第九話 霧晴れる
【前書き】
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
『吉原残月 ― 紅、散るまで ―』
第九話「霧晴れる」をお届けいたします。
この回は、物語の中でも非常に大切な一話となりました。
これまで薄雲の師として、その背中を見せ続けてきた朝霧。
誰よりも厳しく、誰よりも近寄り難く、そして誰よりも芸に生きた女でした。
感情を表に出さず、人を寄せつけず、ただ三味線だけを抱いて生きてきた朝霧ですが、その胸の奥には確かに情がありました。
そしてその情は、たった一人の教え子である薄雲へと向けられていました。
今まで語られることのなかった二人の絆。
言葉ではなく芸によって結ばれてきた師弟の関係。
その答えが、ようやく描かれる回でもあります。
また同時に、この回は薄雲自身の運命にも大きく関わる物語です。
朝霧の身に起きた出来事は、決して他人事ではありません。
静かに忍び寄る病。
花魁という生き方の代償。
咲き続けるために削られていく命。
美しさの裏にある残酷さも、少しずつ姿を現し始めます。
華やかな吉原の物語でありながら、
その裏で確実に進んでいく「終わり」を描いた回でもあります。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
それでは、第九話「霧晴れる」。
どうぞお楽しみください。
冬の入り口の、よく晴れた日だった。
朝から、空が高かった。雲ひとつなく、冷たく澄んだ青が、格子の向こうに広がっていた。こういう日は、廓の中まで、空気が乾いて、音がよく通った。遠くの物売りの声も、隣の見世の三味線も、いつもより、はっきりと聞こえた。
その日、扇松楼の広間で、ささやかな稽古の会があった。
若い新造や禿たちが、日頃の稽古の成果を披露する場だった。客を招くわけではない。見世の中だけの、内輪の会だった。それでも、緊張した娘たちの三味線や舞が、次々と広間を満たした。善兵衛が上座で目を細め、お冬がその隣で、表情を変えずに見ていた。
娘たちの芸は、まだ拙かった。
撥が弦を撫でそこねる音。舞の型が、半拍遅れる足。それでも、誰も笑わなかった。皆、ここから始まったのだった。薄雲も、春霞も、かつては、あの娘たちと同じだった。広間の隅で、薄雲は、娘たちの一生懸命な姿を、静かに見守っていた。
会の終わりに、朝霧が、三味線を手に取った。
めったにないことだった。朝霧が人前で弾くのは、年に数えるほどしかなかった。だからこそ、広間の空気が、すっと締まった。娘たちが、息を呑んだ。廓一の三味線を、間近で聴ける。それは、稽古に励む娘たちにとって、何よりの褒美だった。
朝霧は、何も言わなかった。
いつものことだった。挨拶も、前置きもなかった。ただ、撥を構え、弦に当てた。
最初の一音が、広間に放たれた。
その一音だけで、空気が変わった。低く、深く、艶のある音だった。同じ三味線とは思えなかった。娘たちが弾いていたのと、まるで別の楽器のようだった。朝霧の指が動くたびに、音は表情を変え、広間の隅々まで、満ちていった。乾いた冬の空気が、その音を、いっそう澄んで響かせた。
薄雲は、広間の端で、それを聴いていた。
師の音だった。
幼い頃、まだ雫と呼ばれていた時分から、聴き続けてきた音だった。この音に憧れて、この音を追いかけて、ここまで来た。何度聴いても、薄雲は、まだ朝霧の音に届かないと感じた。技ではない。音の奥にある、何か。朝霧という人間の、生涯そのものが滲んだような、底知れぬ深さ。それだけは、いくら稽古を重ねても、薄雲には出せなかった。
あの夜のことを、薄雲は、ふと思い出した。
まだ禿だった頃、夜更けの廊下で、この音に出会った夜のことを。誰もいない座敷で、朝霧が一人、三味線を弾いていた。暗い座敷だった。その暗さが、美しかった。薄雲は、音に引かれて、近づいた。障子が開き、朝霧と目が合った。朝霧は、何も言わなかった。ただ、通り過ぎようとして、
