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 夜は、静かだった。

 昼間のざわめきが嘘みたいに、宿舎は落ち着いている。廊下の灯りも少なく、人の気配もまばらだ。一通りの雑用仕事を忠軌から教わったゆりあは、物置部屋の中で一人、棚を拭いていた。夕方、一度様子を見に来た忠軌に、適当に切り上げて休んでいいと言われたが、切りのいいところまでと伝えて、まだ続けている。

 誰の目にも留まらない場所で、誰に感謝されるでもない作業。

 でも、家にいるより、ずっとマシだと思えた。

 それだけで、いくらでも続けられる気がした。


 その時だった。


 遠くで、音がした。

 ゆりあは手を止め、耳を澄ます。なにかがぶつかるような、鈍い音。

 また音がする。今度は、少し近い。

 気のせいじゃ、ない。

 音の中に叫び声が混じった瞬間、ゆりあの背筋が凍った。

 近づいてくる複数の足音。誰かが何かを叫んでいるが、言葉は聞き取れない。

 でも、それが普通ではないということだけは分かった。この時間、ほとんどの軍人たちは各々の宿舎に戻っており、最低限の警備の者だけが巡回している。


 ゆりあは反射的に、扉を閉めた。鍵はない。棚の影に身を潜め、息を殺す。

 足音が、近づく。肩を抱いて身を小さくした。見つかったらどうなる。身が凍りつくのと同様に、思考が停止する。

 何かが倒れる音と同時に、低い、笑い声。

 ゆりあの心臓が、強く鳴る。呼吸が浅くなり、冷や汗が流れる。

 扉の向こうで、気配が動いた。手が、ノブを回す音が響く。がたんと扉が開いて、入り込む人影。足音が鳴り、棚の影から見知らぬ男の顔がこちらを覗いた。

 目が合った。

 男が、ゆっくりと口元を歪める。

「いた」

 全身が震えた。声も出ない。逃げなくてはと思うのに、足が動かない。

 男が一歩踏み出す。反射的に後ずさり、背中が棚にぶつかる。

「女だ」

 下卑た笑い声が物置部屋に響いた。頭が真っ白になって何も考えられない。

 男の手が伸びた、その瞬間。


「ーーそこまでだ」

 低く、はっきりとした声。男の動きが止まり、ゆりあは反射的にそちらを見る。入口に忠軌が立っていた。刀の切先を男に向けている。忠軌は迷いなく男に向かって距離を詰め、斬り捨てる。

 短い断末魔とともに、男の体が崩れ落ちる。

 助かった。そう自覚した瞬間、ゆりあの呼吸が戻った。

「ゆりあさん、ここは危険です。まずは避難を……」

 刀を収めた忠軌が、ゆりあに手を伸ばそうとしたその刹那、ゆりあの視界が揺れた。

 強い衝撃がゆりあの体を襲い、理解するより先に視界にもう一人別の男が映った。

 ゆりあの名前を叫ぶ忠軌の声が、やけに遠く聞こえた。声が出ない。薄れる視界の端に、忠軌の姿が見える。スローモーションのようにゆっくりと時間が流れる感覚。

 痛い。苦しい。遅れてやってくる感覚に、あ、これだめなやつだと認識する。

 嫌だ、死にたくない。

 息がうまく吸えない。

 視界が滲んで、喉が閉じていく。

 せっかく、ここまで来たのに。

 まだ、なにもできてないのに。

 もう一回やり直したい。

 今の、なしにしたい。

 その瞬間、空気が歪んだ。


 ゆりあは、はっと顔を上げた。

ーーえ?

 静謐な空気を纏った夜の物置部屋。自分の手には雑巾が握られていて、目の前には掃除途中の棚がある。

 手が震えている。浅い呼吸を繰り返し、心臓が波打つのを感じる。

 自分の体を見るが、どこも怪我をしている様子はない。でも、はっきりと残っている。痛みも、恐怖も。

 ゆりあは扉を見る。廊下はまだ、静けさを保っている。その静寂が、やけに長く感じた。

 なにかが来る。理由は分からない。だが、確かにはっきりとした予感がある。ゆりあは一歩、動いた。どうすればいいかは分からない。

 でも、どうにかするしかない。

 そうしないと、また死ぬ。


  また同じ夜。同じ廊下、同じ物置部屋、同じ静けさ。ゆりあだけが、次に来るなにかを知っていた。理由は分からない。ただ、それはゆりあにとって変え難い確信だった。


「女だ」

 下卑た男の笑い声。心臓が波打つのを感じる。だがもう少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。男の手が伸びた。

