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 水が跳ねる音がした。

 ほんの一拍遅れて、じわりと温かく濡れる感触が広がった。そのまま、持っていた盆に無造作に湯呑みが置かれる。

「ぬるい」

 たったひと言。

 御門 暁(みかど あきら)。上等な羽織に身を包んだ彼は、柔らかな表情を崩さない。怒っている様子はない。ただ、そういう評価だった。

 廊下の端で、誰かが小さく笑った。

「ほんと使えない」

「し、聞こえるよ」

 声は抑えられているが、ゆりあの耳には届いた。ゆりあは顔を上げず、「すぐ淹れ直します」と更に頭を下げた。濡れた着物が肌に張り付く。

 立ちあがろうとしたゆりあに、暁は軽い調子で「お願いね」と言い、視線を向けた。

「それくらいしかできないんだから」

 まるで気遣うみたいに、軽く言う。

 ゆりあは頷き、無言でその場を離れた。すれ違った女中が口元を押さえながらくすくす笑っているのが見えた。それを尻目に、何も言わず視線を落とした。

 この場で誰も、暁に逆らうという発想を持っていない。


 廊下に出たゆりあの胸ぐらを掴んで、壁に押し付けたのは鬼の形相をした母だった。ガチャンと盆の上で空の湯呑みが跳ねる。

「あんた、御門家の次期当主になるお方にまた粗相して」

 痛みに顔をしかめるも、絞り出すような声で「ごめんなさい」と紡ぐしかできなかった。

「愛想笑いのひとつでもできないの? もっと暁さんに気に入られる努力をしなさい。この私にどれだけ恥をかかせれば気が済むの」

 母はゆりあの頬を掴んで、こう言った。

「いいこと。御門家は我が斎宮家と同じ御三家のひとつ。代々軍事を司る斎宮家に、政界を牛耳る御門家の後ろ盾があればどれだけ繁栄することか。あんたは稼業を支えることができない無能なんだから、せめてその顔と体を使って役に立ちなさい」

 乱暴に手を離すと、母はその場を去った。頬が赤く熱を帯びるのを感じた。


 この国では、人口の約一割が「異能力」と呼ばれる力を持つ。


 ゆりあは、その名門御三家のひとつ、斎宮家の嫡子でありながら——

 異能力を持たない「無能」だった。


 台所の女中が、濡れそぼったゆりあを見るなり、顔を歪めた。

「今度はなにやらかしたんだか」

 吐き捨てるように言った。廊下でくすくす笑う声が聞こえる。

 かつては優しかった女中たちも、今は違う。

 異能力は、一般的に八歳までに発現すると言われている。

――ゆりあには、それがなかった。

 理由は、それだけで十分だった。


 それでもゆりあは家を追い出されないように受け入れるしかなかった。無能の自分が家を出てひとりでやっていけるわけもない。生きるために仕方なく、斎宮家にしがみつくだけの日々。

「あたしは休憩に行ってくるから、竈門の火、ちゃんと始末しておくんだよ」

 女中が去った後、台所で釜の湯を見る。ふんわりと湯気が立っているが、これではまた茶を掛けられてしまう。ゆりあは竈門に炭を足し、湯を沸かす。濡れて冷えてきた着物がじわりと温かさを取り戻していくのを感じた。

 時間がかかる。次はきっと遅いと難癖をつけられるのだろう。でも、ぬるいよりは良い。


「うわ、なんでそんな濡れてんの?」

 聞き慣れた声がする。ハッと顔を上げた。

燈夜(とうや)くん……」

 名前を呼んだ瞬間、張り詰めていたものが、ほんの少しだけほどけた。上等な着物に身を包んだ兄、斎宮 燈夜(さいぐう とうや)が、顔をしかめてこちらを見ている。息の詰まったような感覚が、兄の前でだけ、少しだけやわらいでいく。