一瞬だけ、足を止めた。翌日、朝霧は、その曲の出だしを、薄雲に教えた。「雪」という、古い地歌だった。八雲がよく弾いていた曲でもあった。それが、言葉の代わりだった。
あれから、何年が経っただろう。
薄雲は、いつのまにか、吉原一と呼ばれる花魁になった。しかし、朝霧の音にだけは、今も、届かなかった。それでよかった。届かない目標が、前にあること。それが、薄雲を、ここまで歩かせてきた。
朝霧の撥が、佳境に入った。
音が、高く、速く、駆け上がっていった。娘たちが、固唾を呑んだ。
その時だった。
音が、途切れた。
*
朝霧の右手が、止まっていた。
撥を握ったまま、宙で、止まっていた。
次の音を弾くはずの手が、動かなかった。朝霧は、自分の右手を、見ていた。なぜ動かないのか、わからない、という顔だった。生涯、思い通りに動いてきた手だった。一度も、裏切ったことのない手だった。その手が、今、自分の意思に、応えなかった。
広間が、静まった。
娘たちは、何が起きたのか、わからなかった。ただ、朝霧の様子が、おかしいことだけは、感じた。
朝霧の身体が、ぐらりと、傾いた。
三味線が、畳の上に、滑り落ちた。鈍い音がした。朝霧の身体が、それに続くように、横へ崩れた。
「朝霧さん!」
誰かが、叫んだ。
広間が、騒然となった。娘たちが立ち上がり、悲鳴が上がった。善兵衛が腰を上げた。お冬が、鋭く女中に指図した。
しかし、誰よりも早く動いたのは、薄雲だった。
広間の端から、駆け寄った。倒れた師の傍らに膝をつき、その身体を、抱き起こした。朝霧の顔は、青ざめていた。額に、脂汗が浮いていた。胸を押さえ、苦しげに、息をしていた。
「ねぇさん。ねぇさん、しっかりしなんし」
薄雲は、師を、そう呼んだ。
朝霧の唇が、わずかに動いた。声にならなかった。薄雲は、師の身体を、しっかりと支えた。
「医者を。早く、医者を呼びなんし」
薄雲の声に、市松が、転がるように広間を飛び出していった。
*
朝霧は、自分の部屋へ運ばれた。
布団が敷かれ、寝かされた。医者が呼ばれ、脈を診た。胸に耳を当て、瞼を開き、足のむくみを確かめた。そして、低い声で、善兵衛に何かを告げた。
善兵衛の顔が、曇った。
医者が言ったのは、衝心という言葉だった。脚気が、心の臓まで及んだのだ、と。江戸わずらいとも呼ばれる病だった。白い米ばかりを食べ、日の差さぬ場所で長く暮らす者が、罹りやすい病だった。手足が痺れ、むくみ、やがて心の臓が侵される。そして、ある日、突然に——。
医者は、言葉を濁した。
助からない、とは言わなかった。しかし、その目が、語っていた。
善兵衛は、ひとつ、深く息を吐いた。それから、部屋の者たちに、下がるように言った。皆が出ていった。医者も、薬を置いて、辞した。
部屋に、朝霧と、薄雲だけが、残された。
薄雲は、枕元に、座っていた。
行灯の灯が、朝霧の青ざめた顔を、淡く照らしていた。窓の外は、もう暮れかけていた。冬の短い日が、暮れていく。よく晴れた一日の、終わりだった。
薄雲の胸の中で、ひとつの考えが、ぐるぐると回っていた。
手が、止まった。
朝霧の右手が、三味線を弾いている最中に、止まった。それは、薄雲自身の右手が、舞の最中に止まったのと、同じだった。同じ病かもしれない、という考えが、薄雲の頭を、離れなかった。師の倒れた姿は、まるで、自分の未来を見ているようだった。いつか、自分も、ああして倒れるのか。座敷の真ん中で。客の前で。あるいは、舞の最中に。
薄雲は、その考えを、振り払おうとした。
今は、師のことだけを、考えるべきだった。
「……薄雲か」
朝霧が、目を開けた。
薄雲は、身を乗り出した。
「ここにおりんす。ねぇさん、ここに」