「ーーそこまでだ」

 刀を抜いた忠軌が、問答無用で男を斬り捨てる。

「ゆりあさん、ここは危険です。一旦避難を……」

 忠軌が言いかけた刹那、ゆりあは反射的に身を低くした。空を切る音。潜んでいた男が舌打ちするのが聞こえる。男の手には斧が握られていた。

 忠軌は一瞬目を見開いたものの、すぐに潜んでいた男を制圧した。

「ゆりあさん、俺から離れないよう」

 忠軌が言い終わる前に、ゆりあは駆け出していた。後ろで引き止めようとする忠軌の声が聞こえるけど、恐怖の中ににじむ高揚感がゆりあを駆り立てた。やった。やり直せた。物置部屋から駆け出そうとした瞬間、男の仲間がゆりあに斧を振りかぶっていた。一瞬の出来事だったはずなのに、スローモーションのようにやけに長く感じる。あ、死ぬ。瞬時にそう理解した。


 気づけばまたあの物置部屋。全身が震えて手に力が入らないのに、取ってつけたように握られている雑巾。

 また同じ光景。

 ゆりあはその場に崩れ落ちた。

 死にたくない。死にたくない。ボロボロと涙がこぼれ落ちる。考えろ。考えろ。どうやったら死ななくて済むか。どうすれば生き延びれるか。


 昼間の執務室。忠軌から一通りの雑用を教わり、一旦休憩を言い渡されたゆりあは、真っ先に燈夜に会いに行った。

 「燈夜くん」

 燈夜は資料を片手にゆりあを見やると、眉をひそめる。

 「この庁舎が襲われるの。お願い、今夜なの。助けて、お願い」

 一気に捲し立てるゆりあに対し、燈夜は気でも触れたかとでも言いたげな表情だ。荒唐無稽な話だが、あまりにも妹の必死な様子に、とりあえず話だけでも聞いてやるかと思い直し、「根拠は?」と短く質問する。

「それは……」

ゆりあは言葉に詰まる。何度も死にかけたから。そんなこと、言えるわけがない。

「……わからない、けど」

 燈夜は短く息を吐き、隣にいる忠軌を睨む。忠軌は表情を変えず、まっすぐな姿勢で立っている。

「お前、さてはなんか変なこと吹き込んだな」

「特になにも。仕事の説明のみです」

「だったら、もっと雑用増やしてやれ」

 縋るような目で「燈夜くん、お願い、聞いて」と何度も訴えたが、燈夜には届かなかった。


 その後も、何度も試した。物置部屋に居なくても、宿舎まで入り込んだ別の暴徒に襲われた。他の軍人に警護を頼んだりもしたが、なにも変わらなかった。軍に行かない選択もした。すると翌日、燈夜の訃報が入った。


