3
夜は、静かだった。
昼間のざわめきが嘘みたいに、宿舎は落ち着いている。廊下の灯りも少なく、人の気配もまばらだ。一通りの雑用仕事を忠軌から教わったゆりあは、物置部屋の中で一人、棚を拭いていた。夕方、一度様子を見に来た忠軌に、適当に切り上げて休んでいいと言われたが、切りのいいところまでと伝えて、まだ続けている。
誰の目にも留まらない場所で、誰に感謝されるでもない作業。
でも、家にいるより、ずっとマシだと思えた。
それだけで、いくらでも続けられる気がした。
その時だった。
遠くで、音がした。
ゆりあは手を止め、耳を澄ます。なにかがぶつかるような、鈍い音。
また音がする。今度は、少し近い。
気のせいじゃ、ない。
音の中に叫び声が混じった瞬間、ゆりあの背筋が凍った。
近づいてくる複数の足音。誰かが何かを叫んでいるが、言葉は聞き取れない。
でも、それが普通ではないということだけは分かった。この時間、ほとんどの軍人たちは各々の宿舎に戻っており、最低限の警備の者だけが巡回している。
ゆりあは反射的に、扉を閉めた。鍵はない。棚の影に身を潜め、息を殺す。
足音が、近づく。肩を抱いて身を小さくした。見つかったらどうなる。身が凍りつくのと同様に、思考が停止する。
何かが倒れる音と同時に、低い、笑い声。
ゆりあの心臓が、強く鳴る。呼吸が浅くなり、冷や汗が流れる。
扉の向こうで、気配が動いた。手が、ノブを回す音が響く。がたんと扉が開いて、入り込む人影。足音が鳴り、棚の影から見知らぬ男の顔がこちらを覗いた。
目が合った。
男が、ゆっくりと口元を歪める。
「いた」
全身が震えた。声も出ない。逃げなくてはと思うのに、足が動かない。
男が一歩踏み出す。反射的に後ずさり、背中が棚にぶつかる。
「女だ」
下卑た笑い声が物置部屋に響いた。頭が真っ白になって何も考えられない。
男の手が伸びた、その瞬間。
「ーーそこまでだ」
低く、はっきりとした声。男の動きが止まり、ゆりあは反射的にそちらを見る。入口に忠軌が立っていた。刀の切先を男に向けている。忠軌は迷いなく男に向かって距離を詰め、斬り捨てる。
短い断末魔とともに、男の体が崩れ落ちる。
助かった。そう自覚した瞬間、ゆりあの呼吸が戻った。
「ゆりあさん、ここは危険です。まずは避難を……」
刀を収めた忠軌が、ゆりあに手を伸ばそうとしたその刹那、ゆりあの視界が揺れた。
強い衝撃がゆりあの体を襲い、理解するより先に視界にもう一人別の男が映った。
ゆりあの名前を叫ぶ忠軌の声が、やけに遠く聞こえた。声が出ない。薄れる視界の端に、忠軌の姿が見える。スローモーションのようにゆっくりと時間が流れる感覚。
痛い。苦しい。遅れてやってくる感覚に、あ、これだめなやつだと認識する。
嫌だ、死にたくない。
息がうまく吸えない。
視界が滲んで、喉が閉じていく。
せっかく、ここまで来たのに。
まだ、なにもできてないのに。
もう一回やり直したい。
今の、なしにしたい。
その瞬間、空気が歪んだ。
ゆりあは、はっと顔を上げた。
ーーえ?