朝霧は、薄雲の顔を、じっと見た。それから、ゆっくりと、右手を持ち上げようとした。動かなかった。倒れた時のまま、その手は、力を失っていた。
薄雲は、その手を、両手で、そっと包んだ。
冷たかった。脈が、弱く、速く、不規則に打っていた。むくんだ指は、かつて廓一と謳われた三味線の腕を、もう、思い出せないようだった。
薄雲が、その手を握った、その時だった。
朝霧の目が、変わった。
*
朝霧は、薄雲の手の、その感触に、何かを感じ取った。
握り返そうとした薄雲の右手。その指の、わずかなこわばり。力の入り方の、かすかな不自然さ。長い年月、人の手を見てきた女だった。三味線を弾く手を、舞を舞う手を、誰よりも見てきた女だった。だから、わかった。
この子の手も、同じだ。
朝霧は、自分の手が、どう壊れていったかを、知っていた。最初は、ほんの、痺れだった。指の先が、たまに、しびれた。気のせいだと思った。やがて、それが、こわばりに変わった。撥を、握り損ねることが、増えた。むくみが、来た。足が、重くなった。それでも、弾き続けた。弾くことしか、知らなかったから。そして、今日、手が、動かなくなった。
その、最初の痺れと同じものを——いや、同じではない。朝霧の病とは、違うものだった。だが、根は、同じだった。日の差さぬ場所で、身体を削って生きる者を、廓は、確実に、内側から蝕んでいく。朝霧を蝕んだのが脚気なら、この子を蝕んでいるのは、別の病だった。咳の病。胸の奥で、静かに燃える火。それでも、朝霧には、わかった。形は違えど、この子もまた、自分と同じ場所——死へと続く道の上に、もう、立っている。
朝霧は、薄雲の顔を見た。色白の、美しい顔。崩れることのない、完璧な顔。しかし、その奥に、朝霧は、見た。自分と同じものを。病の種類は違っても、同じ、死の翳りを。日の差さぬ場所で、身体を削って客を取り続ける——その暮らしが、確実に、この子の身体をも、蝕み始めていた。
この子も、長くない。
まだ、誰も気づいていない。本人さえ、見ないふりをしている。だが、朝霧には、わかった。死に近づいた者だけが、同じ道を歩む者を、見分けられる。この子の身体の奥にも、すでに、消えない火種が、灯っている。そして、その火が、いつか、この子をも、倒す。今日、自分が倒れたように。
朝霧の目から、涙が、こぼれた。
一筋、青ざめた頬を、伝った。
薄雲は、息を呑んだ。
朝霧の涙を、薄雲は、初めて見た。十数年、この女のそばにいて、一度も見たことのない涙だった。挨拶を返さない女だった。誰にも目を向けない女だった。才のある者しか見ず、それ以外の人間を、空気のように扱ってきた女だった。誰の禿も持たず、誰にも情を見せず、ただ、三味線だけを抱いて生きてきた女だった。
その朝霧が、泣いていた。
「ねぇさん……」
「薄雲」
朝霧の声は、掠れていた。しかし、その声には、これまで一度も聞いたことのない、熱があった。
「お前……身体が、悪いね」
薄雲の手が、びくりと、震えた。
朝霧は、見抜いていた。誰にも隠し通してきたものを、この女は、握った手ひとつで、見抜いた。
薄雲は、とっさに、否定しようとした。なんでもありんせん、と。冷えるだけでありんす、と。いつもの言葉が、喉まで出かかった。
しかし、朝霧の涙を見て、その言葉は、消えた。
この人に、嘘は、つけなかった。
「……はい」
薄雲は、小さく、答えた。
生涯、誰にも言わなかったことを、初めて、口にした。師にだけ、認めた。
朝霧は、目を閉じた。それから、薄雲の手を、握り返そうとした。動かない右手の代わりに、左手で、薄雲の手を、弱く握った。
「聞きなさい、薄雲」
朝霧は、目を閉じたまま、言った。
「あたしは、もう、長くない。それは、いい。あたしは、好きなように生きて、好きなように、逝く。三味線を弾いている時に倒れたのなら、本望だ。これ以上の死に方は、ない」
薄雲は、何も言えなかった。
