第十話 紅の裏側
第十話までお読みいただき、誠にありがとうございます。
本作は、華やかに見える吉原という世界の裏側にある「生きる」という行為そのものに焦点を当てて描いております。美しさとは何か、強さとは何か――その問いを抱えながら歩む者たちの姿を、少しでも感じ取っていただけましたなら幸いです。
今話では、これまで静かに積み重ねてきたものが、ついに表に現れる瞬間を描きました。人はいつか限界を迎えます。その時、何を選び、何を守ろうとするのか。
どうか最後まで、彼女たちの行く末を見届けていただければと思います。
朝霧が逝ってから、薄雲は、少し変わった。
誰の目にも、わかるほどではなかった。座敷での薄雲は、変わらず美しく、変わらず完璧だった。客をあしらう手際も、三味線の音も、舞の型も、どこにも崩れはなかった。
しかし、春霞だけは、気づいていた。
ねぇさんが、近頃、よく、自分の右手を見ている。誰もいない時に。じっと、手のひらを開いて、指を一本ずつ、確かめるように動かしている。あの朝霧の最期を見てから、ねぇさんは、自分の手を、恐れているようだった。いつか、あの師のように、この手が止まる日が来る——そう思っているように、春霞には見えた。
師の死は、薄雲に、ひとつのことを教えていた。
もう、見ないふりは、できない。
冷えるだけだと、歳だと、笑って誤魔化してきた右手の痺れ。それが、何であるのかを、薄雲は、もう、知っていた。朝霧の手を握った時、朝霧が薄雲の病を見抜いたように、薄雲もまた、自分の身体の奥で、静かに進んでいるものの正体を、認めざるをえなくなっていた。
夜、眠れぬ時、薄雲は、朝霧の最期を、何度も、思い返した。
三味線を弾いている最中に、手が止まり、倒れた師。あれは、自分の未来だった。いつか、自分も、ああなる。座敷の真ん中で。客の前で。あるいは、舞の最中に。それが、いつ来るのか、わからなかった。明日かもしれない。一年先かもしれない。その、わからなさが、薄雲を、いちばん、苦しめた。
だが、薄雲は、怖がっている暇は、なかった。
朝霧は、言った。一刻でも長く、生き残れ、と。その言葉を、薄雲は、お守りのように、握りしめていた。怖がるより、生きること。残された時を、どう使うか。それだけを、考えようとした。
咳が、出るようになっていた。
最初は、たまにだった。座敷の合間に、一つ、二つ。喉のいがらっぽさを払うような、軽い咳だった。それが、少しずつ、増えていった。夜、布団に入ると、咳が止まらなくなることがあった。胸の奥が、熱を持つように、痛んだ。
ある朝、薄雲は、口を覆った手のひらに、赤いものを見た。
白粉を溶く小皿の、紅の色とは、違う赤だった。
薄雲は、それを、じっと見た。長いあいだ、見ていた。それから、懐紙でそっと拭い、火鉢の炭の中へ、くべた。紙が、小さく燃えて、灰になった。
誰にも、言わなかった。
*
ある夜、薄雲は、朝霧の三味線を、手に取った。
形見として、もらい受けた三味線だった。師の音が、まだ、この一棹に宿っているような気がして、薄雲は、時おり、それを弾いた。「雪」を。師が、言葉の代わりに教えてくれた、あの曲を。
その夜も、薄雲は、撥を構えた。
弦に、当てた。
弾こうとした。だが——指が、動かなかった。
右手が、思うように、撥を運ばなかった。指の先が、痺れて、力が入らなかった。撥が、弦の上を、滑った。音が、濁った。薄雲は、もう一度、試みた。だが、同じだった。あの「雪」の出だしが、弾けなかった。幼い頃から、何千、何万と弾いてきた、あの出だしが。
薄雲は、撥を、置いた。
膝の上の三味線を、見つめた。
師の手が止まった日のことが、よみがえった。三味線を弾いている最中に、急に手が動かなくなり、倒れた朝霧。あの時、薄雲は、まだ、舞えた。弾けた。だが、今は——。
薄雲は、自分の右手を、左手で、そっと包んだ。
いつか、この手も、止まる。師のように。それが、すぐそこまで、来ている。薄雲には、わかっていた。
しかし、薄雲は、泣かなかった。
ただ、三味線を、布に包み、棚の奥へ、仕舞った。もう、弾けないのなら、せめて、傷つけずに、しまっておきたかった。師から受け継いだ、ただひとつの音を。
*
薄雲は、咳を、隠すようになった。