静謐な空気を纏った夜の物置部屋。自分の手には雑巾が握られていて、目の前には掃除途中の棚がある。
手が震えている。浅い呼吸を繰り返し、心臓が波打つのを感じる。
自分の体を見るが、どこも怪我をしている様子はない。でも、はっきりと残っている。痛みも、恐怖も。
ゆりあは扉を見る。廊下はまだ、静けさを保っている。その静寂が、やけに長く感じた。
なにかが来る。理由は分からない。だが、確かにはっきりとした予感がある。ゆりあは一歩、動いた。どうすればいいかは分からない。
でも、どうにかするしかない。
そうしないと、また死ぬ。
また同じ夜。同じ廊下、同じ物置部屋、同じ静けさ。ゆりあだけが、次に来るなにかを知っていた。理由は分からない。ただ、それはゆりあにとって変え難い確信だった。
「女だ」
下卑た男の笑い声。心臓が波打つのを感じる。だがもう少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。男の手が伸びた。
「ーーそこまでだ」
刀を抜いた忠軌が、問答無用で男を斬り捨てる。
「ゆりあさん、ここは危険です。一旦避難を……」
忠軌が言いかけた刹那、ゆりあは反射的に身を低くした。空を切る音。潜んでいた男が舌打ちするのが聞こえる。男の手には斧が握られていた。
忠軌は一瞬目を見開いたものの、すぐに潜んでいた男を制圧した。
「ゆりあさん、俺から離れないよう」
忠軌が言い終わる前に、ゆりあは駆け出していた。後ろで引き止めようとする忠軌の声が聞こえるけど、恐怖の中ににじむ高揚感がゆりあを駆り立てた。やった。やり直せた。物置部屋から駆け出そうとした瞬間、男の仲間がゆりあに斧を振りかぶっていた。一瞬の出来事だったはずなのに、スローモーションのようにやけに長く感じる。あ、死ぬ。瞬時にそう理解した。
気づけばまたあの物置部屋。全身が震えて手に力が入らないのに、取ってつけたように握られている雑巾。
また同じ光景。
ゆりあはその場に崩れ落ちた。
死にたくない。死にたくない。ボロボロと涙がこぼれ落ちる。考えろ。考えろ。どうやったら死ななくて済むか。どうすれば生き延びれるか。
昼間の執務室。忠軌から一通りの雑用を教わり、一旦休憩を言い渡されたゆりあは、真っ先に燈夜に会いに行った。
「燈夜くん」
燈夜は資料を片手にゆりあを見やると、眉をひそめる。
「この庁舎が襲われるの。お願い、今夜なの。助けて、お願い」
一気に捲し立てるゆりあに対し、燈夜は気でも触れたかとでも言いたげな表情だ。荒唐無稽な話だが、あまりにも妹の必死な様子に、とりあえず話だけでも聞いてやるかと思い直し、「根拠は?」と短く質問する。
「それは……」
ゆりあは言葉に詰まる。何度も死にかけたから。そんなこと、言えるわけがない。
「……わからない、けど」
燈夜は短く息を吐き、隣にいる忠軌を睨む。忠軌は表情を変えず、まっすぐな姿勢で立っている。
「お前、さてはなんか変なこと吹き込んだな」
「特になにも。仕事の説明のみです」
「だったら、もっと雑用増やしてやれ」
縋るような目で「燈夜くん、お願い、聞いて」と何度も訴えたが、燈夜には届かなかった。
その後も、何度も試した。物置部屋に居なくても、宿舎まで入り込んだ別の暴徒に襲われた。他の軍人に警護を頼んだりもしたが、なにも変わらなかった。軍に行かない選択もした。すると翌日、燈夜の訃報が入った。
「お願い燈夜くん。信じて」
また同じ。気でも触れたかと言わんばかりの、怪訝そうなあの顔。
「こいつがこれ以上変なこと言わないように、もっと雑用増やしてやれ」
そしてまた、同じ夜。
もう一度、斎宮家の廊下。
暁が訪ねてきた日。燈夜に軍へ連れ出される日の前日。
「お願い、あきくん」
父母と話している暁の袖を掴んで、ゆりあが言った。
「ゆりあ、あんた暁さんに何を」
暁は今にも激昂しそうな母を手で制し、ゆりあの顔を覗き込む。
「ゆりちゃんからお願いごとなんて珍しいね」
ゆりあの手が震える。
「助けて……。私と燈夜くんを、助けて……」
暁が、はてと大袈裟に首を傾げる。
「燈夜? 燈夜ならさっき俺たちと一緒に応接室にいたけど」
父がゆりあの肩を掴む。
「訳のわからないことを。暁くんに迷惑をかけるのも大概にしなさい」
「お願い……。お願いします……」
それでも、ゆりあは暁の袖を掴んだまま、いっこうに引こうとしない。暁は一瞬、きょとんとしてから、笑った。
