■第2章 第2節:瀕死の黒竜
差し出したポーションは、黒竜の口元に届くことはなかった。距離がある。そもそも人間の手で直接与えられる相手ではない。シャーロットは少しだけ考えてから、容器の中身を地面に落とすように傾けた。透明に近い液体が、黒い鱗のそばに染み込んでいく。
「……これで、どうかな」
小さく呟く。
黒竜は動かない。ただ、その金の瞳だけがシャーロットを捉えたまま、微かに揺れている。呼吸は浅く、かすかに胸が上下しているのが分かる。近くで見るほどに、傷の深さがはっきりと見えてくる。鱗が剥がれ、内部が露出している箇所もある。血はすでに乾きかけているが、それでも量は多い。
(ひどい……)
思わずそう思う。
ここまでの状態で生きていること自体がおかしい。それが率直な感想だった。本来なら、とっくに動かなくなっていてもおかしくない。
それでも、目の前の黒竜は生きている。
「……もう少し、必要かな」
シャーロットはポーチに手を入れる。中に残っているポーションを確認する。市販品の回復薬がいくつか。効果は限定的だ。人間相手でも重傷には足りない。
(足りない、よね)
分かっている。それでも、何もしないよりはいい。
もう一本取り出し、同じように地面へ流す。液体が黒竜の体に触れ、わずかに広がる。変化は、すぐには分からない。
シャーロットはその場に立ったまま、しばらく様子を見る。
時間がゆっくりと流れる。
森の音は相変わらず静かで、周囲に他の気配はない。まるで、この場所だけが切り離されているような感覚だった。
やがて、ほんのわずかに変化があった。
黒竜の呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。
(あ……)
小さく息を飲む。
完全に回復したわけではない。むしろ、変化としては微細なものだ。それでも確かに、状態がほんの少しだけ持ち直している。
「効いてる……?」
自分でも半信半疑だった。
市販のポーションで、これほどの存在に効果が出るとは思っていなかった。ただ、完全に無意味ではなかったらしい。
黒竜の瞳が、わずかに細められる。その動きは小さく、ほとんど見逃しそうになるほどだったが、確かに変化していた。
視線が、ほんの少しだけ柔らぐ。
(……気のせい、かな)
そう思いながらも、シャーロットはもう一歩だけ近づいた。
距離が縮まる。
普通なら、ここで逃げ出してもおかしくない距離だ。だが黒竜は動かない。攻撃の気配もない。ただ、じっとこちらを見ているだけだった。
「もうちょっと、やってみるね」
自然とそう言葉が出る。
誰に許可を取るわけでもない。ただ、自分で決めているだけだ。
シャーロットは再びポーチに手を入れる。残っているポーションはあと少し。これを使い切っても、完全に回復することはないだろう。
それでも、止める理由はなかった。
一本、また一本と使う。
同じように地面へ流し、少しでも触れる範囲を広げる。やり方は雑だ。だが、それでも効果はわずかに積み重なっていく。
呼吸が少しずつ安定していく。
傷の周囲に、ほんのわずかに変化が出る。
劇的な回復ではない。それでも、“死に向かっている状態”からは少しだけ離れている。
「……よかった」
小さく呟く。
完全に助かるとは思っていない。それでも、ほんの少しでも良くなるなら、それでいい。
黒竜の瞳が、再びシャーロットを捉える。
今度はさっきよりもはっきりと。
その視線は、先ほどとは少しだけ違っていた。圧はある。圧倒的な存在感も変わらない。だが、その中にわずかな“変化”が混じっている。
(……見てる)
ただ見るだけではなく、何かを確かめるような視線だった。
シャーロットはそれを受け止めながら、少しだけ首を傾げる。
「……まだ足りない?」
問いかけるように言う。
当然、返事はない。
それでも、視線は逸らされなかった。
「そっか」
小さく頷く。
足りないのは分かっている。今のやり方では、限界がある。ポーションももうほとんど残っていない。
(どうしようかな)
少しだけ考える。
ここでやめることもできる。これ以上は無理だと判断して離れる。それも一つの選択だ。
でも――
(まだ、見えてる)
目の前にいる。
助けられるかどうかは分からない。でも、何もできないわけでもない。
シャーロットは一度だけ深く息を吸う。
「……もうちょっとだけ、やってみる」
静かにそう言う。
黒竜は動かない。ただ、その言葉を聞いているかのように、わずかに目を細めた。
その反応だけで、十分だった。
シャーロットは再びしゃがみ込み、ポーチの中を確認する。残っている材料は少ない。だが、さっき拾った葉がある。
何に使えるかは分からない。
でも、感覚的に“使える”と感じている。
「……これ、混ぜてみようかな」
小さく呟きながら、葉を取り出す。
今度は、少しだけやり方を変える。
ただのポーションでは足りない。
だから、少しだけ“工夫”する。
理屈は分からない。
それでも、やる価値はあると思った。
黒竜の視線を感じながら、シャーロットは静かに手を動かし始める。
それが、ただの回復では終わらない一歩になることを、まだ知らないまま。