座敷では、扇で口元を覆った。咳が出そうになると、笑いに紛らせた。袖で口を押さえ、目だけで微笑んでみせた。客は、誰も、気づかなかった。むしろ、その仕草を、薄雲の色気だと思った。
扇の陰から覗く目元に、ますます惹かれた。
白粉は、いつもより、濃く塗った。
頬の赤みが引き、青白くなった肌を、白粉で覆った。紅を、いつもより、丁寧に差した。唇に、頬に。生命の色を、刷いて隠した。鏡の中の薄雲は、変わらず美しかった。誰が見ても、吉原一の花魁だった。
その白粉の下で、肌は、確実に、痩せていた。
頬の肉が、少しずつ、削げていった。手首が、細くなった。帯を締める下働きの女が、ある日、ふと、薄雲の腰回りが細くなったことに気づいた。しかし、何も言わなかった。花魁の身体のことを、下働きが口にするものではなかった。
夜、一人になると、薄雲は、咳をした。
誰もいない部屋で、口を押さえて、咳をした。胸の奥から、込み上げてくるものを、必死に、こらえた。咳の発作が過ぎると、しばらく、動けなかった。額に汗が浮いた。息が、上がった。それでも、しばらく休むと、また、立ち上がった。翌日の座敷の支度を、した。
薄雲は、朝霧の言葉を、思い出していた。
一日でも長く、一刻でも長く、生き残れ——。
師は、そう言った。死ぬな、ではなく、生き残れ、と。だから、薄雲は、生きようとした。咳を隠し、白粉を塗り、座敷に出続けた。倒れるわけには、いかなかった。倒れれば、終わりだった。病んだ花魁が、どうなるかを、薄雲は、知っていた。花扇を見た。お梅を見た。局へ消えていく女たちを、何人も、見てきた。
あそこへは、行きたくなかった。
いや——行きたくない理由は、別にあった。
春霞だった。
あの子を、置いていけない。あの子が一人前になるまで、せめて、それまでは、そばにいてやりたい。あの子が、自分を必要としなくなるまでは。それまでは、何としても、生きていたかった。
だから、薄雲は、隠した。
誰にも、何も、言わずに。
*
しかし、春霞は、見ていた。
いつも、ねぇさんを見ていた。だから、気づかぬはずが、なかった。
ねぇさんが、扇で口を覆う回数が、増えたこと。白粉が、日に日に、濃くなっていること。座敷の帰りに、廊下で、壁に手をついて、しばらく動かないことがあること。夜、隣の部屋から、押し殺した咳が、聞こえてくること。
春霞は、知っていた。
知っていて、聞けなかった。
ある夜、二人きりの時、春霞は、思い切って、聞いた。
「ねぇさん。お加減が、悪いんではありんせんか」
薄雲は、鏡の前で、紅を差していた。手を止めずに、振り向きもせずに、答えた。
「なんでもありんせん」
「でも、近頃、咳が……」
「冬でありんすからなあ。喉を、痛めただけでありんす」
薄雲は、振り向いて、微笑んだ。いつもの、完璧な微笑みだった。
「心配は、いりんせん。お前は、自分の座敷のことだけ、考えていなんし」
春霞は、それ以上、聞けなかった。
ねぇさんが、笑っている。なんでもない、と笑っている。その笑顔の前で、春霞の言葉は、行き場を失った。問い詰めることが、できなかった。ねぇさんが隠していることを、無理に暴くことが、できなかった。
だが、春霞は、決めていた。
ねぇさんが言わないのなら、あちきが、見ている。気づかぬふりをして、笑っているのなら、あちきも、気づかぬふりをして、そばにいる。そして、いつか——その時が来たら。
春霞は、その先を、考えないようにした。
考えれば、涙が、出そうだった。
*
年が、改まった。
仲之町に、松飾りが並んだ。正月の吉原は、一年でもっとも華やぐ時季だった。着飾った客が、年始の挨拶に訪れ、座敷は連日、賑わった。遊女たちは、新しい着物をおろし、いつにもまして、艶やかに装った。
その正月、扇松楼で、大きな宴が催された。
馴染みの大店の主たちを招いた、年に一度の、特別な宴だった。住吉屋の文左衛門も、招かれていた。座敷は、贅を尽くして飾られた。料理が並び、酒が注がれ、幇間の扇次郎が、座を沸かせた。福松が、その場を、穏やかに整えた。
宴の趣向の目玉は、薄雲の舞だった。
年の初めに、薄雲の舞を見る。それは、扇松楼の馴染みにとって、何よりの縁起だった。客たちは、その一瞬を、心待ちにしていた。
薄雲は、支度をしていた。