「だが、お前は、違う」
朝霧の声が、強くなった。
「お前は、生きろ。一日でも、長く。一刻でも、長く。この吉原で、生き残れ」
薄雲は、師の顔を、見つめた。
「死ぬな、とは言わない。人は、いつか死ぬ。お前も、あたしも。だが、急ぐな。投げるな。自分を、粗末にするな。お前は、いつも、人のために自分を削る。それが、お前のいいところで、お前の、いちばん悪いところだ」
朝霧は、薄く、目を開けた。
「一日でも長く生きれば、その分だけ、お前を必要とする者がいる。お前が一日生きれば、救われる者が、いる。だから、生きろ。お前のためじゃない。お前を必要とする、誰かのために。生き残れ、薄雲」
薄雲の頬を、涙が、伝った。
朝霧の言葉は、いつもの、突き放すような言葉ではなかった。技を教える時の、最小限の言葉でもなかった。それは、生涯、誰にも注がなかった情の、すべてだった。堰が、切れたようだった。
長い年月、せき止めてきたものが、死を前にして、一気に、溢れ出していた。
なぜ、朝霧が、自分だけを禿にしたのか。なぜ、技のすべてを、惜しみなく教えたのか。薄雲は、今、その答えに、触れていた。この人は、口下手なのだ。情の示し方を、知らないのだ。だから、三味線を教えることでしか、愛せなかった。撥の持ち方を直すことでしか、近づけなかった。それが、朝霧という人間の、不器用な、たったひとつの愛し方だった。
*
その時、朝霧が、動いた。
動かないはずの身体を、起こした。布団から、半身を起こした。薄雲が、慌てて支えようとした。
しかし朝霧は、その手を、振り払うようにして、薄雲のほうへ、身を傾けた。
そして、薄雲を、抱きしめた。
弱い力だった。骨ばった、痩せた腕だった。むくんだ手だった。しかし、その腕は、薄雲を、しっかりと、抱き寄せた。
薄雲は、動けなかった。
朝霧に抱きしめられたことなど、生涯、一度もなかった。頭を撫でられたことも、手を取られたことも、なかった。教える時と、それ以外の時の落差が、激しい人だった。稽古の時だけ、朝霧は薄雲を見た。それ以外の時は、すれ違っても、目もくれなかった。
その人が、今、薄雲を、抱いていた。
「薄雲」
朝霧の声が、耳元で、囁いた。
その時——朝霧の言葉から、ふいに、廓詞が漏れた。
標準語で人を寄せつけずに生きてきた女の口から、生涯の最後に、廓詞が、こぼれた。
「あなたは……あちきの、最初で最後の、妹でありんす」
薄雲の目から、涙が、溢れた。
朝霧は、誰の禿も持たなかった。吉原の歴史の中で、ただ一人、薄雲だけを、自分の禿にした。
なぜか、薄雲は、長いあいだ、わからなかった。情けからではない、と思っていた。朝霧なりの筋だ、と。先代薄雲への想いだ、と。
違った。
あるいは、それも本当だったのかもしれない。しかし、いちばん奥にあったのは、もっと、単純なものだった。
朝霧は、薄雲を、妹だと思っていた。
血の繋がらない、たった一人の、妹。誰にも言わず、自分でも認めず、ただ、三味線を教えることでしか、その情を、注ぐ術を知らなかった。撥の持ち方を教え、舞の型を直し、「雪」の出だしを教える。それが、朝霧にできる、ただひとつの、愛の形だった。
「あちきも……」
薄雲は、朝霧の背に、腕を回した。
「あちきも、ずっと……ねぇさんだと、思うておりんした。本当の、ねぇさんだと」
二人は、抱き合ったまま、動かなかった。
行灯の灯が、二つの影を、壁に映していた。
外は、すっかり、暮れていた。冬の夜が、来ていた。
よく晴れた一日が、終わっていた。
*
朝霧は、それから二日、生きた。
二日のあいだ、意識は、あったり、なかったりした。薄雲は、座敷の合間を縫って、枕元に通った。朝霧は、ほとんど話さなかった。ただ、薄雲が来ると、わずかに、目で、それとわかった。
一日目の昼、薄雲が粥を運ぶと、朝霧は、少しだけ、口にした。