「おじさん、一度ゆりちゃんと二人で話がしたいので、少し席を外してくれますか」
「……暁くん。これの話に付き合う必要はない。無能な上に、世間知らずなバカ娘だ」
暁は一度思案したのち、「でもなんか可哀想だし」と袖を掴むゆりあの手に自分のものを添える。
「まずは、話だけでも」
「……暁くんがそう言うなら。ゆりあ、くれぐれも礼を欠く真似はするなよ」
父が母の肩を抱いてその場を去る。去り際、母の鬼のような形相がゆりあの目を捉えていた。
両親が離れ、静かさの戻る廊下で、暁は呆れたようにため息を吐く。
「ゆりちゃんさぁ。変な本の読みすぎじゃない?」
暁は、自らの袖を掴んでいたゆりあの手を解いた。
「ご両親の手前ああ言ったけど、そういう奇行に走って気を引こうとするの、よくないと思うよ」
やっぱり、取り合ってもらえなかった。それでも、食い下がった。
「お願い」
暁は少しだけ目を細めた。
「もう、あきくんしかいないの」
ゆりあの肩は震えている。お願い、あきくん、信じてくれなくていい。助けて。
「……しつこいな」
少しだけ冷たい、暁の声。
次の瞬間、見えない水が、周囲を満たす。
息ができない。ゆりあの悲痛な心の叫びは、暁には届かなかった。
苦しい。溺れないよう必死にもがく。でも、逃げられない。
「そんな話、誰も信じないよ」
暁の声。軽い、いつもの調子で。
口から漏れた気泡が目の前を上昇していく。もう無理。
限界が来る直前、解放される。
空気を吸い込む。一気に肺に流れてきた空気で思わず咳き込んだ。それでも、にじむ視界でなんとか暁を捉える。
「お願……あきく……たすけ……」
途切れ途切れになりながらも、ゆりあは暁の袖を必死に掴んだ。
「……いいよ」
暁が言う。
ゆりあは顔を上げる。
「そこまで言うなら、仕方ないね。倉で三日過ごせたら、言うこと聞いてあげる」
使用人に体を引きずられ、暗い倉に乱暴に放り込まれた。扉が閉められ、錠が下りる音が響く。
慌てて、扉をドンドンと叩いて泣き叫んだ。
「お願い、開けて! 三日じゃ間に合わない! 明日なの!」
「ゆりちゃん、そこでちょっと頭が冷えたら、また話そう」
倉の外からくぐもったような暁の声が聞こえて、遠ざかる足音。
「待って、あきくん」
言いかけて、倉の外で小さく「三日間食事を与えず閉じ込めておけば、少しは反省するでしょう」という、やけに上機嫌な母の声が聞こえた気がした。体の力が抜ける。
真っ暗な闇がゆりあを包み込む。閉ざされた空間が、時間の感覚を奪う。どのくらい経った? これからどうなる? 燈夜くんは? 私は……?
怖い。寒い。苦しい。
「出して……、お願い、ここから出して……。あきくん……燈夜くん……母さま……」
ゆりあは呆気なく限界を迎えた。次に目が覚めた時、最初に視界に入ってきたのは、血相を変えた兄の姿。「この家には置いておけない」と怒りをあらわにして、馬車に乗せられそのまま軍へ連れて行かれた。
そして、また同じ夜が来る。
物置部屋、足音、声。
結局、暁にも助けてもらうことはできなかった。
扉が開く。
「いた」
同じ光景、同じ男。また、ここだ。
男が近づく。逃げられない。諦めるしかない。自分はここで死ぬ運命なのだ。
男の手が伸び、ゆりあの細い首に掛かった。ゆっくりと力が込められ、徐々に呼吸が苦しくなっていく感覚。
その瞬間、脳裏に焼きついた燈夜の訃報が、頭に浮かんだ。
心臓が強く鳴り、呼吸が荒くなる。
どうせもう、同じだ。何をやったって変わらない。
自分はもう死んだって仕方ない。
それでも。
ーー嫌だ。燈夜くんだけは絶対……。
男の指が食い込む。息ができない。あの時と同じ。
その時ふと、頭をよぎる、水の感覚。
あの時と同じ、溺れていく感覚。口から溢れる空気と、閉じ込められる圧迫感。脳裏にチラつく、暁の薄ら笑い。
無意識に、手が動く。次の瞬間。
空気が、歪んで、男の周囲に、透明な“何か”が生まれた。
ーー水。
そう理解すると同時に、その透明な膜は男を閉じ込め、押し潰した。ゆりあの首から離れた手が、空を掻きながらもがき暴れている。声にならない声。その間、数秒。男の動きが止まり、静寂が辺りを包む。
ゆりあは、呆然とその場に立ち尽くす。
遅れて、足音が響き、忠軌が現れた。その視線が、倒れた男に向き、それから、ゆりあへ。じり、と一瞬距離を取るように靴が鳴ったのが耳に届く。
「……今のは」
問いかける声に、ゆりあは何も答えることはできなかった。