鏡の前で、いつもより、念入りに、白粉を塗った。青白い肌を、丁寧に、覆い隠した。刷毛を滑らせるたびに、病んだ肌が、白い仮面の下に、沈んでいった。
それから、紅を、差した。
紅猪口に、筆を浸す。濃く溶いた紅を、唇に、刷いた。血の気の失せた唇が、ぽってりと、赤く色づいた。頬にも、薄く、紅を刷いた。生命の色だった。生きている女の、血の通った色だった。薄雲は、それを、自分の顔に、塗っていった。
鏡の中の薄雲は、紅に彩られて、美しかった。
しかし、薄雲は、知っていた。
この紅は、嘘だった。本当の血の色は、唇にはなかった。本当の血は、咳とともに、手のひらに散る、あの赤だった。唇の紅は、その本当の赤を、隠すための、偽りの赤だった。生命の色を装った、死を隠す色だった。
紅の裏側に、病が、あった。
誰も、それを、知らなかった。鏡の中の、紅を差した美しい花魁の、その紅の下に、痩せた肌と、焼ける胸と、止まりかけた手が、隠れていることを。薄雲だけが、知っていた。鏡を見つめながら、薄雲は、自分の差した紅を、じっと、見ていた。
しかし、その朝から、薄雲の身体は、いつもと違っていた。
熱が、あった。微かだが、確かに、身体の芯が、熱を持っていた。咳も、いつもより、出た。胸の奥の痛みが、強かった。立ち上がると、軽く、目眩がした。
今日は、舞わぬほうがいい。
身体の奥で、何かが、そう告げていた。だが、薄雲は、その声を、振り払った。
年に一度の、大事な宴だった。馴染みの客が、薄雲の舞を、待っていた。ここで舞わなければ、客は落胆する。見世の評判に、障る。お冬が、何と言うか。何より——倒れるわけには、いかなかった。今日、舞えなければ、それは、病を認めることだった。
薄雲は、紅を差した唇を、固く、結んだ。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。一刻、舞うだけだ。一刻、こらえれば、終わる。
それだけのことだ、と。
*
宴は、たけなわだった。
座敷は、熱気に満ちていた。酒が回り、客の顔は赤らみ、笑い声が、絶えなかった。扇次郎が、軽妙な口上で、座を盛り上げていた。三味線が鳴り、手拍子が、響いた。
その喧騒の中へ、薄雲が、進み出た。
座敷が、静まった。
深紅の打掛だった。金の刺繡が、灯火を受けて、燃えるように輝いた。薄雲が、扇を手に、すっと背筋を伸ばすと、客たちは、息を呑んだ。年の初めの、吉原一の花魁の舞。それを、今、目にしている。客たちの目に、酔いとは別の、陶酔が、宿った。
地方の三味線が、鳴り始めた。
弾くのは、もう、朝霧ではなかった。朝霧は、逝った。代わりに、若い地方が、撥を取った。その音は、朝霧の音には、遠く及ばなかった。しかし、薄雲は、その音に、身を委ねた。
薄雲が、舞い始めた。
扇が、宙に弧を描いた。袖が翻り、裾が流れた。客たちは、見惚れた。美しかった。病の影など、微塵も、感じさせなかった。深紅の打掛が、灯火の中で、生き物のように、翻った。
しかし——薄雲の身体は、限界に、近づいていた。
舞いながら、薄雲は、息が、上がっていくのを感じた。胸の奥が、焼けるように、痛んだ。視界が、わずかに、揺れた。額に、汗が滲んだ。白粉の下で、汗が、流れた。
こらえろ、と薄雲は、自分に言った。
あと、少し。あと、少しで、終わる。
扇を、翻した。型を、繋いだ。指の先まで、神経を、通わせようとした。だが、身体が、言うことを、聞かなくなっていた。手が、重かった。足が、重かった。息が、続かなかった。
舞が、佳境に入った。
扇を、高く、掲げた。
その時だった。
胸の奥から、込み上げてくるものが、あった。
こらえきれなかった。
薄雲は、咳を、した。
一つ、二つ。そして、止まらなくなった。激しい咳が、薄雲の身体を、揺さぶった。扇が、手から、滑り落ちた。薄雲は、口を、押さえた。押さえた手のひらに、温かいものが、広がった。
薄雲の身体が、崩れた。
膝が、折れた。畳の上に、薄雲は、倒れ込んだ。深紅の打掛が、乱れて、広がった。
座敷が、凍りついた。
*
悲鳴が、上がった。
誰かが、立ち上がった。客たちが、ざわめいた。何が起きたのか、すぐには、わからなかった。
舞っていた花魁が、突然、倒れた。咳とともに、崩れ落ちた。
薄雲は、畳に、伏していた。