匙で、ゆっくりと、運んだ。朝霧は、子供のように、それを飲んだ。かつて、廓一と謳われた女が、教え子に粥を食べさせてもらっている。その姿に、薄雲の胸は、締めつけられた。だが、薄雲は、顔には出さなかった。ただ、静かに、匙を運んだ。
粥を半分ほど食べると、朝霧は、首を、わずかに振った。もう、いらない、という合図だった。薄雲は、椀を置いた。
「ねぇさん。何か、欲しいものは、ありんせんか」
朝霧は、しばらく考えてから、掠れた声で、言った。
「……音が、聞きたい」
それだけ言うと、また、目を閉じた。
薄雲は、その言葉を、胸に留めた。音が聞きたい、と。師は、最後まで、三味線の人だった。
禿たちが、代わる代わる、見舞いに来た。朝霧に稽古をつけられた娘は、一人もいなかった。朝霧は、誰の禿も持たなかったからだ。それでも、廓一の三味線の音に憧れた娘たちが、襖の外から、そっと中を覗いた。声はかけられなかった。朝霧という人は、最後まで、近づきがたい人だった。
扇次郎と福松も、来た。
二人の幇間は、襖の外に座り、深く頭を下げた。中へは、入らなかった。
「廓一の撥が、逝っちまう」と扇次郎が、低く呟いた。
「あの音を、もう聴けねえとは、な」と福松が、応じた。
二人は、それきり、何も言わなかった。ただ、しばらく、襖の外に、座っていた。それが、二人なりの、弔いだった。
二日目の夜だった。
薄雲が枕元にいると、朝霧が、ふと、目を開けた。そして、何かを探すように、視線を動かした。
薄雲は、その視線の先に、何があるのかを察した。
枕元に置かれた、朝霧の三味線だった。
薄雲は、それを取り、自分の膝に乗せた。そして、撥を構えた。
音が聞きたい、と師は言った。一日目に、そう言った。薄雲は、その言葉を、ずっと、胸に留めていた。師に、音を聴かせたかった。自分の音は、まだ師には届かない。それでも、聴かせたかった。師が、最後に聴く音が、廓のざわめきや、客の笑い声ではなく、自分の弾く一音であってほしかった。
「弾きんしょうか」
朝霧は、答えなかった。しかし、その目が、かすかに、和らいだ。
薄雲は、弾き始めた。
「雪」だった。
朝霧が、幼い綾乃に、いちばん最初に教えた曲だった。八雲がよく弾いていた曲。朝霧が、言葉の代わりに、教えてくれた曲だった。
降る雪の夜に、捨ててきた浮世を思う女の歌だった。低く沈む出だしから、合の手をくぐって、消えて果敢ないところへと、流れていく。雪が音もなく降り積もり、やがて溶けて消えるように。その曲が、今、この部屋に、満ちていった。
薄雲の音は、まだ、朝霧には届かなかった。
届かないまま、それでも、薄雲は弾いた。師に聴かせるために。師から受け継いだ音を、師の前で、鳴らすために。
弾きながら、薄雲は、自分の右手のことを、忘れていた。痺れも、こわばりも、その時だけは、感じなかった。ただ、師のために、弾いた。
曲が、終わった。
最後の一音が、部屋の闇に、溶けて、消えた。
薄雲は、撥を置いて、朝霧を見た。
朝霧は、目を閉じていた。
その顔は、穏やかだった。苦しみは、もう、なかった。眠っているように見えた。胸は、もう、動いていなかった。
いつ、息を引き取ったのか、わからなかった。
薄雲が、曲を弾いているあいだの、どこかだった。最後に、教え子の弾く、自分の音を聴きながら。朝の霧が、朝日にあたためられて、音もなく晴れていくように。朝霧は、逝った。
薄雲は、長いあいだ、動かなかった。
膝の上に、師の三味線を抱えたまま。
やがて、薄雲は、その弦に、そっと指を置いた。鳴らさなかった。ただ、置いた。冷たい弦が、指先に触れた。
「ねぇさん」
薄雲は、小さく、呼んだ。
返事は、なかった。
*
朝霧の弔いは、簡素だった。
吉原で死んだ遊女の弔いは、いつも簡素だった。投げ込み寺へ運ばれ、経が上げられ、それで終わりだった。朝霧ほどの名妓でも、変わらなかった。咲いているうちは、もてはやされる。散れば、誰も見向きもしない。根のない花の、定めだった。
