■第2章 第1節:森での遭遇
王都を離れてから、半日ほどが経っていた。街道から外れた森の中は静かで、人の気配はほとんどない。時折、遠くで鳥の鳴く声が聞こえるくらいで、あとは風が葉を揺らす音だけが続いている。
シャーロットは一人で歩いていた。特に目的地があるわけではない。ただ、王都に残る理由もなかったから、なんとなく外へ出ただけだった。
(とりあえず、素材でも探そうかな)
小さく呟く。ポーチの中には最低限の道具と、いくつかのポーションが入っている。生活していくには、何かしらの手段が必要だ。戦うか、作るか、そのどちらか。
今の自分なら、どちらもできる。
森の中を進みながら、視線を落とす。足元の草や小さな花、倒れた木の根元。使えそうなものがないかを探すのは、いつの間にか癖になっていた。
(これ、使えるかも)
しゃがみ込んで、小さな葉を摘み取る。形は見たことがある。名前までは分からないが、感覚的に“使える”と分かる。
「……こんな感じでいいかな」
軽くつぶやきながらポーチに入れる。理屈は分からない。だが、それで問題はなかった。今までも、それでどうにかなってきた。
立ち上がり、また歩き出す。
森の奥へ進むにつれて、空気が少しずつ変わっていく。静かではあるが、どこか張り詰めているような感覚。気のせいではない。何かがある。
シャーロットは足を止める。
(……おかしい)
周囲を見渡す。特に目立った変化はない。だが、違和感がある。生き物の気配が少ない。小動物の動きも、虫の音も、妙に少ない。
「……」
しばらくその場に立ち、耳を澄ます。
すると、かすかに聞こえた。
低い、重い音。何かが擦れるような音と、息を吐くような音が混ざっている。
(あっち……?)
ゆっくりと視線を向ける。森の奥、少し開けた場所の方からだ。普通なら近づかない方がいい。そういう音だと分かる。
それでも、足は止まらなかった。
(……確認だけ)
自分に言い訳をするように、小さく呟く。
慎重に歩を進める。枝を踏まないように、音を立てないように。視線は常に前方へ向けたまま、ゆっくりと距離を詰めていく。
やがて、木々の隙間からその姿が見えた。
大きい。
最初にそう思った。
普通の魔物とは明らかに違う。体躯が桁違いだった。黒い鱗に覆われた体が地面に横たわっている。呼吸は浅く、体のあちこちに傷が見える。
「……え」
思わず声が漏れる。
それが何かを理解するのに、時間はかからなかった。
(ドラゴン……?)
本でしか見たことがない存在だった。しかも、目の前にいるのはただのドラゴンではない。色、質感、存在感。そのどれもが異質だった。
黒竜。
頭の中にその言葉が浮かぶ。
(なんで、こんなところに……)
疑問はいくつも浮かぶ。だが、それよりも先に目に入るものがあった。
傷。
深い。致命傷に近いものもある。普通なら、とっくに動けなくなっていてもおかしくない状態だ。
それでも、生きている。
かすかに、だが確実に呼吸している。
シャーロットはその場に立ったまま、動けなかった。
近づくべきではない。
それは分かる。危険すぎる。相手はドラゴンだ。もし動けば、ひとたまりもない。
それでも――
(……見える)
目の前にある。
助けられるかどうかは分からない。そもそも、人間がどうにかできる存在ではない。
でも、見えている。
シャーロットはゆっくりと一歩、前に出た。
心臓が少しだけ速くなる。それでも足は止まらない。
もう一歩、近づく。
黒竜の目が、わずかに動いた。
開いた。
金色の瞳が、こちらを捉える。
その瞬間、空気が変わった。
圧がかかる。視線だけで押し潰されそうになるような感覚。動けなくなるほどではないが、確実に“格の違い”を感じる。
(あ……)
息が止まりそうになる。
それでも、シャーロットは目を逸らさなかった。
逃げることもできたはずだ。今ならまだ間に合う。そう頭では分かっている。
でも、足は動かなかった。
(……どうしよう)
考える。
助けるのか、離れるのか。
選択は簡単なはずなのに、なぜか迷わなかった。
「……これ、使えるかな」
ポーチに手を入れる。さっき拾った葉を取り出す。まだ何に使えるかも分からない。ただ、なんとなく“いける気がする”だけだ。
理屈はない。
でも、それでいいと思った。
シャーロットは黒竜を見ながら、小さく息を吐く。
「ちょっと、試すね」
誰に向けた言葉かも分からないまま、そう呟いた。
黒竜は何も言わない。ただ、その金の瞳でじっと見ているだけだった。
逃げる気配も、攻撃する気配もない。
ただ、見ている。
それだけで十分だった。
シャーロットはその場にしゃがみ込み、手の中の葉を軽くすり潰す。ポーチから取り出した小さな容器に入れ、少量の水と混ぜる。
手順は適当だ。
いつも通り、感覚でやる。
「……こんな感じで」
小さく呟きながら、簡単なポーションを作る。
完成と言えるほどのものではない。だが、何もしないよりはいい。
シャーロットは立ち上がり、黒竜へと一歩近づく。
距離はまだある。それでも、さっきよりもずっと近い。
「……使うよ?」
確認するように言う。
返事はない。
でも、止められもしなかった。
シャーロットはそのまま、ポーションを黒竜へと向けて差し出した。
それが、すべての始まりだった。