「お願い燈夜くん。信じて」

 また同じ。気でも触れたかと言わんばかりの、怪訝そうなあの顔。


「こいつがこれ以上変なこと言わないように、もっと雑用増やしてやれ」


 そしてまた、同じ夜。


 もう一度、斎宮家の廊下。

 暁が訪ねてきた日。燈夜に軍へ連れ出される日の前日。

「お願い、あきくん」

 父母と話している暁の袖を掴んで、ゆりあが言った。

「ゆりあ、あんた暁さんに何を」

  暁は今にも激昂しそうな母を手で制し、ゆりあの顔を覗き込む。

「ゆりちゃんからお願いごとなんて珍しいね」

 ゆりあの手が震える。

「助けて……。私と燈夜くんを、助けて……」

 暁が、はてと大袈裟に首を傾げる。

「燈夜? 燈夜ならさっき俺たちと一緒に応接室にいたけど」

 父がゆりあの肩を掴む。

「訳のわからないことを。暁くんに迷惑をかけるのも大概にしなさい」

「お願い……。お願いします……」

 それでも、ゆりあは暁の袖を掴んだまま、いっこうに引こうとしない。暁は一瞬、きょとんとしてから、笑った。

「おじさん、一度ゆりちゃんと二人で話がしたいので、少し席を外してくれますか」

「……暁くん。これの話に付き合う必要はない。無能な上に、世間知らずなバカ娘だ」

 暁は一度思案したのち、「でもなんか可哀想だし」と袖を掴むゆりあの手に自分のものを添える。

「まずは、話だけでも」

「……暁くんがそう言うなら。ゆりあ、くれぐれも礼を欠く真似はするなよ」

 父が母の肩を抱いてその場を去る。去り際、母の鬼のような形相がゆりあの目を捉えていた。


 両親が離れ、静かさの戻る廊下で、暁は呆れたようにため息を吐く。

「ゆりちゃんさぁ。変な本の読みすぎじゃない?」

 暁は、自らの袖を掴んでいたゆりあの手を解いた。

「ご両親の手前ああ言ったけど、そういう奇行に走って気を引こうとするの、よくないと思うよ」

 やっぱり、取り合ってもらえなかった。それでも、食い下がった。

「お願い」

 暁は少しだけ目を細めた。

「もう、あきくんしかいないの」

 ゆりあの肩は震えている。お願い、あきくん、信じてくれなくていい。助けて。

「……しつこいな」

 少しだけ冷たい、暁の声。

 次の瞬間、見えない水が、周囲を満たす。

 息ができない。ゆりあの悲痛な心の叫びは、暁には届かなかった。

 苦しい。溺れないよう必死にもがく。でも、逃げられない。

「そんな話、誰も信じないよ」

 暁の声。軽い、いつもの調子で。

 口から漏れた気泡が目の前を上昇していく。もう無理。

 限界が来る直前、解放される。

 空気を吸い込む。一気に肺に流れてきた空気で思わず咳き込んだ。それでも、にじむ視界でなんとか暁を捉える。

「お願……あきく……たすけ……」

 途切れ途切れになりながらも、ゆりあは暁の袖を必死に掴んだ。

「……いいよ」

 暁が言う。

 ゆりあは顔を上げる。

「そこまで言うなら、仕方ないね。倉で三日過ごせたら、言うこと聞いてあげる」


 使用人に体を引きずられ、暗い倉に乱暴に放り込まれた。扉が閉められ、錠が下りる音が響く。

 慌てて、扉をドンドンと叩いて泣き叫んだ。

「お願い、開けて! 三日じゃ間に合わない! 明日なの!」

「ゆりちゃん、そこでちょっと頭が冷えたら、また話そう」

 倉の外からくぐもったような暁の声が聞こえて、遠ざかる足音。

「待って、あきくん」

 言いかけて、倉の外で小さく「三日間食事を与えず閉じ込めておけば、少しは反省するでしょう」という、やけに上機嫌な母の声が聞こえた気がした。体の力が抜ける。

 真っ暗な闇がゆりあを包み込む。閉ざされた空間が、時間の感覚を奪う。どのくらい経った? これからどうなる? 燈夜くんは? 私は……?

 怖い。寒い。苦しい。

「出して……、お願い、ここから出して……。あきくん……燈夜くん……母さま……」

 ゆりあは呆気なく限界を迎えた。次に目が覚めた時、最初に視界に入ってきたのは、血相を変えた兄の姿。「この家には置いておけない」と怒りをあらわにして、馬車に乗せられそのまま軍へ連れて行かれた。


 そして、また同じ夜が来る。


 物置部屋、足音、声。

 結局、暁にも助けてもらうことはできなかった。

 扉が開く。

「いた」

 同じ光景、同じ男。また、ここだ。

 男が近づく。逃げられない。諦めるしかない。自分はここで死ぬ運命なのだ。

 男の手が伸び、ゆりあの細い首に掛かった。ゆっくりと力が込められ、徐々に呼吸が苦しくなっていく感覚。

 その瞬間、脳裏に焼きついた燈夜の訃報が、頭に浮かんだ。

 心臓が強く鳴り、呼吸が荒くなる。

 どうせもう、同じだ。何をやったって変わらない。

 自分はもう死んだって仕方ない。


 それでも。


ーー嫌だ。燈夜くんだけは絶対……。

 

 男の指が食い込む。息ができない。あの時と同じ。

 その時ふと、頭をよぎる、水の感覚。

 あの時と同じ、溺れていく感覚。口から溢れる空気と、閉じ込められる圧迫感。脳裏にチラつく、暁の薄ら笑い。

 無意識に、手が動く。次の瞬間。

 空気が、歪んで、男の周囲に、透明な“何か”が生まれた。

ーー水。

 そう理解すると同時に、その透明な膜は男を閉じ込め、押し潰した。ゆりあの首から離れた手が、空を掻きながらもがき暴れている。声にならない声。その間、数秒。男の動きが止まり、静寂が辺りを包む。

 ゆりあは、呆然とその場に立ち尽くす。

 遅れて、足音が響き、忠軌が現れた。その視線が、倒れた男に向き、それから、ゆりあへ。じり、と一瞬距離を取るように靴が鳴ったのが耳に届く。

「……今のは」

 問いかける声に、ゆりあは何も答えることはできなかった。

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