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門を出ると、空気が変わる。
屋敷の中にあった重さが、少しだけ薄くなり、代わりに、見慣れない景色があった。
ゆりあは無言で燈夜の後ろについていた。門の前に停められた馬車に乗り込み、出発する。
石畳。人の気配。桜並木に彩られた通りの中で馬車に揺られながら、ゆりあは物珍しい様子で辺りを見渡す。不意に燈夜が言った。
「軍なら、ああいうのは減る」
燈夜は窓の外を見たまま、視線を合わせない。ゆりあは一瞬、意味を測る。
「ああいうの」
「……ああいうのは、ああいうのだ」
曖昧な言い方だが、わかる。
笑い声、視線、棘のある言葉。着物を濡らすぬるいお茶の感覚。
「母さんには言ってないから、しばらく帰るなよ」
「え、それって」
「知ったら大火事だ」
「……うん」
鬼の形相の母が目に浮かぶ。
「完全になくなるわけじゃないぞ。あそこは実力主義だから」
燈夜は淡々と付け足した。自分とは縁遠い響きに、ゆりあは視線を落とす。燈夜は「でも」とわずかに声を強めた。
「少なくとも、あの家よりはマシだ」
ゆりあは何も言わない。断定する兄に、ただ小さく頷くことしかできなかった。
門をくぐると視界が開け、広い敷地内に建物が整然と並んでいる。その間を、同じような装いをした人影が行き交う。皆、動きに無駄がない。
燈夜の後をついて歩きながら、ゆりあは居心地の悪さを感じた。視線が、いくつかこちらに向けられているのがわかる。
「斎宮家の……」
「例の無能とかいう」
聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声。ゆりあは顔を上げない。
少しだけ、息が詰まる。
建物の一角で、燈夜が足を止めた。
「ここだ」
扉を開ける。中は簡素だった。机と椅子、最低限の備え。恐らく給湯室だろう。
「しばらくここにいろ」
ゆりあは室内を見回す。
「……私、何をすれば」
聞くと、燈夜は肩をすくめ、「雑用でいい」とあっさり答えた。
「茶でも淹れとけ。あとは言われたことやればいい」
家でやっていたこととほとんど変わらない。ゆりあが小さく頷いた、その時。
「燈夜殿」
別の声がした。低く、よく通る声。
振り向くと、入口に男が立っていた。
背は高く、まっすぐな姿勢には無駄がない。光の加減で、髪がわずかに鈍く光る。ゆりあは思わず目を奪われた。
ーーきれいな人。
場違いな感想が、頭に浮かぶ。
燈夜が軽く顎で示した。
「ちょうどいい。こいつ任せる」
男は視線をゆりあに移す。鋭いわけではなく、ただ、まっすぐな目。
「忠軌だ。俺の部下。大抵のことはこいつに聞けばなんとかなる」
忠軌は軽く頭を下げ「忠軌です」と、それだけ告げた。
ゆりあは少し遅れて頭を下げる。
「……ゆりあです」
自分の名前を言うだけなのに、少しだけ緊張する。
「話は通してある。雑用くらいならできるだろ」
言い方は変わらない。評価でも、フォローでもなく、ただ事実をそこに置いただけ。
忠軌はわずかに頷いた。
「承知しました」
燈夜は満足したように「じゃ」と背を向ける。すれ違いざま、ゆりあの肩に手を置き「頑張って続けられたら、たまには休日に喫茶店にでも連れてってやるから」と耳打ちした。ゆりあは曖昧に口元を緩める。
扉が閉まり、急に静かになった。
ゆりあは、どうしていいか分からず立ち尽くしていた。その様子を少しだけ見ていた忠軌は、やがて口を開く。
「まずは給仕を。道具の場所を覚えてください」
落ち着いた声で、簡潔に説明される。
「茶葉はそちら、湯呑みはここに」
ゆりあは慌てて視線を動かし、道具を取ろうとした。が、慌てたせいかもつれた指先から湯呑みが滑り落ちていく。
「あっ」
割れる。そう思ったが、いつまで経っても湯呑みは割れることはなかった。
「焦らなくて構いません。時間はあります」
忠軌の手のひらに、ゆりあが落とした湯呑みが握られている。言い方は淡々としているのに、不思議と急かされている感じがない。
ゆりあは一瞬、戸惑う。
「……あ、ありがとうございます。でも」
言いかける。ーー遅いとまた、叱られる。
忠軌は首を振った。
「まずは、正確にやってください」
ゆりあは小さく息を吸った。
「……わかりました」
忠軌は何も言わない。ただ、手元に視線を落としていた。
ゆりあは茶葉に手を伸ばす。指先は、少しだけ震えている。それでも、さっきよりは落ち着いている。
火を見て、湯を確かめる。さっきよりも、少し慎重に。しばらくして、湯呑みを差し出す。
「……どうぞ」
忠軌は湯呑みを受け取ると、一口だけ口に含んだ。
ゆりあは思わず息を止めた。昨日の濡れた着物の重みが、急にくっきりとした輪郭を持つようだった。身体が、先に構える。
だが、忠軌から放たれたのは、「問題ありません」という、たったそれだけの評価だった。
それ以上でも、それ以下でもない。淡々としたやり取りに、ゆりあは一瞬、言葉を失う。
「……ほんとに?」
思わず聞き返してしまう。
忠軌は少しだけ首を傾げ、「問題があるようには感じませんでしたが」と、ただ事実を述べているだけの声。
ゆりあは、ゆっくり息を吐く。胸の奥が、少しだけ軽くなる感覚。
「来客があれば先ほどの要領でお茶をお出ししてください。応接室に案内します」
忠軌は淡々と説明を続けている。
理由は分からない。
でも、少しだけ。
やれる気がした。