口を押さえた手のひらから、指の間から、赤いものが、滲んでいた。白粉の塗られた、青白い手の甲に、点々と、赤が散った。深紅の打掛の朱とは、違う赤だった。もっと、生々しい、命の色だった。
春霞が、駆け寄った。
座敷の隅から、誰よりも早く。薄雲の身体を、抱き起こした。ねぇさんの身体は、軽かった。驚くほど、軽かった。打掛の重さばかりが、ずしりと、腕にきた。中身の身体は、こんなにも、痩せていたのか。春霞は、その時、初めて、それを知った。
いつから、と春霞は思った。
いつから、ねぇさんは、こんなに、痩せていたのか。毎日、顔を合わせていた。毎日、見ていた。
それなのに、気づかなかった。いや、気づきたく、なかったのだ。白粉と、紅と、豪華な打掛の下で、ねぇさんの身体が、こんなにも、削られていたことを。見ていたのに、見ようとしなかった、自分が、許せなかった。
「ねぇさん。ねぇさん」
春霞は、呼んだ。
薄雲は、薄く、目を開けた。春霞の顔を、見た。何か、言おうとした。しかし、声に、ならなかった。また、咳が、込み上げた。春霞は、ねぇさんの背を、さすった。手のひらに、骨の感触が、伝わった。背骨が、はっきりと、指に当たった。
「医者を。早く、医者を呼びなんし」
春霞の声が、座敷に、響いた。
市松が、転がるように、座敷を出ていった。下働きの者たちが、動いた。客たちは、遠巻きに、見ていた。誰も、近づこうとしなかった。病、という言葉が、座敷の空気を、一瞬で、変えていた。
文左衛門だけが、動いた。
立ち上がり、薄雲のそばへ来ようとした。しかし、その前に、春霞が、ねぇさんを抱えて、座敷の奥へと、運び出していった。文左衛門は、その後ろ姿を、見送るしかなかった。差し出した手の、行き場を、失ったように。
文左衛門は、知っていた。
いや、薄々、気づいていた、と言うべきだった。近頃の薄雲が、扇で口を覆う回数が増えたこと。
白粉が、濃くなっていたこと。手首が、細くなっていたこと。人を見る目の鋭い男だった。商いで、人の些細な変化を読むことで、生きてきた男だった。だから、気づいていた。気づいていて、何も言えなかった。言えば、薄雲が、傷つく。だから、ただ、通い続けた。海の話をしながら、薄雲の顔色を、それとなく、見ていた。
いつか、こうなるのではないか、と恐れていた。
その恐れが、今夜、現実になった。
文左衛門の胸を、痛みが、貫いた。あの女が、血を吐いて、倒れた。あの、誰よりも気高く、誰のものにもならなかった女が。文左衛門は、立ち尽くしたまま、薄雲の運ばれていった、座敷の奥を、見ていた。
妻を亡くした時のことが、よみがえった。
あの時も、文左衛門は、何もできなかった。ただ、痩せていく妻を、見ていることしか、できなかった。失って初めて、何が大事だったかがわかる。いつか、薄雲に語った、その言葉が、今、自分に、突き刺さっていた。
また、失うのか。
文左衛門は、拳を、握りしめた。
座敷に、薄雲の落とした扇が、残されていた。
誰も、拾わなかった。
*
その一部始終を、見ていた者がいた。
お冬だった。
お冬は、宴の上座近くに、座っていた。動かなかった。客たちがざわめき、春霞が薄雲を運び出し、座敷が騒然となる中で、お冬だけは、身じろぎもせず、その光景を、見ていた。
お冬の目は、冷静だった。
驚いてはいなかった。慌ててもいなかった。むしろ、来るべきものが、来た、という目だった。
お冬は、知っていた。
薄雲の咳が、ただの風邪ではないことを。白粉が、日に日に、濃くなっていたことを。身体が、痩せていったことを。お冬は、かつて自分も遊女だった。病んだ女を、何人も、見てきた。だから、わかっていた。薄雲が、何を抱えているのかを。いつか、こうなることを。
お冬は、計算していた。
吉原一の花魁が、倒れた。客の前で、血を吐いて。この噂は、明日には、廓中に広まる。客は、離れていくだろう。病んだ花魁を、買う者は、いない。薄雲という看板は、もう、長くは保たない。これからの扇松楼を、どう回していくか。春霞を、どう育てるか。新しい看板を、どう立てるか。
お冬の頭の中で、算盤が、弾かれていた。
冷たいようだが、それが、お冬の仕事だった。見世という器を、回し続けること。誰かが倒れれば、別の誰かを、立てる。それが、吉原だった。それが、生き残るということだった。お冬は、その非情を、引き受けて生きてきた。
