは、巡るものだ、と薄雲は思った。
あの夜、見返りなど、何も、求めていなかった。ただ、震えている子供を、放っておけなかった。
それだけだった。その一杯の粥が、こうして、巡り巡って、今、自分のもとへ、帰ってきた。病んで、すべてを失った自分を、支える、一杯の粥として。
薄雲の目に、涙が、滲んだ。
慌てて、こらえた。病んでから、涙もろくなった。気を抜くと、すぐに、目が、潤んだ。薄雲は、それを、見られたくなかった。だから、俯いて、椀を、受け取った。
両手で、受け取った。
あの夜の、小春と、同じように。
「いただきんす」
薄雲は、匙を取った。
粥を、口に運んだ。温かかった。塩の利いた、優しい味だった。痩せ衰えた身体に、その温もりが、染み込んでいった。薄雲は、ゆっくりと、粥を、食べた。
小菊は、その様子を、黙って、見ていた。
ねぇさんが、粥を食べている。ゆっくりと、一匙ずつ。あんなに痩せて、あんなに小さくなって。それでも、生きようと、食べている。小菊は、その姿を見ながら、こみ上げてくるものを、必死に、こらえた。ここで泣いては、いけない。ねぇさんを、心配させては、いけない。
粥を、半分ほど食べると、薄雲は、匙を、置いた。
「もう、よいでありんすか」
「ああ。十分でありんす」
本当は、半分も、食べられなかった。身体が、受けつけなかった。だが、薄雲は、残したことを、悟られぬように、椀を、小菊に、返した。
小菊は、何も言わなかった。
ただ、椀を受け取り、薬を、煎じる支度を、始めた。
*
薬を飲ませ、小菊は、薄雲の枕元に、座った。
薄雲を、横にならせ、夜着を、かけ直した。額に滲んだ汗を、手拭いで、そっと、拭った。痩せた手を、握った。冷たい手だった。小菊は、その手を、自分の両手で、温めるように、包んだ。
ふと、薄雲が、小菊の髪を、見た。
暗がりの中で、小菊の髪に、何かが、光っていた。
銀の、梅の簪だった。
薄雲が、小菊の初めての座敷の夜に、贈った簪。あの、質素な、銀の枝に、梅の花が一輪、咲いた簪。小菊は、それを、ずっと、挿していた。座敷では、豪華な簪を挿す。しかし、座敷を終えて、この局へ来る時には、いつも、その銀の簪に、挿し替えていた。
薄雲は、それに、気づいた。
「その簪……」
「ねぇさんが、くれた簪でありんす」
小菊は、微笑んだ。
「ずっと、大事にしておりんす。座敷の簪は、見世のもの。でも、これは、あちきのものでありんす。ねぇさんが、あちきにくれた、たった一つの、あちきのもの」
薄雲は、その簪を、見つめた。
すべてを、剝がされた。打掛も、帯も、簪も、櫛も、すべて、奪われた。花魁だった証は、何一つ、手元に残らなかった。だが——あの簪だけは、奪われずに、ここに、あった。小菊の髪の中に、生きていた。
あれは、薄雲が、自分の手で、誰かに贈った、ただ一つのものだった。
花魁になってから、薄雲は、たくさんのものを、もらった。客が、競って、簪を、櫛を、着物を、贈った。だが、薄雲が、自分から、誰かに贈ったものは、ほとんど、なかった。あの、銀の梅の簪だけが、例外だった。小菊の、初めての座敷の夜に。あの子の門出を、祝って。自分が普段使っていた、いちばん心の慰むその簪を、薄雲は、あの子に、渡した。
薄雲が、この世に残したものが、そこに、あった。
吉原一の花魁だったことも、稼いだ金も、何もかも、消えていく。客は離れ、名は忘れられ、やがて、自分も、消える。だが、あの簪だけは、消えなかった。あの子の髪の中で、梅の花が、まだ、咲いていた。冬を越えて咲く梅が。寒さに負けず、咲き続ける梅が。
あれは、小菊そのものだ、と薄雲は思った。
あの子は、冬を越えて咲く梅だった。どんな寒さにも、負けずに。そして、あの子の髪に挿さった、銀の梅もまた、咲き続けていた。自分が、いなくなった後も、きっと、咲き続けるだろう。あの子が、生きているかぎり。
薄雲の頬を、涙が、一筋、伝った。
今度は、こらえなかった。こらえられなかった。
「ねぇさん……」
「すまぬことでありんす」
薄雲は、小さく、言った。
「お前に、苦労を、かけて。あちきは、お前を、守ってやりたかった。それなのに、今は、お前に、守られておりんす」
「何を、言いんす」
小菊は、薄雲の手を、強く、握った。
「ねぇさんは、あちきを、守ってくれんした。雪の夜から、ずっと。あちきが、ここにいるのは、ねぇさんのおかげでありんす。今度は、あちきの番でありんす。それだけのことでありんす」
小菊の声も、震えていた。
「あちきは、ねぇさんを、一人には、しんせん。死ぬまで、ねぇさんの、妹分でありんす。何があっても、ねぇさんのそばに、おりんす。だから——」
小菊は、薄雲の手を、両手で、包んだまま、言った。
「だから、ねぇさんも、生きてくんなんし。一日でも、長く」
その言葉に、嘘は、なかった。
