表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

2

 門を出ると、空気が変わる。

 屋敷の中にあった重さが、少しだけ薄くなり、代わりに、見慣れない景色があった。

 ゆりあは無言で燈夜の後ろについていた。門の前に停められた馬車に乗り込み、出発する。

 石畳。人の気配。桜並木に彩られた通りの中で馬車に揺られながら、ゆりあは物珍しい様子で辺りを見渡す。不意に燈夜が言った。

「軍なら、ああいうのは減る」

 燈夜は窓の外を見たまま、視線を合わせない。ゆりあは一瞬、意味を測る。

「ああいうの」

「……ああいうのは、ああいうのだ」

 曖昧な言い方だが、わかる。

 笑い声、視線、棘のある言葉。着物を濡らすぬるいお茶の感覚。

「母さんには言ってないから、しばらく帰るなよ」

「え、それって」

「知ったら大火事だ」

「……うん」

 鬼の形相の母が目に浮かぶ。

「完全になくなるわけじゃないぞ。あそこは実力主義だから」

 燈夜は淡々と付け足した。自分とは縁遠い響きに、ゆりあは視線を落とす。燈夜は「でも」とわずかに声を強めた。

「少なくとも、あの家よりはマシだ」

 ゆりあは何も言わない。断定する兄に、ただ小さく頷くことしかできなかった。


 門をくぐると視界が開け、広い敷地内に建物が整然と並んでいる。その間を、同じような装いをした人影が行き交う。皆、動きに無駄がない。

 燈夜の後をついて歩きながら、ゆりあは居心地の悪さを感じた。視線が、いくつかこちらに向けられているのがわかる。

「斎宮家の……」

「例の無能とかいう」

 聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな声。ゆりあは顔を上げない。

 少しだけ、息が詰まる。


 建物の一角で、燈夜が足を止めた。

「ここだ」

 扉を開ける。中は簡素だった。机と椅子、最低限の備え。恐らく給湯室だろう。

「しばらくここにいろ」

 ゆりあは室内を見回す。

「……私、何をすれば」

 聞くと、燈夜は肩をすくめ、「雑用でいい」とあっさり答えた。

「茶でも淹れとけ。あとは言われたことやればいい」

 家でやっていたこととほとんど変わらない。ゆりあが小さく頷いた、その時。

「燈夜殿」

 別の声がした。低く、よく通る声。

 振り向くと、入口に男が立っていた。

 背は高く、まっすぐな姿勢には無駄がない。光の加減で、髪がわずかに鈍く光る。ゆりあは思わず目を奪われた。

ーーきれいな人。

 場違いな感想が、頭に浮かぶ。

 燈夜が軽く顎で示した。

「ちょうどいい。こいつ任せる」

 男は視線をゆりあに移す。鋭いわけではなく、ただ、まっすぐな目。

忠軌(ちゅうき)だ。俺の部下。大抵のことはこいつに聞けばなんとかなる」

 忠軌は軽く頭を下げ「忠軌です」と、それだけ告げた。

 ゆりあは少し遅れて頭を下げる。

「……ゆりあです」

 自分の名前を言うだけなのに、少しだけ緊張する。

「話は通してある。雑用くらいならできるだろ」

 言い方は変わらない。評価でも、フォローでもなく、ただ事実をそこに置いただけ。

 忠軌はわずかに頷いた。

「承知しました」

 燈夜は満足したように「じゃ」と背を向ける。すれ違いざま、ゆりあの肩に手を置き「頑張って続けられたら、たまには休日に喫茶店にでも連れてってやるから」と耳打ちした。ゆりあは曖昧に口元を緩める。


 扉が閉まり、急に静かになった。

 ゆりあは、どうしていいか分からず立ち尽くしていた。その様子を少しだけ見ていた忠軌は、やがて口を開く。

「まずは給仕を。道具の場所を覚えてください」

 落ち着いた声で、簡潔に説明される。

「茶葉はそちら、湯呑みはここに」

 ゆりあは慌てて視線を動かし、道具を取ろうとした。が、慌てたせいかもつれた指先から湯呑みが滑り落ちていく。

「あっ」

 割れる。そう思ったが、いつまで経っても湯呑みは割れることはなかった。

「焦らなくて構いません。時間はあります」

 忠軌の手のひらに、ゆりあが落とした湯呑みが握られている。言い方は淡々としているのに、不思議と急かされている感じがない。

 ゆりあは一瞬、戸惑う。

「……あ、ありがとうございます。でも」

 言いかける。ーー遅いとまた、叱られる。

 忠軌は首を振った。

「まずは、正確にやってください」

 ゆりあは小さく息を吸った。

「……わかりました」

 忠軌は何も言わない。ただ、手元に視線を落としていた。

 ゆりあは茶葉に手を伸ばす。指先は、少しだけ震えている。それでも、さっきよりは落ち着いている。

 火を見て、湯を確かめる。さっきよりも、少し慎重に。しばらくして、湯呑みを差し出す。

「……どうぞ」

 忠軌は湯呑みを受け取ると、一口だけ口に含んだ。

 ゆりあは思わず息を止めた。昨日の濡れた着物の重みが、急にくっきりとした輪郭を持つようだった。身体が、先に構える。

 だが、忠軌から放たれたのは、「問題ありません」という、たったそれだけの評価だった。

 それ以上でも、それ以下でもない。淡々としたやり取りに、ゆりあは一瞬、言葉を失う。

「……ほんとに?」

 思わず聞き返してしまう。

 忠軌は少しだけ首を傾げ、「問題があるようには感じませんでしたが」と、ただ事実を述べているだけの声。

 ゆりあは、ゆっくり息を吐く。胸の奥が、少しだけ軽くなる感覚。

「来客があれば先ほどの要領でお茶をお出ししてください。応接室に案内します」

 忠軌は淡々と説明を続けている。


 理由は分からない。


 でも、少しだけ。

 やれる気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