「ちょっと失敗しちゃって」

「またかよ」

 燈夜はため息をついた。

「いい加減もうちょっと上手くやれよな。暁の性格くらいわかってんだろ」

 ゆりあの準備した湯呑みを手に取る。

「俺が持っていくから、ゆりはそこに居ろ」

「でも」

 言いかけて、言葉を飲み込む。

「いいから」

 燈夜は湯呑みを持ってその場を後にした。ぽつりと残されたゆりあは、ただ背中を見送ることしかできない。未だ濡れている着物から滴る雫が土間にしみを作った。

 燈夜はゆりあの双子の兄であり、若くして軍事の才能を開花させ頭角を表した異能者である。また、この斎宮家直系の嫡男。暁と同等の立場。

 あの場に燈夜がいれば、これ以上責められることはない。

「……守ってくれてるんだよね」

 そう、思うしかない。視線が再び落ちた。


 窯の火を消し、手持ち無沙汰にしばらく立ち尽くしたゆりあは、やがて廊下に出た。女中の笑い声はいつの間にか聞こえなくなっている。代わりに、別の気配。

「……あきくん」

 柱にもたれて立っていたのは、暁だった。声をかけると、ゆっくりと視線をこちらへ向けた。笑っているようで笑っていない。整った切れ長の目と視線が噛み合うと、ゆりあは無意識に目を逸らした。少しだけ、体が強張る。

「遅くない?」

「あ……、お茶なら、さっき燈夜くんが」

 責める口調ではない。ただ、事実を置いているだけ。だというのに、ゆりあの唇はわずかに震え、「ごめん」と紡いだ。

「謝る必要ないよ」

 間を置かず返される。視線を上げると、首を傾げていた。

「どうせできないんだから、最初から期待してないって」

 言いながら、ふっと笑う。

「ね、ゆりちゃん」

 名前の呼び方だけが、やけに柔らかい。昔のまま。ただ無邪気に笑い合っていただけの、幼馴染としての呼び方のまま。

 ゆりあは答えない。

 暁は少しだけ近づいて、ゆりあの顔を覗き込む。声が、ほんの少し低くなる。

「ちゃんとやろうとはしてるよね」

 意外な言葉だった。

 ゆりあは瞬きをする。

「……うん」

 かすかに頷く。

 暁は満足そうに笑った。

「えらいじゃん」

 軽い調子でそう言ってから、すぐに付け足す。

「まあ、結果が出ないなら意味ないけど」

 指先が、ゆりあの顎に触れる。ほんの一瞬。触れたかどうか分からないくらいの距離。

「頑張ってる“だけ”の無能って、一番使えないし」

 囁くように言い、そのまま、すっと手を引いた。

 ゆりあは動けない。暁は興味を失ったみたいに視線を外し、「あ、でも」と振り返りざまに、もう一度だけ言った。

「ゆりちゃんは、俺のとこ来るんだから、いいか」

 ゆりあは目を見開く。

「俺の家なら、ここよりはマシだよ」

 肩をすくめ、暁は続けた。

「無能でも、一応は面倒見てあげるし」

 冗談のような軽い口調。

「そのままじゃ将来、結婚相手にも困るだろうし。まあ、ゆりちゃんが例え子供産んだとしても、その子には家督継がせられないけどね。家同士の関係もあるから正妻にはしてあげるよ」

 ゆりあの喉が、ひどく乾く。

「……あきくんは」

 言いかけて、止まる。

 何を聞くつもりだったのか、自分でも分からない。

 暁は笑った。


「優しいでしょ、俺」


 そう言って、背を向ける。

「じゃ、またね」

 ひらひらと手を振って、そのまま去っていった。遠ざかる足音。静かさが戻った廊下で、ゆりあはただ立ち尽くしていた。


 優しい?


 わからない。でも、

「ここよりは、マシ……」

 視線を落とす。指先が震える。胸の奥にずっしりとした重い何かが乗っかっている感覚。

 本当は分かっている。

 濡れた着物がまた冷えて、ゆりあの熱を奪っていった。

 この地獄に、終わりなんてない。


  昨夜の冷えがそのまま残っているような、澄んだ空気。朝は静かにゆりあを迎えた。いつも通り、襦袢の上から着物に袖を通した後、たすきを掛け、台所に向かって火を起こす。

ーーぬるい。

 昨日の光景が目に浮かんだ。

 釜を火にかけ、湯を沸かす。今日は失敗しない。小さな決意を表明したところで、足音が近づいてくるのに気づいた。

「ゆり」

 振り返ると、軍服に身を包んだ燈夜が立っていた。いつもより早い時間。

「燈夜くん?」

 今日は早番なんだねと言おうとした途端、「準備しろ」と言われる。ゆりあは瞬きをして、「え?」と声をもらした。

「外出るぞ」

 詳細の説明もなく、戸惑うゆりあの手を引く燈夜。

「待って、燈夜くん。一体どこに?」

 戸惑うゆりあに、燈夜は短く答えた。

「軍だ」

 釜の音が、ひときわ大きく鳴ったような気がした。


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