そして——その時。
お冬の唇の端が、わずかに、持ち上がった。
笑った、のではなかった。喜んだ、のでもなかった。それは、もっと、複雑なものだった。長年、自分の管理下に置きたいと思いながら、決して手の届かなかった女。善兵衛が、実の娘のように可愛がった女。誰にも靡かず、誰のものにもならなかった女。その女が、ついに、落ちる。
ざまを見ろ、という気持ちが、なかったとは、言えなかった。
しかし、それだけでも、なかった。
お冬の胸の奥には、もうひとつ、別のものが、あった。自分も、かつては、ああして舞った。客に、もてはやされた。そして、年を取り、客が離れ、舞台を降りた。舞台に立つ女は、いつか、必ず、落ちる。それを、お冬は、誰よりも、知っていた。薄雲の倒れた姿に、お冬は、かつての自分を、見ていたのかもしれなかった。
若い頃、お冬も、夢を見たことがあった。
いい客に身請けされて、廓を出て、人並みの暮らしをする。そんな夢を。だが、それは、叶わなかった。客は離れ、夢は遠のき、気づけば、舞台を降りていた。そして、生き残るために、感情を殺した。情を捨て、算盤を取った。甘さが女を殺すことを、身体で覚えた。そうして、女将の座に、辿り着いた。
薄雲は、お冬が捨てたものを、最後まで、捨てなかった女だった。
誰にでも情をかけ、弱い者を見捨てず、自分を犠牲にしてまで、人を守った。お冬には、できなかったことだった。だから、認めていた。誰より正確に、その才を、値踏みできた。そして、だから
こそ——その女が落ちる姿は、お冬にとって、自分が選ばなかった生き方の、その果てを、見せつけられるようでもあった。
唇の端の、わずかな歪み。
それが、勝ち誇りなのか、憐れみなのか、それとも、遠い日の自分への、苦い追憶なのか。
お冬自身にも、わからなかった。
ただ、お冬は、立ち上がった。そして、女中に、低く、指図した。
「医者の手当てが済んだら、奥の部屋へ移しなさい。客の目に、つかぬように」
声は、平らだった。感情は、一匙も、混じっていなかった。
お冬は、宴の客たちのほうへ、向き直った。そして、女将の顔で、頭を下げた。
「お騒がせいたしました。薄雲は、少々、無理を重ねたようでございます。どうぞ、ごゆるりと」
宴は、続いた。
扇次郎が、すぐに、座を取りなした。三味線が、また、鳴り始めた。客たちは、次第に、何事もなかったように、酒を、飲み始めた。一人の花魁が倒れようと、宴は、続いた。廓は、回り続けた。
しかし、扇次郎の軽口は、その夜、どこか、上の空だった。
誰よりも早く座を取りなしながら、扇次郎の胸の内は、ざわついていた。薄雲の三味線を初めて聴いた時から、必ず大きくなる、と言い続けてきた。その薄雲が、血を吐いて倒れた。扇次郎は、笑いながら、客の盃を満たしながら、座敷の奥へ、何度も、目をやった。福松も、同じだった。穏やかに場を整えながら、その目は、笑っていなかった。二人の幇間は、誰にも言えぬ心配を、それぞれの胸に、抱えていた。
その座敷の片隅に、薄雲の落とした扇が、まだ、転がっていた。
深紅の打掛の朱と、同じ色の、扇だった。
誰も、拾わぬまま。
灯火が、その紅を、静かに、照らしていた。紅の下に、何が隠れているのかを、知る者は、もう、この座敷には、いなかった。
——第十話 了
第十話をご覧いただき、ありがとうございました。
薄雲という存在は、「美」と「覚悟」の象徴として描いてきました。しかし今回、その美の内側にある現実――崩れていく身体と、それでも立ち続けようとする意志――を正面から描くことになりました。
個人的にこの話は、「綺麗であること」と「生きること」は必ずしも一致しない、というテーマを強く意識しております。むしろ、守ろうとするものがあるほど、人は無理を重ねてしまうのかもしれません。
また、春霞、お冬、文左衛門――それぞれの視点から見た「薄雲の崩壊」も重要な要素でした。同じ出来事でも、立場によって見え方がまったく異なる。その温度差こそが、この世界の現実だと考えております。
ここから先、物語はさらに厳しさを増していきます。それでもなお、生きる意味を問い続ける物語として、最後まで描き切る所存です。
引き続き、よろしくお願いいたします。