しかし、その弔いに、薄雲は、最後まで付き添った。
そして、朝霧の三味線を、形見として、もらい受けた。善兵衛が、黙って、許した。
その夜、薄雲は、自分の部屋で、朝霧の三味線を、抱いていた。
この三味線で、朝霧は、生涯を生きた。誰にも心を開かず、ただ、この一棹に、すべてを注いで生きた。その音に、薄雲は憧れ、追いかけ、ここまで来た。今、その三味線が、薄雲の腕の中にあった。師の温もりは、もう、どこにもなかった。冷たい木と、冷たい弦が、あるだけだった。
しかし、音は、残った。
朝霧が薄雲に教えた音は、薄雲の指の中に、まだ、生きていた。撥の持ち方も、手首の返し方も、「雪」の出だしも。すべて、薄雲の身体が、覚えていた。師は逝った。だが、師の音は、薄雲が生きているかぎり、消えない。それが、受け継ぐということだった。
次の間から、春霞が、その姿を見ていた。
ねぇさんが、泣いている。声を殺して。肩を震わせて。あんなに泣くねぇさんを、春霞は、初めて見た。誰の前でも崩れないねぇさんが、師の三味線を抱いて、子供のように、泣いていた。
春霞は、声をかけられなかった。
ただ、見ていた。襖の隙間から、姉の背中を。
そして、春霞は、思った。
いつか、あちきも、こうしてねぇさんを見送る日が来るのだろうか。あの右手の、止まる日が。考えたくなかった。考えたくないのに、朝霧の死が、その日を、すぐそこに引き寄せた気がした。
外では、冬の風が、吹いていた。
よく晴れた日の夜は、冷え込んだ。星が、格子の向こうに、いくつも、凍えたように光っていた。
朝霧という名の霧は、晴れた。
あとには、その音を受け継いだ、一人の教え子だけが、残された。
薄雲は、師の最後の言葉を、胸に畳んだ。
一日でも長く、一刻でも長く、生き残れ——。
その言葉が、これから始まる、長い崩れの日々の中で、薄雲を、支えることになる。まだ、薄雲は、それを知らなかった。ただ、師の三味線を抱いて、夜が明けるまで、泣いていた。
——第九話 了
【後書き】
第九話「霧晴れる」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は朝霧という女性の物語でした。
これまでの朝霧は、
どこか冷たく、
どこか近寄り難く、
人よりも芸を愛した女として描かれてきました。
けれど本当は違いました。
人を愛せなかったのではなく、
愛し方を知らなかった。
だから三味線を教えた。
だから技を伝えた。
だから薄雲だけを禿にした。
朝霧にとって芸を教えることこそが、
唯一の愛情表現だったのだと思います。
そして物語の最後、
標準語を貫いてきた朝霧が、初めて廓詞で薄雲に語りかけます。
「あちきの、最初で最後の妹でありんす」
この一言を書くために、
ここまで朝霧という人物を積み重ねてきたと言っても過言ではありません。
個人的にも、とても好きな場面になりました。
また今回は、朝霧の死だけではなく、
薄雲自身の未来への不安も大きく描かれています。
舞の最中に止まった右手。
師が見抜いた身体の異変。
そして「生き残れ」という最後の言葉。
これらは今後の物語に深く関わっていきます。
朝霧は去りました。
けれど朝霧の音は消えません。
受け継がれた技。
受け継がれた想い。
受け継がれた願い。
それらはこれから先も、
薄雲の中で生き続けます。
次回から物語は、さらに大きく動き始めます。
花の盛りは永遠には続きません。
だからこそ、その一瞬は美しい。
そんな物語を最後まで描き切れたらと思っています。
引き続き応援していただけると嬉しいです。
感想、ブックマーク、評価なども大きな励みになっております。
本当にありがとうございます。
それではまた次回、
第十話でお会いしましょう。