小菊は、本気だった。死ぬまで妹分でいる、という言葉は、世辞でも、慰めでも、なかった。雪の夜に、この人に救われてから、小菊の生き方は、決まっていた。この人のために、生きる。この人を、一人にしない。それが、小菊の、たった一つの、芯だった。
たとえ、自分が、どうなろうとも。
病が、うつろうとも。客が、離れようとも。お冬に、睨まれようとも。小菊は、退かなかった。ねぇさんが、雪の夜に、誰も来ない物置へ、来てくれたように。今度は、自分が、誰も来ない局へ、通う。それだけのことだった。恩を返すのではなかった。そんな、勘定の話では、なかった。ただ、そうしたいから、そうする。この人のそばに、いたいから、いる。それだけだった。
薄雲は、はっと、した。
一日でも、長く。
それは、朝霧が、薄雲に、遺した言葉だった。一刻でも長く、生き残れ、と。今、同じ言葉を、小菊が、言った。小菊は、朝霧の言葉を、知らない。知らずに、同じことを、言った。
血の繋がらない、姉から妹へ、そして、その妹から、また姉へ。
生きてくれ、という願いが、巡っていた。
「……ああ」
薄雲は、頷いた。
「生きんす。お前のために。一日でも、長く」
二人は、暗い局の中で、手を握り合ったまま、しばらく、動かなかった。
外では、夜が、更けていった。
*
夜明け前に、小菊は、帰っていった。
誰にも、気づかれぬように。座敷の女が、局に入り浸っていることが知れれば、お冬が、何と言うか、わからなかった。だから、小菊は、いつも、夜明け前に、そっと、帰った。
「また、来んす」
戸口で、小菊は、振り返った。
「明日の夜も、必ず、来んす。だから、ねぇさん、待っていてくんなんし」
薄雲は、頷いた。
戸が、閉まった。足音が、遠ざかっていった。
薄雲は、また、一人に、なった。
しかし、その一人は、昼の一人とは、違っていた。
昼の、誰も来ない一人は、底のない孤独だった。だが、夜の終わりの一人は、違った。明日の夜も、あの子が来る。そう思えば、一日が、待てた。長い、誰も来ない昼も、夕暮れまで、こらえられた。
夜明けが、来た。
小さな格子窓から、薄い光が、差し込んできた。灰色がかった、冬の朝の光だった。薄雲は、その光を、見た。
今日も、一日が、始まる。
長い昼が、来る。誰も来ない、長い昼が。だが、その昼の果てに、また、夜が来る。夜が来れば、あの子が、来る。粥を持って。薬を持って。あの、銀の梅の簪を、挿して。
薄雲は、その夜を、待った。
今夜も、また、来てくれる。
その一事だけを、薄雲は、胸に抱いて、長い昼を、こらえることにした。光が、傾くのを、待った。
夕暮れが、来るのを、待った。そして、夜が、来るのを。
不思議なものだ、と薄雲は思った。
花魁だった頃、薄雲には、何もかもが、あった。客が、金が、名声が、美しい着物が、数えきれぬほどの簪が。すべてが、あった。それなのに、あの頃の薄雲は、いつも、孤独だった。満たされているのに、満たされなかった。夜ごと、一人で、自分の本当の名を、小さく呟いていた。綾乃、と。
今は、何もない。
着物も、簪も、客も、名声も、すべてを失った。痩せ衰えて、廓の底に、落ちた。それなのに、あの頃よりも、孤独では、なかった。一人を、待てた。夜を、待てた。
来てくれる者が、一人。
たった、一人。
それだけで、こんなにも、違うものか、と。
夜が来れば、一人ではない。
病んで、すべてを失って、廓の底に落ちて、それでも、薄雲は、一人ではなかった。
夜になれば、来てくれる者が、いた。
それだけで——薄雲は、まだ、生きていられた。
——第十一話 了
第十一話「局」をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は薄雲にとって、最も過酷な転落の回となりました。
花魁という存在は、咲いている間だけ愛される花です。
病を得た瞬間、
客は去り、
名声は消え、
豪華な着物も簪も奪われる。
薄雲自身はそれを恨みません。
なぜなら、それが吉原という場所だと知っていたからです。
しかし、そんな薄情な世界の中にも消えないものがありました。
宗助、喜八、市松たち若い衆の情。
そして何より、小菊の存在です。
雪の夜に差し出された一杯の粥。
あの日救われた少女が、
今度は病んだ姉へ粥を差し出す。
この場面は本作の中でも、とても大切な場面の一つでした。
人は誰かを救ったことを忘れても、
救われた側は決して忘れない。
だから情けは巡る。
今回のテーマは、まさにそこにあります。
そして薄雲は初めて気づきます。
何もかも失った今の方が、
すべてを持っていた頃より孤独ではないことに。
残る物語もあとわずか。
花の命が尽きるその日まで、
どうか薄雲と小菊の行く末を見届けていただければ幸いです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




